チームのつかの間のオフを利用して、7月の終わりの土曜日に、審判4級取得講習会を受講した。97年にも受講して4級審判員の資格を取得していたが、有効期限が2年間だったので取り直したのだ(99年4月1日から「総合登録審判制度」がスタートしたことにより、それ以降に取得した4級審判員の有効期限は1年間になった)。
日本サッカー協会にチーム登録する場合には、必ずチームの所属審判員を1人以上登録しなければならない。そして、わたしはチーム唯一の審判員だ。女子委員会審判部は、「女子の試合は女子の審判で」という目標を掲げて、女子審判員の育成に力を入れている。それで各チームにも、積極的に審判員を育てることを呼びかけている。
6月から7月にかけて開催された女子ワールドカップに、副審として吉澤久恵さんが参加していた。日本代表はグループリーグを1分け2敗という成績で、残念ながら決勝トーナメントに進むことはできなかった。しかし、吉澤さんは開幕戦を含むグループリーグ4試合と準々決勝、準決勝、3位決定戦の7試合に副審として出場した。副審は世界中から15人が選ばれて参加していたが、全32試合のうち7試合に指名されるということは、彼女の評価がいかに高かったかがうかがえる。決勝への出場がならなかったのは、中国が出たからだった。
しかも、開幕戦のアメリカ-デンマーク戦はニューヨークのジャイアンツ・スタジアムで7万8972人、準決勝のアメリカ-ブラジル戦はパロアルトで7万3123人、3位決定戦はロサンゼルスのローズボール・スタジアムで9万185人。日本では想像もつかないくらいの大観衆だった。
「ちょっときわどいオフサイドの判定があったのですが、わたしひとりに向けた7万人のブーイングはすごい迫力がありました。もしかしたらJリーグの審判の方よりすごい経験をしたのでしょうか」
笑いながら淡々と話してくれたが、大きな仕事を成し遂げた充実感と自信に満ちていた。
実は、彼女はわたしの大学の9年後輩にあたる。大学時代はお世辞にも熱心な選手とはいえなかった。練習をさぼって日本リーグの試合を地方まで見に行くこともよくあった。いまでも平気で、「トレーニングは好きじゃないんですよ」といったりする。
審判を始めたきっかけも彼女らしい。日本リーグの観戦仲間のなかに審判をやっている人がいた。ある日その人について行ったところが、審判の人の集まりだった。「この子、これから審判をやるから」と紹介された。思いもかけない言葉だったが、妙に納得して、わたしは審判になるんだと確信したという。1988年、吉澤久恵、大学4年生のときのことだ。
「とにかくサッカーが好きで、サッカーとかかわっていられるのなら、何でもよかったんです。選手より審判のほうが長くできると思ったし。それに、時代もよかったですね」
当時は女子の審判員は少なく、上級を目指す人もほとんどいなかった。彼女が3級審判員になった1990年に女子の日本リーグが始まり、そこで線審(副審)の経験を積み、91年に福岡で行われた第8回アジアカップで国際試合にデビューした。
93年に2級審判員、95年に国際線審になり、現在にいたる。91、93、95、97アジアカップ、94、98アジア大会、95、99ワールドカップなど輝かしい経歴にもかかわらず、気持ちは昔と変わらない。
「サッカーは楽しい。大好きです。だから選手が楽しく試合ができるようにサポートできればいいなと思っています」
終始おだやかだった口調が最後のひとことだけは強くなった。
「トップに長くいることはできません。だからこそ、来年のシドニー・オリンピックだけはどうしても行きたいんです。いまはそれに向けてがんばっています」
選手が上の大会や代表を目指すのと同じように、審判も上を目指すことができる。吉澤さんを目標に、たくさんの審判が育ってくることを期待したい。
わたしも自分の練習や試合の合間を縫って、主審8試合以上、副審5試合以上、合計15試合以上の経験を積んで、ことしこそ3級審判員に挑戦しようと思っている。
1999年8月13日金曜日
1999年7月23日金曜日
第28回 国体を女子サッカー普及のために
暑い夏の日の練習や単調なマシントレーニングをしているとき、わたしはいつも高校時代を思い出す。そうすると、どんな練習も楽しく思えるのだ。
もう20年以上も前、高校生のわたしは、陸上競技部で短距離の選手だった。練習は、グラウンドを使える日は本当にただひたすらトラックを走った。距離とスピードの変化こそあるが、練習の最初から最後までずっと走っていた。天気が悪くてグラウンドを使えない日はウェートトレーニングと校舎の中の階段を何本も駆け上がる練習だ。それらはただただつらく、苦しいものだった。わたしはいつも頭をからっぽにして、練習を消化することだけを考えていた。そんな態度だったから、わたしは全国レベルの選手にはなれなかったのだろう。
