1999年4月30日金曜日

第22回 「サッカー」に忠実な放送が見たい

「ファイナリスト」。なんと誇らしい響きだろう。

 1979年9月7日、国立競技場は満員だった。
 ワールドユース79決勝、アルゼンチン対ソ連はわたしが初めて見た、国と国が世界の頂点をめざして戦う試合だった。ソ連のスピード、ディアスのドリブルからのシュート、マラドーナの一挙手一投足に興奮した。マラドーナのフリーキックにスタジアムは一瞬息をのみ、ゴールした次の瞬間うなりを上げた。全身に鳥肌がたったのを覚えている。
 これが「ワールドユース決勝」というもののわたしの強烈なイメージだった。

 しかし、20年たったいま、日本ユース代表がわたしに新しい1ページを開いてくれた。1999年4月24日(ナイジェリア時間)、ワールドユース99決勝戦。試合前にピッチに入場してくる日本ユース代表は堂々としてファイナリストとしてふさわしいものだった。

 決勝戦にいたるまでの1試合1試合の誇り高い戦いの積み重ねがわたしの心に深く刻み込まれている。現地のスタジアムで応援することはできなかったが、毎試合テレビの生中継があったおかげで、ともに戦い、ともに決勝戦までたどり着いた気にさせてもらった。

 それにしても、4月24日はテレビでサッカー三昧の1日だった。午後1時から日本テレビでヴェルディ-ジェフ戦、午後3時からテレビ朝日でF・マリノス-アントラーズ戦、午後7時からはNHK衛星第一でエスパルス-ジュビロ戦、午後10時からワールドユース3位決定戦、そして日付が変わって25日午前1時からワールドユース決勝、そのあともアビスパ-セレッソ戦を録画でやっていた。

 最近ではほとんどNHK衛星第一でしかJリーグの中継をやらなくなっていたので、おなかをすかせた子供のようにガツガツとむさぼるように見てしまった。こうしてみると、各局工夫を凝らして特徴ある放送にしようとしていることはわかる。しかしそれが正しい方向性であるかどうかははなはだ疑問だ。

 Jリーグとワールドユースの中継では決定的な差がある。それは試合の緊張感だ。リーグ戦とトーナメントでは違うに決まっている。国内リーグと国際試合ならなおさらだ。しかし、試合を見るファンの目が違うところを見ているわけではない。ひとつひとつのプレーに可能性と期待をもって見ているのだ。

 サッカーファンを増やそうと、試合をわかりやすく楽しく伝えようとするあまり、余計なおしゃべりを延々続けたり、演出が過剰になっているのではないか。放送の特徴を出そうとするあまり、解説者やゲストの個性に頼りすぎているのではないか。ともすると、試合の様子が実況者と解説者のおしゃべりの単なる背景になっていて、試合をまったくつまらないものにしている場合が少なくない。

 わたしたちファンはトークショーやバラエティーを見るためにチャンネルを合わせているわけではない。サッカーそのものが見たいのだ。サッカーは45分間ずつの前後半、目を離すことのできないスポーツだ。チェンジもなければ、タイムアウトもない。そんなだれもが知っていることをテレビは理解していないように思える。

 サッカー中継の視聴率がよくないという理由で、制作者はいろいろ工夫するのだろうか。考えてみてほしい。どこのファンが解説者の名前でチャンネルを合わせるだろうか。サッカー中継でサッカーの試合の内容以外にファンを満足させるものはないのだ。

 だからどうかプレーする選手たちを信じて、サッカーというスポーツを信じて、ていねいに忠実に試合を追って放送してほしい。1試合1試合の積み重ねが多くの人のサッカーへの関心を高めることになり、ひとつひとつの小さなプレーを逃さず見せることが、思わぬ大きな感動をよぶこともあると思うのだ。

