2001年2月2日金曜日

第60回 雪かきが終わった

 東京に雪が降った。1月20日と27日、2週間連続で土曜日にたくさん降った。3年ぶりの大雪らしい。どちらも日曜日には晴れて気温も上がったが、わたしが所属するチームのリーグ戦最後の2試合、優勝がかかった大事な試合が中止になった。

 しかし、1月21日日曜日、国立競技場では全日本女子サッカー選手権の決勝が行われた。トラックには雪が積み上げられていたが、ピッチはすばらしい緑色を見せていた。選手たちは、いかんなくテクニックを発揮して、好試合を繰り広げた。この試合を成立させるために、どれだけの人たちが朝早くから雪かきをしたのだろう。

 思い起こせば、わたしも国立競技場の雪かきの手伝いをしたことがある。サッカーを始めてまだ1年もたたないころだ。77年2月11日、アルゼンチンのインデペンディエンテが来日して、日本代表と親善試合をした。あのときは、雪の下は芝生ではあったが緑色ではなく、枯れて土のような色だった。試合の始まるころには晴れて暖かかったにもかかわらず、しかも国立競技場での日本代表の試合だというのに、観客は2万人にも満たなかったと思う。

 わたしがサッカーを始めた時代は、いま思えば日本サッカー界の氷河期だった。しかし、そんなことはわたしにとって、何の問題でもなかった。チームメートといっしょに雪かきをし、代表の試合を見ることはこのうえないしあわせだった。

 そのころわたしは、本当にたくさんの試合をスタジアムでじかに、しかもただで見ることができた。日本リーグ(JSL)や日本代表の試合のたびに、サッカー協会のアルバイトをさせてもらっていたのだ。おもに、試合前やハーフタイムにプログラムを売る仕事だ。試合中はプログラムを買いにくる人がいないので、しっかり特等席にすわってチームメートといっしょにじっくりと試合を見た。それほど観客も少なかった。

 はじめのころは、ずぶのしろうとで、選手の名前もルールさえもよくわからなかったが、あっという間に一人前のサッカーファンになった。サッカーをプレーしていることが、サッカーを見ることをより楽しくし、たくさん試合を見ることが、プレーを上達させた。しかもいつもチームメートといっしょだった。 

 しかし、10年もたつと同年代のチームメートたちは、仕事が忙しくなったり、育児におわれたりして、サッカーから徐々に離れていった。気がつくとチームのなかでひとりだけとびぬけて年上になっていた。十年一日のごとくわたしのサッカーとのかかわりは変わらなかったが、チームメートとの関係は大きく変わっていった。

 自分のトップフィットを維持するため、ひとまわり以上年齢の離れたチームメートといっしょに練習したり試合したりするためには、チームの練習とは別に独自のトレーニングが必要になった。故障も多くなった。リハビリを兼ねたトレーニングを自分で工夫しなければならなかった。食べるものから、生活全体のことまで、独学でいろいろ勉強し、実践した。

 サッカーは、わたしにとっていつも最も楽しくてかけがえのないものだ。しかし、家族に多くのがまんを強い、仕事にも少なからず影響を与えてきた。いつの間にかサッカーは、肩に力を入れてがんばるもので、自分自身への挑戦のようになっていた。

「雪といえば、昔インデペンディエンテが来たとき、雪かきしたね。雪かきが終わって試合が無事にできて感動したねぇ。あのころは奉仕隊でただでいっぱい試合見たね。楽しかったね。わたしたち恵まれてたね。いま思うと感謝の気持ちでいっぱいだよ。
 リーグ戦、優勝めざして、がんばれ! 大原!」

 雪の日に届いたかつてのチームメートからの1通のメールは、わたしを遠いあの日に連れていった。しんしんと積もる雪を部屋のなかから眺めながら、サッカーがただ楽しくて楽しくてしかたなかったころの気持ちを思い出していた。

 3年ぶりのこの大雪は、わたしのチームに3年ぶりのリーグ優勝をもたらしてくれるかどうかは別として、四半世紀におよぶわたしのサッカー人生のあらたな一歩をふみ出すきっかけになってくれるのかもしれない。


 
*エッセイ「ボールと昼寝」は、今回をもって休載いたします。60回の長きにわたりご愛読いただき、ありがとうございました。(筆者+編集部)

2001年1月19日金曜日

第59回 すばらしき習慣

 1月もなかばをすぎた。鏡もちも棚からおろし、正月気分も終わりにして、そろそろ通常モードにもどらなければならない。しかし、年のはじめといえば元日の天皇杯決勝だ。これを見ないと年が明けた気がしないのは、どのサッカーファンも同じだろう。