わたしの高校から自転車で5分のところに立派な県営総合競技場があった。当時としては最新の全天候性のトラックと芝生のフィールドだ。わたしが高校1年生のときに全国高校総合体育大会(高校総体)、高校3年生のときに国民体育大会(国体)が地元で開催された。メイン会場として開会式や陸上競技を行うために、県営総合競技場を新しく建設していたのだ。
国体開催のおかげで、わたしのようなレベルの選手でも、公式大会だけでなく記録会や練習会までも最新の競技場で走ることができた。練習はつらかったが、試合になると一流選手と同じような雰囲気でトラックを走ることができた。そして、国体強化選手として招待された有名選手と同じトラックを走ることもあった。そういう体験は、高校3年間競技を続けていく原動力にもなっていたように思う。
国体というのは、わたしの高校3年間を通じて、県をあげて準備され、全国の競技者を迎える大きなイベントだったことは間違いない。
女子のサッカーが1997年から「成年女子サッカー」として国体の正式種目となった。ようやく日本体育協会に競技スポーツと認められたという感慨はあるが、この大会の性質はまだよくわからない。原因のひとつが以下のような選手資格にあった。
①アマチュア選手であること。
②高校卒業以上の年齢であること。(成年女子ということから)
③Lリーグ枠は3人まで。(Lリーグのチームに所属する選手もしくはLリーグのチームをやめても3年以内の選手は3人までしか登録できない)
④当該都道府県に在住もしくは在勤在学していなければならない。(これは日本サッカー協会の登録とはまったく別の考え方によるものである)
⑤1チームの登録が選手14人と監督1人(監督と選手を兼ねてもよい)である。
①は問題ないとして、②は現在の女子の登録制度からみて、高校卒業以上というのは適当ではないと思う。男子は1種~4種という年齢別登録があるなかで、少年と成年男子のふたつの部門で行われている。女子はひとつの部門しかないのだから、競技人口や競技レベルを考えても、「女子」として中学以上の年齢とするのが妥当だろう。
③が国体というものを非常にあいまいな大会にしていたと思う。しかし、ことしからはLリーグの選手も人数制限なく登録できることになった。だが実際、どんなチームが出てくるかはわからないが、シーズン真っ最中のLリーグのチームが、リーグ戦の合間に、最高4日連続で試合をする大会に実質15人の登録選手で参加することは考えにくい。ほとんどのチームは参加を考えていないだろう。
それよりも、Lリーグをやめた選手に何の制限もなくなったことが大きな意味をもつと思う。Lリーグには全国から良い選手が集まっている。しかし、Lリーグをやめたあと地元に帰っても、受け入れられるチームがほとんどないのが現状だ。とくにことしは、Lリーグから4チームが撤退したことにより、多くの選手が移籍し、多くの選手がLリーグを離れた。その選手たちをていねいにすくい上げて、意欲をもちながらサッカーを続けられる環境を与えることができれば、これからの国体の意味は大きい。
そのためには④と⑤にも問題がある。
わたしのチームは東京都協会に登録している。チームの構成メンバーはその一員であるにもかかわらず、東京都国体選抜に選ばれる資格のない者が4人もいる。住所も勤め先も学校も東京都にないからだ。
逆に、どのチームにも所属していなくても、住所さえ東京都にあれば選ばれる資格がある。サッカーはチームがなければできないスポーツであるにもかかわらずだ。
「Lリーグをやめた選手が、新しいチームでやる気はないが国体だけならやってもいい」という考えがまかり通ることになる。
国体は、日本のアマチュアスポーツの総本山である日本体育協会が開催する大会である。だから、日本サッカー協会という枠にとらわれず、広く国民が参加できなければならないものなのだそうだ。なかなか日本サッカー協会の考えだけで進めるわけにはいかないのが現状だ。変則的な12チームの参加数とか、選手14人、監督1人という登録人数とか、すべて日本体育協会の枠組みからくるものなのだ。
日本体育協会が広く日本国民に競技スポーツを奨励する趣旨に文句はない。しかし、いろいろな競技があり、それぞれの競技には違った考え方があり、理念のようなものがあるのではないだろうか。
これからの国体の女子サッカーには、底辺拡大のきっかけにつながる大きなイベントになる可能性があると思う。まず日本サッカー協会が女子サッカーの普及を真剣に考えることが必要だ。そして日本体育協会に理解を得られるように働きかけてほしい。