 ワールドユースの決勝戦は0-4という結果に終わった。前半開始早々に先制点を取られ、前半で0-3。そして後半が始まってすぐに4点目を取られるという展開になったが、「試合は終わった」とテレビを消して寝る気にはなれなかった。日本ユース代表は最後まで試合を捨てることなく攻め続け、遠藤の決定的なボレーシュートや本山のシュートを見せてくれた。20日間で7試合というハードな日程のなか、わたしたちにサッカーの楽しさを見せ続けてくれた日本ユース代表にありがとうといいたい。

1999年4月9日金曜日

第21回 インサイドキックしてみよう

 ナイジェリアでワールドユースが開催されている。
 選手は対戦相手だけでなく、暑さや伝染病の恐怖とも戦わなくてはならなくてたいへんな状況だが、わたしたちファンも午前3時キックオフというのはかなりこたえる。いちど寝て、午前3時に起きて、5時からまた寝るという変則的睡眠不足だ。そうはいっても、代表の試合は生中継で見て応援しないと話にならない。

 ユース世代の各国のレベルはよく知らないが、カメルーン、アメリカ、イングランドといえば強豪のイメージだ。その相手に日本は堂々とした戦いぶりを見せている。睡眠不足も気にならないくらいだ。

 チーム全体でパスをつなぎ、試合を支配し、選手一人ひとりが相手に臆することなく、自信をもってプレーしている。「史上最強」の日本ユース代表なのだから、別にいま驚くことではないのかもしれない。しかしわたしは、本山や酒井のクロス、小野のパス、ひとつひとつのキックそのものに感動してしまうのだ。あんなキックができたらサッカーがいちだんと楽しいに違いない。

 23年前の桜の咲く頃、新入部員として練習に参加して、初めて先輩に教えてもらったのはインサイドキックだった。その前から遊びでボールをけったことはあったが、それはトウキックともインステップキックともいえぬただ足を振り回すだけのものだった。

 けり方はとてもむずかしかったが、パスはこうしてけるのだと教えられ、妙に感動したのを覚えている。「サッカーとはつまり、パスをつないでいくゲームなのだ」。わたしは単にボールをけって走るスポーツだと思っていたのだ。

 それからというもの、わたしはインサイドキックの練習にひたすら取り組んだ。けり足の足首は90度に固定し、立ち足とけり足の足先を90度にしボールをけり、そのまま押し出す。その動作はとても不自然でなかなかスムーズにできなかった。これは体に覚え込ませるしかないと思い、わたしは人目も気にせずいたるところでインサイドキックの素振りに明け暮れた。まるで「ゴルフおじさん」のように電車を待つホームで、ときにはひとりで乗るエレベーターの中で素振りをしていたところ、急にドアがあいて目の前にいる人にびっくりされたりもした。

 恥ずかしい思いは何度もしたが、思ったところにボールがけれるようになるとサッカーが俄然おもしろくなった。当時の女子サッカーはグラウンドの広さが半分だったので、インサイドキックがけれるだけで、かなり「できる気分」になれたのだ。

 その後、読売クラブが日本サッカーに旋風を巻き起こすと「インサイドキックよりアウトサイドキック」という風潮になった。動作の大きいインサイドキックは相手に読まれやすく、走っている動作から自然にけれるアウトサイドキックのほうが有効だというのだ。なるほどと思い練習すると、短い距離のパスは意外と簡単にできた。こんどは素振りというよりはプレーのなかで身につけていった。
 新しいキックをひとつ身につけると、できるプレーも増えていく。

 不思議なもので、いっしょにサッカーを始めた仲間でもわたしほどインサイドキックに執着した者はいなかった。ドリブル、フェイント、遠くまでボールをけることなど、それぞれ興味の対象は違っていた。いま思えば、プレースタイルの原点となっているようでおもしろい。

 最近は、戦術やプレーのコンビネーションなどに関心がいきがちで、ひとつのキックに情熱をかたむけて練習することがなくなっていた。小野のキックは誰にでもできるものではないが、自分のサッカーをひとまわり広げてくれる夢を与えてくれるものだ。久しぶりに「ニュー・キック」に挑戦してみたくなった。