 ことしのカードはアントラーズ対エスパルス。アントラーズは去年のナビスコカップ、Jリーグを制していて、2000年シーズンの三冠をねらっていた。

 結果は、アントラーズがVゴールでエスパルスを破り、三冠を果たした。なかでも小笠原はチャンピオンシップに続いて、マン・オブ・ザ・マッチを受賞した。アントラーズの1点目の小笠原の判断の早いフリーキックと、3点目のボレーシュートは文句のつけようもなくすばらしいものだった。小笠原はまちがいなく2000年シーズンで大きく成長したことを示した。

 しかし、わたしはアントラーズの優勝を心から祝福することはできない。2点目をどうしても認めることはできないのだ。後半はじまってすぐ、エスパルスのゴール前で競り合いがあって市川がペナルティーエリアのなかで倒れた。ボールはハーフウェーラインあたりにいる小笠原まで戻っていた。小笠原は、上体がすっと立ったいつものよい姿勢で、前方を見た。ゴール前に倒れている市川に気がつかないはずはなかった。当然、ボールをタッチラインの外にけり出す場面だった。しかし、そうしなかった。「うそでしょ」。わたしは自分の目を疑った。前方にけられたボールに反応した熊谷がシュートを打ち、はね返りを鈴木が決めた。それがアントラーズの2点目だ。

 前半、アントラーズの鈴木が倒れていたとき、エスパルスがボールを外に出した状況とどこが違うというのだ。

 この習慣がいつごろからだれがはじめたのかは知らない。インプレー中に選手が倒れたら、敵であれ味方であれボールを外に出し、治療を受けさせる。そしてプレー再開となったら、スローインはボールを出した相手に返す。それは審判に言われるわけでなく、ベンチの監督に言われるわけでもない。試合をしている選手たちが判断して、プレーを中断させるのだ。わたしが無知なだけかもしれないが、そういう習慣をもつスポーツをほかに知らない。わたしはサッカーのすばらしい習慣だと思っていた。

 天皇杯の決勝だから、優勝を決めるゴールに結びつく場面だから、勝負がかかっているから、しかたがないのか。ルールに違反しているわけではないから問題ないのか。

 翌日(実際には2日が新聞休刊日なので3日)の新聞には、「鹿島Vゴール、初の3冠」の大きな見出しが踊っていた。わたしはいつも朝日新聞、日本経済新聞、東京新聞、日刊スポーツの4紙を読んでいる。どの新聞もサッカーに関する記事がしっかりと書かれていると信頼していた。

 しかし3日の4紙を見てひどくがっかりした。わたしは「習慣=常識」だと思っていたが、新聞記者の人たちはそうは思っていなかったようだ。どの新聞にもアントラーズの2点目を問題視する記事は出ていなかった。「清水、審判への抗議も検討」(日刊スポーツ)というような、エスパルスサイドのコメントを載せていたり、「反則を犯したわけではないが、ほめられたゴールではない。(中略)しかし、よく言えば、何をしてでも勝つというどん欲な姿勢が、三冠へと導いた」(朝日新聞)と、結局はアントラーズのゴールを肯定するような記事だった。

 わたしは、アントラーズの三冠や小笠原のVゴールが大きな見出しで紙面を飾るべきニュースであるのと同じくらい、「サッカーのすばらしい習慣」は、サッカーを伝えるうえで欠かすことのできない重要なことだと考えている。

 1月10日付「東京新聞」<夕刊>の大住良之さんのコラム、1月10日発売「サッカー・マガジン」の伊東武彦編集長の巻頭コラム、1月17日発売「サッカー・マガジン」の牛木素吉郎さんのコラムを読んですこしほっとした。

 三者三様ではあるが、天皇杯決勝のアントラーズの2点目についての考えが書かれていた。「なるほどな」と思ったり、「わたしとはすこし考えが違うな」と思ったりした。こういうことこそ必要なのではないか。

 アントラーズ・ファンが「勝負とはこういうものだ」と思い、エスパルス・ファンが「抗議に値する」、というのとは別なところに本質があると思うのだ。

 3日売りの新聞に、大住さんや伊東さんや牛木さんのような意見がそれぞれに書かれてあればよかったのにと思う。そうすれば、もっとあの「2点目にいたるプレー」が議論されて、たくさんの人が「サッカーのすばらしい習慣」を知ることになる。

 そしてそれが繰り返されれば、「習慣」から「常識」になっていくのだと、わたしは信じている。