わたしのチームから3人の選手が東京都国体選抜候補として、8月21日から23日に行われるミニ国体(関東地区予選)に向けてがんばっている。彼女たちのがんばりは、わたしたちチームメートに大きな勇気を与えてくれる。
もう20年以上も前、高校生のわたしは、陸上競技部で短距離の選手だった。練習は、グラウンドを使える日は本当にただひたすらトラックを走った。距離とスピードの変化こそあるが、練習の最初から最後までずっと走っていた。天気が悪くてグラウンドを使えない日はウェートトレーニングと校舎の中の階段を何本も駆け上がる練習だ。それらはただただつらく、苦しいものだった。わたしはいつも頭をからっぽにして、練習を消化することだけを考えていた。そんな態度だったから、わたしは全国レベルの選手にはなれなかったのだろう。
わたしの高校から自転車で5分のところに立派な県営総合競技場があった。当時としては最新の全天候性のトラックと芝生のフィールドだ。わたしが高校1年生のときに全国高校総合体育大会(高校総体)、高校3年生のときに国民体育大会(国体)が地元で開催された。メイン会場として開会式や陸上競技を行うために、県営総合競技場を新しく建設していたのだ。
国体開催のおかげで、わたしのようなレベルの選手でも、公式大会だけでなく記録会や練習会までも最新の競技場で走ることができた。練習はつらかったが、試合になると一流選手と同じような雰囲気でトラックを走ることができた。そして、国体強化選手として招待された有名選手と同じトラックを走ることもあった。そういう体験は、高校3年間競技を続けていく原動力にもなっていたように思う。
国体というのは、わたしの高校3年間を通じて、県をあげて準備され、全国の競技者を迎える大きなイベントだったことは間違いない。
女子のサッカーが1997年から「成年女子サッカー」として国体の正式種目となった。ようやく日本体育協会に競技スポーツと認められたという感慨はあるが、この大会の性質はまだよくわからない。原因のひとつが以下のような選手資格にあった。
①アマチュア選手であること。
②高校卒業以上の年齢であること。(成年女子ということから)
③Lリーグ枠は3人まで。(Lリーグのチームに所属する選手もしくはLリーグのチームをやめても3年以内の選手は3人までしか登録できない)
④当該都道府県に在住もしくは在勤在学していなければならない。(これは日本サッカー協会の登録とはまったく別の考え方によるものである)
⑤1チームの登録が選手14人と監督1人(監督と選手を兼ねてもよい)である。
①は問題ないとして、②は現在の女子の登録制度からみて、高校卒業以上というのは適当ではないと思う。男子は1種~4種という年齢別登録があるなかで、少年と成年男子のふたつの部門で行われている。女子はひとつの部門しかないのだから、競技人口や競技レベルを考えても、「女子」として中学以上の年齢とするのが妥当だろう。
③が国体というものを非常にあいまいな大会にしていたと思う。しかし、ことしからはLリーグの選手も人数制限なく登録できることになった。だが実際、どんなチームが出てくるかはわからないが、シーズン真っ最中のLリーグのチームが、リーグ戦の合間に、最高4日連続で試合をする大会に実質15人の登録選手で参加することは考えにくい。ほとんどのチームは参加を考えていないだろう。
それよりも、Lリーグをやめた選手に何の制限もなくなったことが大きな意味をもつと思う。Lリーグには全国から良い選手が集まっている。しかし、Lリーグをやめたあと地元に帰っても、受け入れられるチームがほとんどないのが現状だ。とくにことしは、Lリーグから4チームが撤退したことにより、多くの選手が移籍し、多くの選手がLリーグを離れた。その選手たちをていねいにすくい上げて、意欲をもちながらサッカーを続けられる環境を与えることができれば、これからの国体の意味は大きい。
そのためには④と⑤にも問題がある。
わたしのチームは東京都協会に登録している。チームの構成メンバーはその一員であるにもかかわらず、東京都国体選抜に選ばれる資格のない者が4人もいる。住所も勤め先も学校も東京都にないからだ。
逆に、どのチームにも所属していなくても、住所さえ東京都にあれば選ばれる資格がある。サッカーはチームがなければできないスポーツであるにもかかわらずだ。
「Lリーグをやめた選手が、新しいチームでやる気はないが国体だけならやってもいい」という考えがまかり通ることになる。
国体は、日本のアマチュアスポーツの総本山である日本体育協会が開催する大会である。だから、日本サッカー協会という枠にとらわれず、広く国民が参加できなければならないものなのだそうだ。なかなか日本サッカー協会の考えだけで進めるわけにはいかないのが現状だ。変則的な12チームの参加数とか、選手14人、監督1人という登録人数とか、すべて日本体育協会の枠組みからくるものなのだ。