1999年3月26日金曜日

第20回 新しいユニホームは気持ちいい

  この週末はお彼岸の3連休だというのにさんざんな天気だった。冬に戻ったような寒さに加えて冷たい雨が降り、連休最終日は晴れたものの、一日中とんでもない強風に見舞われた。

 わたしのチームは、関東1都5県から13チームが参加するプレシーズンマッチとでもいうべき大会に出場した。この日に合わせて新しいユニホームができあがっていた。それなのになんという天気だ。

 悪条件のなかのデビューだったが、やはり新しいユニホームはうれしい。気持ちがきりりと引き締まる思いがするし、なんといっても今季はいった新しいチームメートとの一体感が得られる。このチームでやっていくぞという新たな闘志がみなぎってくる。

 わたしが初めてユニホームをつくったのは、23年前にさかのぼる。女子のチームがまだ少なくて、どこもチームができて間もないころだ。わたしたちはどんなものを着ていいのかわからなかった。とくにサッカーパンツは悩みの種だった。男子がはいているようなものは、足を振り上げたときに下着が見えてしまうのではないかと心配したのだ。わたしたちはバスケットパンツといわれるジャージー素材のぴたっと体に合ったパンツを選んだ。ブルマーやテニスのスコートをはいているチームもあった。

 ほかの競技を見回すとバレーボール、バスケット、ホッケー、テニスなどは、男子と女子が、同じ競技でありながら必ずしもまったく同じユニホームを着ているわけではない。そう考えるとあながち変な迷いや悩みでもなかったのかもしれない。暗中模索の時代だったのだ。それでも2、3年でだいたい男子と同じような格好になった。

 わたしのチームは最初の8年間はまったく同じユニホームを着続けた。有名メーカーのものではなくて、定番のユニホームだ。シャツもパンツも綿素材で、色があせたり、首や手首のまわりが伸びたりしたが、十分着られた。毎年数人ずつメンバーが入れ替わるクラブチームでは、毎年変わらぬデザインのユニホームが必要なのだ。80年代は全体的にそういう時代だったと思う。しかし、80年代の終わりから90年代にかけて、ユニホームというものが素材、デザインともに画期的に変わっていった。

 ヨーロッパ各国の代表チームはワールドカップと欧州選手権のたびにユニホームのデザインを変えるようになった。それは、ユニホームメーカーが2年ごとに新しいデザインを出して、古いモデルは次々と生産中止することを意味していた。

 それでもわたしのチームは89年から93年までの5年間はやはり定番の2代目のユニホームを着続けた。しかし、体にぴったりしたシャツやパンツのデザインがどうしても古くさくなってしまって、ついに有名メーカーの最新モデルに手を出した。そして、その後の5年間で3回もユニホームを替えるはめになっている。新しくメンバーがはいったとき、追加してユニホームをつくろうとするとすでにメーカーは生産を中止し、どこの店にも売っていないという事態になってしまうのだ。

 外国の代表チームやクラブチーム、Jリーグなどの選手が毎年新しいデザインでかっこいいユニホームを着て登場するのはファンとしてはとても楽しみだ。しかし、何から何まで自分たちのお金で運営しているわたしたちのような町のクラブチームの選手が同じようにできるわけがない。

 ユニホームはとても大切なものだ。試合するふたつのチームを単に区別するだけでなく、チームそのものを表すものだと思う。毎年新品でなくても、上から下まできちんと全員がそろっていることが、なにより必要なことなのだ。

 2年ごとに新しいデザインのユニホームを出すのはけっこうだ。しかし、チーム単位で売ろうというのなら、少なくとも5年間は続けて同じモデルを供給できる体制をつくってもらいたいと思う。ユニホームメーカーはチームを食い物にするのでなく、「サポート」する立場のはずと思うからだ。

第19回 プールで歩き、春を待つ

 冬眠していた虫や動物たちが眠りから覚める季節になった。
 東京の3月は名残り雪が降ったり、強風が吹いて砂嵐が舞ったりしながらも、日に日に強くなっていく日差しが春のおとずれを感じさせてくれる。