日本体育協会が広く日本国民に競技スポーツを奨励する趣旨に文句はない。しかし、いろいろな競技があり、それぞれの競技には違った考え方があり、理念のようなものがあるのではないだろうか。
これからの国体の女子サッカーには、底辺拡大のきっかけにつながる大きなイベントになる可能性があると思う。まず日本サッカー協会が女子サッカーの普及を真剣に考えることが必要だ。そして日本体育協会に理解を得られるように働きかけてほしい。
わたしのチームから3人の選手が東京都国体選抜候補として、8月21日から23日に行われるミニ国体(関東地区予選)に向けてがんばっている。彼女たちのがんばりは、わたしたちチームメートに大きな勇気を与えてくれる。
1999年7月9日金曜日
第27回 指導者が足りない
「イタリア・リーグに初の女性監督」
先日の朝日新聞夕刊で、上記の見出しとクラブのマフラーを首にかけ堂々と歩く女性の写真に目を奪われた。
カロリーナ・モラーチェ、35歳。80年代から90年代にかけての女子サッカー界のスーパースターだ。代表における105得点/150試合はエリザベッタ・ビニョット(107/110=イタリア)、ミア・ハム(107/172=アメリカ)に次ぐものだ。
今季、イタリア・リーグ・セリエCの「ビテルベーゼ」の監督に就任した。女子チームではない。れっきとした男子のプロチームだ。日本でいえば、JFLのチームの監督といったところだろうか。
1981年9月。「ポートピア81 国際女子サッカー」と銘打った、日本で初めての国際大会がイタリア、イングランド、デンマークを招待して開催された。
9月9日、東京・西が丘サッカー場で行われた日本代表対イタリア代表に、わたしは出場した。自分のチームではFWしかやったことがなかったが、初めての国際試合でのポジションはストッパーだった。相手チームのエースを抑える役割だ。守備の技術はまるでなかったが、足の速さと負けず嫌いの性格を買われたのだと思う。
相手のエースはエリザベッタ・ビニョット、「女クライフ」と呼ばれ、当時の世界ナンバーワン・プレーヤーだった。守りのシステムなんてなかった。わたしは、ただビニョットについてまわった。足の速さには自信があったが、一瞬の速さでことごとく置いていかれた。試合を通じて、わたしはビニョットの横顔と背中もしくはお尻しか見ていなかったように思う。
試合中たったいちどだけ、わたしはビニョット以外の選手と対峙した。17歳のカロリーナ・モラーチェだ。ゴール正面、ペナルティーエリアのラインあたりから打ったモラーチェのシュートがわたしのみぞおちを直撃した。数秒間、まったく息ができなかった。次の瞬間、苦しさにのたうちまわった。記念すべき初代表試合のテレビ放映で、唯一わたしが大写しになったのは、そんな場面だった。
結果は0-9で負け。赤ん坊と大人の差があった。しかしそれは、イタリアと日本の女子サッカーの歴史の差でもあった。ヨーロッパでは70年代から国同士の選手権大会が行われていたのだ。
その後、日本も徐々に国際試合の経験を積んだ。そして86年9月、ビニョットとモラーチェを擁するイタリア代表をふたたび招待した。2試合行い、結果は1-2と2-3。敗れはしたものの、守備はしっかり組織され、攻撃は何度も相手ゴールを脅かした。互角に戦う日本代表の姿はまさに5年間の成長を示していた。
80年代後半には、アメリカ、中国、ブラジルといった大国が代表を組んで試合を始めた。そして91年、ついに第1回女子ワールドカップが中国で開催される。
日本は第1回中国大会、第2回スウェーデン大会と出場し、初めて正式種目となったアトランタ・オリンピックにも参加して、世界レベルの力を示してきた。そして、80年代から活躍してきた選手たちは、96年のアトランタ・オリンピック出場を区切りに代表チームを去った。
半数が入れ替わり若い世代になった新しい日本代表チームは、6月19日から7月10日にかけてアメリカで開催された第3回ワールドカップに出場した。
しかし、日本代表は非常にきびしい戦いを強いられた。いままでの12チームから16チームの参加になった今大会は、グループ2位になってベスト8にはいることが、来年のシドニー・オリンピック出場のために最低必要な条件だったが、初出場のロシアに完敗し、グループ最下位に終わってしまったのだ。
日本代表はこの20年間で確実に成長してきた。しかし日本女子サッカー界全体が同じように成長してきたかどうかは疑問だ。ここ数年、登録チーム数は伸び悩み、全日本選手権の都道府県予選の参加チームは逆に減少の傾向にさえある。