 ケガをもっている選手にとって、冬は長くつらい季節だ。ウォーミングアップの時間を人の倍はかけなければならないし、寒さ自体が痛みの大きな原因のひとつであるように思える。試合や練習後のアイシングは肌が凍傷になるのではないかと心配になるほどだ。

 それでもオフの練習やトレーニングを辛抱強くやっていれば、3月の暖かいある日の練習で、こわがらずにのびのびとキックができたり、走ったときの体の軽さを感じることができる。それが、わたしの春の到来なのだ。

 昨シーズンの中盤から、わたしの筋肉はずっとトラブルに悩まされていた。ジャンプすると背筋がつったようになったり、強いキックをするために思い切り足を振り抜くとももの前や後ろに違和感を感じた。鍼や最新式の電気治療を試したがほとんど効果はなかった。

 オフになるとプールに通い始めた。マシントレーニングではかえって筋肉を固くするように思えたからだ。大腿二頭筋や大腿四頭筋、腹直筋や広背筋などをマシンで鍛える方法はどのトレーニング書にも載っているが、プールでの水中トレーニングを扱ったものは見つけられなかった。

 わたしは歩いた。筋肉をリラックスさせるようにイメージしながら、とにかく1時間水中を歩いた。横歩き、後ろ歩き、大股歩き、水の抵抗を利用してヒザから下を意識的に振り出して歩いたりといろいろ変化をつけてはみた。しかし、汗をかかない、息があがらない、筋肉痛にならないなど、成果が目に見えてこない単調なトレーニングは、何度もこれでいいのかと不安になった。

 同じころ、クロアチア・ザグレブに移籍したカズがももの筋肉にハリがあって、チームとは別メニューでプールでトレーニングしていると新聞に報じられていた。もっと詳しくどんなトレーニングをしているのか記事にしてくれればいいのにと思ったが、わたしのやっていることは少なくともまちがっていないと勇気づけられた。

 プールでのウォーキングを1カ月間したあと、マシントレーニングを再開した。いまは筋肉の不安なくマシントレーニングができている。このプールとマシンのトレーニングをほどよく組み合わせていくことが、新シーズンを戦い抜くカギではないかと考え始めている。

 最近、37歳で現役を引退した勝矢寿延さんの長い選手生活を支えたコンディショニングについての記事を読んだ。練習量の多さで有名な選手だった。激しい筋力トレーニングで強い肉体の基礎をつくったのは事実だが、プールでのトレーニングで自分の体の状態がわかるようになり、自然治癒力を高めていったのだそうだ。そして、なにより「35歳を過ぎてからは休養の重要性を考えるようになった」という言葉がわたしの心にひびいた。

 日差しが春の到来を告げ、シーズン開幕まであと1カ月。チームの練習、トレーニング、そして休養。自分にとって最適なバランスを見つけだすことこそ、ことしのテーマかもしれない。

1999年3月12日金曜日

第18回 気分はそろそろ2002年

第18回
気分はそろそろ2002年


 3月6日は99年Jリーグの開幕だ。
 このシーズンオフには、フリューゲルスがマリノスへ吸収合併されたことやベルマーレやヴェルディが主力選手を大量に放出したことによって、多くの選手が移籍した。ジョルジーニョやドゥンガといったチームの柱である選手も帰国した。大幅な戦力ダウンになったチーム、いい補強をしたチームとさまざまだ。

 呂比須、山口、楢崎といった代表クラスの選手を補強したグランパスや合併したFマリノスが、計算どおり強くなるのか。それとも、いままで出る機会のなかった若い選手たちのなかから金の卵が出てくるのか。