日本の女子サッカーの課題はたくさんある。しかし、いま考えなければならないのは、底辺を拡大することだ。もっともっとチーム数を多くし、競技人口を増やすことが必要だ。それにともなってもっと多くの指導者が必要になる。これこそわたしたちがいま真剣に取り組まなければならない問題なのだ。
この20年間で日本の女子サッカー界は多くの優秀な選手を輩出してきた。しかし、そのなかからどれだけの人数のコーチが生まれているのだろうか。
モラーチェは78年に14歳でリーグにデビューし、98年に34歳で現役を引退後、ラツィオの女子チームの監督になった。
先日の朝日新聞夕刊で、上記の見出しとクラブのマフラーを首にかけ堂々と歩く女性の写真に目を奪われた。
カロリーナ・モラーチェ、35歳。80年代から90年代にかけての女子サッカー界のスーパースターだ。代表における105得点/150試合はエリザベッタ・ビニョット(107/110=イタリア)、ミア・ハム(107/172=アメリカ)に次ぐものだ。
今季、イタリア・リーグ・セリエCの「ビテルベーゼ」の監督に就任した。女子チームではない。れっきとした男子のプロチームだ。日本でいえば、JFLのチームの監督といったところだろうか。
1981年9月。「ポートピア81 国際女子サッカー」と銘打った、日本で初めての国際大会がイタリア、イングランド、デンマークを招待して開催された。
9月9日、東京・西が丘サッカー場で行われた日本代表対イタリア代表に、わたしは出場した。自分のチームではFWしかやったことがなかったが、初めての国際試合でのポジションはストッパーだった。相手チームのエースを抑える役割だ。守備の技術はまるでなかったが、足の速さと負けず嫌いの性格を買われたのだと思う。
相手のエースはエリザベッタ・ビニョット、「女クライフ」と呼ばれ、当時の世界ナンバーワン・プレーヤーだった。守りのシステムなんてなかった。わたしは、ただビニョットについてまわった。足の速さには自信があったが、一瞬の速さでことごとく置いていかれた。試合を通じて、わたしはビニョットの横顔と背中もしくはお尻しか見ていなかったように思う。
試合中たったいちどだけ、わたしはビニョット以外の選手と対峙した。17歳のカロリーナ・モラーチェだ。ゴール正面、ペナルティーエリアのラインあたりから打ったモラーチェのシュートがわたしのみぞおちを直撃した。数秒間、まったく息ができなかった。次の瞬間、苦しさにのたうちまわった。記念すべき初代表試合のテレビ放映で、唯一わたしが大写しになったのは、そんな場面だった。
結果は0-9で負け。赤ん坊と大人の差があった。しかしそれは、イタリアと日本の女子サッカーの歴史の差でもあった。ヨーロッパでは70年代から国同士の選手権大会が行われていたのだ。
その後、日本も徐々に国際試合の経験を積んだ。そして86年9月、ビニョットとモラーチェを擁するイタリア代表をふたたび招待した。2試合行い、結果は1-2と2-3。敗れはしたものの、守備はしっかり組織され、攻撃は何度も相手ゴールを脅かした。互角に戦う日本代表の姿はまさに5年間の成長を示していた。
80年代後半には、アメリカ、中国、ブラジルといった大国が代表を組んで試合を始めた。そして91年、ついに第1回女子ワールドカップが中国で開催される。
日本は第1回中国大会、第2回スウェーデン大会と出場し、初めて正式種目となったアトランタ・オリンピックにも参加して、世界レベルの力を示してきた。そして、80年代から活躍してきた選手たちは、96年のアトランタ・オリンピック出場を区切りに代表チームを去った。
半数が入れ替わり若い世代になった新しい日本代表チームは、6月19日から7月10日にかけてアメリカで開催された第3回ワールドカップに出場した。
しかし、日本代表は非常にきびしい戦いを強いられた。いままでの12チームから16チームの参加になった今大会は、グループ2位になってベスト8にはいることが、来年のシドニー・オリンピック出場のために最低必要な条件だったが、初出場のロシアに完敗し、グループ最下位に終わってしまったのだ。
日本代表はこの20年間で確実に成長してきた。しかし日本女子サッカー界全体が同じように成長してきたかどうかは疑問だ。ここ数年、登録チーム数は伸び悩み、全日本選手権の都道府県予選の参加チームは逆に減少の傾向にさえある。
日本の女子サッカーの課題はたくさんある。しかし、いま考えなければならないのは、底辺を拡大することだ。もっともっとチーム数を多くし、競技人口を増やすことが必要だ。それにともなってもっと多くの指導者が必要になる。これこそわたしたちがいま真剣に取り組まなければならない問題なのだ。