 各チームのキャンプ地から、プロ野球のように毎晩テレビニュースで「キャンプ情報」が流れてくれば、開幕に向けてもっと盛り上がると思うのに。

 「歓迎W杯外国チーム キャンプ地に名乗り続々」
 先日の朝日新聞の夕刊のトップ記事だ。2002年ワールドカップで出場チームが大会前や期間中にトレーニングするキャンプ地を日本組織委員会(JAWOC)が募集したところ、名乗りをあげる自治体が相次いでいるというものだ。

 わたしの体内にあるワールドカップ時計は、もちろん4年周期である。基本的には本大会で全財産を使い果たし、次の大会までひたすら働いてお金を貯める。精神的には最初の2年は前大会の余韻を楽しみながら過ごし、あとの2年は各国の予選の状況などを見ながら次の大会に思いをめぐらせるというものだ。1982年からずっとそうやってきた。

 しかし、フランス大会から7カ月しか経っていないというのに、心はもう2002年だ。自国開催の場合はキャンプ地の吟味から始まるのだ。

 JAWOCは1月19日に募集を始め、これから100以上の候補地をリストアップしていくそうで、まだまだ先の長い話なのだが、名乗りをあげそうな主な自治体として新聞に掲載されている市や町を見ているだけで、わたしはわくわくしてくる。

 もしかしたら、2、3試合しかやらない開催都市よりも1チームが20日以上滞在するであろうキャンプ地のほうが、より「ワールドカップ」を体験できるかもしれない。大きなスタジアムをつくる必要がなく、2面以上の芝のグラウンドと雨天練習場とある程度の宿泊施設でよいのだ。そしてそこはサッカー・キャンプのメッカになり、次々と日本国中のサッカー選手が合宿に訪れるようになる。

 2002年にはぜったいにキャンプ地を訪れたい。いままではキャンプ地に行くなんて考えもしなかった。限られた滞在期間でできるだけ多くの試合をみるためには、そんな余裕はなかったのだ。

 フランス大会では18日間の滞在で14試合を見た。パリを拠点として、TGVで片道5時間の日帰りの旅を毎日繰り返したのだ。試合が行われた都市を追ってみると、トゥールーズ、マルセイユ、ナント、パリ、パリ、ナント、ランス、パリ、リヨン、パリ、リヨン、パリ、モンペリエ、サンテチエンヌ。最後のモンペリエ-サンテチエンヌを除くとすべて日帰りだ。かなりハードなスケジュールだがこれもワールドカップの楽しみのひとつだ。

 これを日本に置き換えると思わず笑みがもれてくる。まず、拠点が東京の自分のうちだということ。札幌と大分だけ飛行機を使えば、どれも片道5時間なんてかからない。もちろん大会期間中は毎日どん欲に試合を見る。韓国にだって行ってしまう。

 キャンプ地めぐりはゆっくりと開幕前にするのだ。お気に入りの国にしぼって、余裕をもって訪れる。それはもしかしたら、日本代表の敵情視察になるかもしれない。ああ、なんてしあわせな日々。

 これから3年間というもの、新聞の切り抜きひとつで一瞬のうちに2002年に飛んでしまうのだろう。

 もちろん、Jリーグの開幕は日常的、現実的な喜びとして受け入れている。今シーズンからようやくわが町のクラブ、FC東京がJ2に登場した。ことしからはJ1のトップ争いにも興味をもちつつ、わがチームをサポートしていこう。そして、2002年にFC東京から代表選手がひとりでも出ていたらすばらしいと思う。

 あっ、また心が2002年に飛んでいく。

1999年2月26日金曜日

第17回 「階段」を昇る権利


 昨年の10月29日に「マリノス・フリューゲルス合併」が発表されてから3カ月半の間にいろいろなことがあった。

 フリューゲルスの選手は、残りの試合を精一杯戦うことが、自分たちにできる唯一のことなのだというようにすばらしい戦いを見せ、本当に最後まで勝ち続けて、天皇杯に優勝するという劇的な最後を飾った。

 サポーターたちは、まず団結して合併に反対し、次にはなんとかフリューゲルスの名前を残すためにいろいろな交渉の席についた。そして新しくチームをつくるというところにたどり着いたのだ。
 「横浜FC」と名付けられたそのチームはフリューゲルスになれるのかどうかはわからない。しかし、限られた短い時間のなかで「JFLに参加か?!」というところまで漕ぎ着けたフリューゲルス・サポーターたちの実行力には心から敬意を表し、拍手を送りたい。

 ここのところ「横浜FCのJFL参加の是非」をメディアが報道するたびに、サッカー界のピラミッド式の構造が紹介される。
 底辺に都道府県リーグがあり、その上に地域リーグ、JFL、J2、J1とつながっていく。それはだれもが頂点まで続く「階段」を昇る権利があるということだ。

 わたしがサッカーを始めたころは、女子のサッカー人口は非常に少なくて、都道府県リーグもごくわずかのところでしか行われていなかった。わたしは東京都リーグでのプレーを認められて、日本代表や日本選抜のチャンスを与えられた。

 もちろん、いまの代表のレベルと比べると雲泥の差がある。それでも代表や代表候補の合宿や遠征に参加すると、高い次元で刺激を受け、いままでやったことのないようなプレーができるようになって帰ってきたものだ。少なからずチームにも影響を与えられたのではないかと思っている。

 10年前に現在のL・リーグが天から降ってきたように発足した。頂点であるL・リーグは年々レベルを上げ、日本代表のほとんどがそこから選ばれるようになった。都道府県リーグとL・リーグの間には道も階段もなかった。わたしのチームの次の世代の選手たちは代表や選抜といった目標をもてなくなっていった。

 4年前に関東リーグができた。関東8都県のリーグの優勝チームが集まり、ホームアンドアウェーの2回戦総当たりのリーグ戦を行い、関東リーグの順位がどうあろうとシーズンの終了後には各都県に戻って、各都県リーグの優勝チームと入替戦を行うというものだ。

 4月に始まる新シーズンから、わたしのチームは関東リーグに参加することになった。リーグ運営費や遠征費などの経費の増加もさることながら、グラウンド確保は最も頭の痛い問題だ。年間のスケジュールを確定するために、ホームゲーム7試合分の雨でも使用できるグラウンドを4月には提示しなければならない。それは東京の一介のクラブチームだけの力では不可能なことだ。情熱やがんばりだけではとうてい克服できない問題なのだ。それでも、みんなで話し合ってやってみようと決めた。

 わたしのチームのように何の母体もない、ただの町のクラブチームが上のリーグをめざすとき、東京都協会や女子委員会のバックアップが必要不可欠だ。協力を得るためなら、どこにでも出かけて、どんなつてでも頼って、頭を下げてお願いしたいと思っている。もしわたしたちがこのシーズンを無事に戦い抜くことができたなら、東京都のどんなチームにも上をめざすチャンスがあることを示すことができるのだ。

 選手はいつも楽しくプレーしたい、うまくなりたいと努力し、上をめざす。クラブは選手をよい環境で、高いレベルでプレーさせたいと思う。それを地域が少しでも支えることができれば、少しずつでも底辺を広げ、レベルを上げていくことができるのではないか。

 「横浜FC」もサポーターたちの熱い情熱と各方面からのバックアップがあってここまで来た。しかし、これからは神奈川県協会や横浜市によりいっそうの協力関係を得るための努力をしていく必要があるのだろう。

1999年2月12日金曜日

第16回 どんな環境でも、前を向いて

 今週の「サッカーマガジン」では、高校や大学を卒業した新加入選手や新しいチームに移籍した選手たちが表紙やグラビアを飾っている。慣れないユニホームを着て、ちょっと照れながら、しかし希望に満ちた目をしたその姿は、Jリーグの新シーズンを大いに期待させる。

 しかしその一方で、新シーズンをよりきびしい状況で迎えなければならない選手もいる。マリノスとフリューゲルスの合併やベルマーレなどの大量放出により、例年より多くの選手が移籍し、活動の舞台をJリーグから新しいJ2へ、JFLから地域リーグへと変えざるをえなくなっている。