この20年間で日本の女子サッカー界は多くの優秀な選手を輩出してきた。しかし、そのなかからどれだけの人数のコーチが生まれているのだろうか。
モラーチェは78年に14歳でリーグにデビューし、98年に34歳で現役を引退後、ラツィオの女子チームの監督になった。
1999年6月25日金曜日
第26回 香港で若い才能が開花した
あれはもう18年も前のことだ。
1981年1月。初めての海外遠征は香港だった。チキン・フットボールリーグ(CFL)選抜の一員として、香港遠征に参加した。
1979年に日本女子サッカー連盟が発足したものの、東京都女子サッカー連盟ができたのが1981年3月、東京都女子サッカーリーグは同年5月から始まった。CFLは、三菱養和会の全面的なサポートを受け、1976年から1980年までの5年間開催された。主に東京と神奈川のチームで、最初は5チームから始まり、最後は9チームが参加していた。
CFL最後のシーズン終了後に香港遠征が行われた。もちろん遠征費は全額自己負担だったし、選手のほとんどが社会人で、それぞれが休暇をとって参加した。しかし、リーグの事務局長でプロ・コーチでもある鈴木良平さん(86-89女子日本代表監督)の指導を受けて1カ月以上前から準備して臨んだ香港代表との2試合は、わたしたちにとっては「国際Aマッチ」だった。
とくに1月4日の第1戦はすごかった。スペイン・ワールドカップ予選アジア第4組の決勝、中国対北朝鮮戦の前座試合だったのだ。香港スタジアムには2万人の観衆がつめかけていた。人で埋まったすり鉢状のスタンドから聞こえる歓声はすごい圧迫感があった。ピッチに立つだけで、全身に鳥肌がたった。
そんなわたしたちの目の前に、数本の日の丸が振られているのが見えた。メインスタンドのまん中に陣取った十数人のグループは、明らかに日本から応援に来ている人たちだった。「ニッポン、チャ、チャ、チャ」の声は、香港代表を応援する大歓声のなかにあっても、直接わたしたちの胸にひびいた。わたしたちは1-0で勝利した。
実はそのグループは、日本のサポーターの草分け的存在である「日本サッカー狂会」の人たちだった。ワールドカップ予選を戦う日本代表の応援に来ていたのだ。残念なことに、日本代表は5日前に行われた準決勝で北朝鮮に延長の末0-1で敗れていた。
当時の日本代表は平均年齢21.5歳という若さで、中盤に風間八宏、金田喜稔、戸塚哲也という技巧派を並べ、左サイドのチャンスメーカーが木村和司という画期的なチームだった。あきらかにそれまでの日本代表とは違う雰囲気をもっていた。その攻撃の多彩さは見るものをわくわくさせた。
わたしたちが香港に滞在している間中、テレビでは繰り返しワールドカップ予選のダイジェストを放送していたが、決勝に進出した中国や北朝鮮よりもはるかに多く、日本代表のプレーが映し出されていた。木村和司のフリーキック、金田の突破、戸塚のドリブル、風間のスルーパスなど、ひとつひとつのプレーが香港の人たちを驚かせ、魅了したようだ。おかげでわたしたちも香港の人たちに温かく見守られ、いいプレーには拍手してもらった。町のレストランでは「アナタタチ、ウマイネ」と日本語で声をかけられたりもした。
それから4年半 ─── 。
このときの日本代表がベースになって、メキシコ・ワールドカップ・アジア最終予選で日本中を熱狂させた日本代表チームがつくられる。1985年10月26日、国立競技場を日の丸で埋め尽くした、あの日本対韓国戦は日本サッカー史上に残る大きな出来事になった。
先週香港で圧倒的な力の差を見せた日本オリンピック代表の選手たちは、ちょうどそのころサッカーを始めたのではないだろうか。
香港ラウンドでは登録選手20人全員が試合に出て、多くの可能性を示した。一部の才能に頼るのでなく、たくさんの才能を組み合わせてつくるサッカーはまた香港の人たちを楽しませたに違いない。
いよいよ日本ラウンドが始まる。もっともっと、若い選手たちの才能を見たい。そしてそれを、来年には世界の人たちに見せたい。
1981年1月。初めての海外遠征は香港だった。チキン・フットボールリーグ(CFL)選抜の一員として、香港遠征に参加した。
1979年に日本女子サッカー連盟が発足したものの、東京都女子サッカー連盟ができたのが1981年3月、東京都女子サッカーリーグは同年5月から始まった。CFLは、三菱養和会の全面的なサポートを受け、1976年から1980年までの5年間開催された。主に東京と神奈川のチームで、最初は5チームから始まり、最後は9チームが参加していた。