 L・リーグはもっときびしい状況だ。98年のL・リーグの途中で日興證券とフジタが撤退を発表した。L・リーグはリーグ終了後の理事会で99年からは外国人選手を登録しないなど、規模を縮小して8チームでやっていくことを話し合った。しかし、1月に全日本選手権が終わったとたん、シロキと鈴与清水が次つぎと撤退を発表した。

 鈴与清水は1月18日にシーズンの納会を行い、新しい監督、コーチを発表し、来季へのスタートをきっていたそうだ。撤退の発表は、そのわずか4日後の1月22日のことだった。

 L・リーグは、1989年に初の全国リーグ、日本女子サッカーリーグとして発足した。

 80年代の女子サッカー界をリードしたのは清水第八だった。唯一の全国レベルの大会であった全日本選手権では81年から87年まで7連覇を達成していた。そして80年代後半には、東京の読売ベレーザが急速に力をつけていた。しかし年にいちどの大会ではレベルアップも限りがある。だれもが全国リーグが必要だと感じていた。

 1988年わたしのチームは東京都1部の上位リーグを戦っていた。東京都1部リーグは8チームのうち上位4チーム、下位4チームに分かれて2回戦総当たりを行っていた。そして89年のある日突然、上位リーグ4チームのうち読売ベレーザ、日産レディース、FC小平の3チームが日本リーグへ行ってしまった。当時の混乱ぶりは、その3チームが89年には東京都リーグと日本リーグの両方に参加していたこと、いっしょに戦っていたわたしのチームには日本リーグから何の話もなかったことなどに表れている。

 清水においては、圧倒的な強さを誇っていた清水第八の主力選手がごっそりと清水FCに移籍、後日の清水エスパルスとまったく同じ経過で清水FCが日本リーグに参加することになった。

 関西では全日本選手権で89年準優勝、90年優勝の強豪・高槻女子は結局日本リーグにははいらず解散し、歴史と実力を兼ねそろえた神戸FCと、歴史はあるが全国的にはまったく無名の伊賀上野くノ一が参加した。

 強権を発動したり、かなりの無理をして6チームで始まった日本リーグだが、各チームがスポンサーのバックアップのもと、ワールドクラスの外国人選手を補強し、チームも10まで増え、この10年間で世界でもトップレベルのリーグになった。個々の選手が世界の名だたる選手と練習したり、対戦したりすることによって、急速にレベルアップし、日本代表の強化に果たした役割はいうまでもない。

 リーグのレベルが上がり、規模が大きくなるとともに膨れ上がった経費は1チームあたり年間数億ともいわれ、それが今回の4チーム撤退につながることになった。来季もリーグを存続させるためには、大幅な規模の縮小を余儀なくされ、そのひとつとして各チームが外国人選手を登録しないことを申し合わせたのだ。

 「これは日本代表強化の危機だ」
 日本代表の宮内監督はテレビでこう語った。
 しかし、わたしは必ずしもそうは思わない。

 何人かの選手はより高いレベルを求めて外国へ飛び出すかもしれない。外国リーグでプレーが経験できれば、単に技術の向上だけでなく、サッカー選手としての幅を広げることになると思う。

 たしかに、多くの選手はいままでより悪い環境でサッカーをしなければならなくなる。しかしそれはマイナス面ばかりではない。いままで当然のように与えられていたサッカーへの時間と好環境。しかし、これからそれを苦労してつくり出さなければならなくなったとき、その時間がいとおしく大切に思えるはずだ。いままで以上に集中してサッカーに取り組むようになるのではないだろうか。

 そうできるかどうかで、サッカー選手としての本当の価値が決まる。ここでしっかり踏みとどまって根づいくことができれば、日本代表はいままでにない強さをもつことになるはずだ。

 ことしは日本サッカー変革の年といわれる。凋落の一歩になるか、飛躍の一歩になるか。それはわたしたち選手一人ひとりにかかっていると思う。