CFL最後のシーズン終了後に香港遠征が行われた。もちろん遠征費は全額自己負担だったし、選手のほとんどが社会人で、それぞれが休暇をとって参加した。しかし、リーグの事務局長でプロ・コーチでもある鈴木良平さん(86-89女子日本代表監督)の指導を受けて1カ月以上前から準備して臨んだ香港代表との2試合は、わたしたちにとっては「国際Aマッチ」だった。
とくに1月4日の第1戦はすごかった。スペイン・ワールドカップ予選アジア第4組の決勝、中国対北朝鮮戦の前座試合だったのだ。香港スタジアムには2万人の観衆がつめかけていた。人で埋まったすり鉢状のスタンドから聞こえる歓声はすごい圧迫感があった。ピッチに立つだけで、全身に鳥肌がたった。
そんなわたしたちの目の前に、数本の日の丸が振られているのが見えた。メインスタンドのまん中に陣取った十数人のグループは、明らかに日本から応援に来ている人たちだった。「ニッポン、チャ、チャ、チャ」の声は、香港代表を応援する大歓声のなかにあっても、直接わたしたちの胸にひびいた。わたしたちは1-0で勝利した。
実はそのグループは、日本のサポーターの草分け的存在である「日本サッカー狂会」の人たちだった。ワールドカップ予選を戦う日本代表の応援に来ていたのだ。残念なことに、日本代表は5日前に行われた準決勝で北朝鮮に延長の末0-1で敗れていた。
当時の日本代表は平均年齢21.5歳という若さで、中盤に風間八宏、金田喜稔、戸塚哲也という技巧派を並べ、左サイドのチャンスメーカーが木村和司という画期的なチームだった。あきらかにそれまでの日本代表とは違う雰囲気をもっていた。その攻撃の多彩さは見るものをわくわくさせた。
わたしたちが香港に滞在している間中、テレビでは繰り返しワールドカップ予選のダイジェストを放送していたが、決勝に進出した中国や北朝鮮よりもはるかに多く、日本代表のプレーが映し出されていた。木村和司のフリーキック、金田の突破、戸塚のドリブル、風間のスルーパスなど、ひとつひとつのプレーが香港の人たちを驚かせ、魅了したようだ。おかげでわたしたちも香港の人たちに温かく見守られ、いいプレーには拍手してもらった。町のレストランでは「アナタタチ、ウマイネ」と日本語で声をかけられたりもした。
それから4年半 ─── 。
このときの日本代表がベースになって、メキシコ・ワールドカップ・アジア最終予選で日本中を熱狂させた日本代表チームがつくられる。1985年10月26日、国立競技場を日の丸で埋め尽くした、あの日本対韓国戦は日本サッカー史上に残る大きな出来事になった。
先週香港で圧倒的な力の差を見せた日本オリンピック代表の選手たちは、ちょうどそのころサッカーを始めたのではないだろうか。
香港ラウンドでは登録選手20人全員が試合に出て、多くの可能性を示した。一部の才能に頼るのでなく、たくさんの才能を組み合わせてつくるサッカーはまた香港の人たちを楽しませたに違いない。
いよいよ日本ラウンドが始まる。もっともっと、若い選手たちの才能を見たい。そしてそれを、来年には世界の人たちに見せたい。
1999年6月11日金曜日
第25回 女子ワールドカップがはじまる
6月6日日曜日、天気は晴れ、気温は28℃。キリンカップ、日本代表対ペルー代表の試合が行われた横浜国際総合競技場は6万7000の観衆で埋めつくされた。満員のスタジアムはいいものだ。そのなかにいるだけで、なにか起こりそうな気がしてわくわくしてくる。
とくにこの日は、日本にこんなにたくさんのペルーの人たちがいたのかと思うほど、白に「赤だすき」の伝統のユニホームが、アウェーサイドのゴール裏の一角を占めていた。3,000人ほどいたと思われるペルーのサポーターたちは、声を合わせて歌い、国名を連呼し、迫力ある応援を繰り広げていた。気候といい、雰囲気といい、さながらワールドカップの風景だった。2002年には本当にここでワールドカップの試合が行われるのだと感慨にふけりながら、キックオフの笛を聞いた。
キリンカップといえばわたしにはなつかしい思い出がある。
1983年、全国から26人の女子日本代表候補が召集された。千葉県の東京大学検見川合宿所で1週間の合宿練習を行い、最終日にはふたつのチームに分けて紅白試合で締めくくることになっていた。それがキリンカップ83の日本代表対ボタフォゴ戦の前座試合だった。
81年に初めて女子日本代表としてチームを組み、第4回アジアカップ(香港)やポートピア81(日本)に参加し国際試合を経験していたが、それ以降は代表としての活動はなかった。いまのように定期的に国際大会があるわけでもなく、現在アジア・ナンバーワン、世界でもトップ5にはいる中国でさえまだ代表チームをつくってはいなかった。
久しぶりの代表の試合は国際試合ではなかったけれど、初めてあこがれの国立競技場の芝のピッチで試合ができて感激だった。そして、すでに入場していた2,000人以上の観衆がスタンドでわたしたちに声援を送ってくれた、その雰囲気はいまでも忘れられない。自分たちが日本のサッカー界に少しだけ認知された気がして、うれしかった。
80年代の後半からは少しずつ代表チームとして国際大会に出かけるようになった。当時高校生だった本田、木岡、半田らが徐々に経験を積み、高倉、長峯、野田らを加えて日本の女子サッカーを引っ張っていた。そして、91年第1回女子ワールドカップ出場を果たしたのだ。彼女たちの成長はそのまま日本女子サッカーの成長だった。
その後、Lリーグで育った選手を加えて、95年第2回ワールドカップ出場。そして96年には念願のアトランタ・オリンピック出場を果たしたことは、彼女たちのサッカー人生の集大成のようにも思われた。これを境に、80年代前半わたしがいっしょにプレーした選手はすべて代表チームからいなくなった。
6月3日木曜日。キリンカップ、国立競技場での日本代表対ベルギー代表戦の前座として女子の日本代表対韓国代表の試合が組まれていた。第3回女子ワールドカップへの壮行試合でもあるこの試合に、前座であるにもかかわらず1万8000人の観客が声援を送った。
ワールドカップには出場しない韓国代表に押し込まれるシーンも多く見られ、準備万端とはいかないようだった。しかし、サポーターの後押しを受けて、徐々にリズムを取り戻し、最後には逆転で勝利を収めた。どんな相手であれ、劣勢をはねのけた勝利はこれからの自信となることだろう。
6月19日からアメリカ各地で始まる第3回女子ワールドカップは、地元アメリカ以外の試合でも前売り券がすでに1試合平均1万4000枚以上売れていると聞いた。日本代表が、高い技術でパスをつなぎ攻撃するサッカーを見せて観客を味方につけ、快進撃することを期待したい。
ところで、壮行試合で先制点をアシストしたMF柳田美幸、1得点1アシストと逆転勝利の起爆剤となったMF小林弥生は、ほんの2年前まで東京都リーグで優勝をかけて戦った間柄でもある。そう考えるとわたしもまだまだ捨てたもんじゃない!?
とくにこの日は、日本にこんなにたくさんのペルーの人たちがいたのかと思うほど、白に「赤だすき」の伝統のユニホームが、アウェーサイドのゴール裏の一角を占めていた。3,000人ほどいたと思われるペルーのサポーターたちは、声を合わせて歌い、国名を連呼し、迫力ある応援を繰り広げていた。気候といい、雰囲気といい、さながらワールドカップの風景だった。2002年には本当にここでワールドカップの試合が行われるのだと感慨にふけりながら、キックオフの笛を聞いた。
キリンカップといえばわたしにはなつかしい思い出がある。
1983年、全国から26人の女子日本代表候補が召集された。千葉県の東京大学検見川合宿所で1週間の合宿練習を行い、最終日にはふたつのチームに分けて紅白試合で締めくくることになっていた。それがキリンカップ83の日本代表対ボタフォゴ戦の前座試合だった。
81年に初めて女子日本代表としてチームを組み、第4回アジアカップ(香港)やポートピア81(日本)に参加し国際試合を経験していたが、それ以降は代表としての活動はなかった。いまのように定期的に国際大会があるわけでもなく、現在アジア・ナンバーワン、世界でもトップ5にはいる中国でさえまだ代表チームをつくってはいなかった。
久しぶりの代表の試合は国際試合ではなかったけれど、初めてあこがれの国立競技場の芝のピッチで試合ができて感激だった。そして、すでに入場していた2,000人以上の観衆がスタンドでわたしたちに声援を送ってくれた、その雰囲気はいまでも忘れられない。自分たちが日本のサッカー界に少しだけ認知された気がして、うれしかった。
80年代の後半からは少しずつ代表チームとして国際大会に出かけるようになった。当時高校生だった本田、木岡、半田らが徐々に経験を積み、高倉、長峯、野田らを加えて日本の女子サッカーを引っ張っていた。そして、91年第1回女子ワールドカップ出場を果たしたのだ。彼女たちの成長はそのまま日本女子サッカーの成長だった。
その後、Lリーグで育った選手を加えて、95年第2回ワールドカップ出場。そして96年には念願のアトランタ・オリンピック出場を果たしたことは、彼女たちのサッカー人生の集大成のようにも思われた。これを境に、80年代前半わたしがいっしょにプレーした選手はすべて代表チームからいなくなった。
6月3日木曜日。キリンカップ、国立競技場での日本代表対ベルギー代表戦の前座として女子の日本代表対韓国代表の試合が組まれていた。第3回女子ワールドカップへの壮行試合でもあるこの試合に、前座であるにもかかわらず1万8000人の観客が声援を送った。
ワールドカップには出場しない韓国代表に押し込まれるシーンも多く見られ、準備万端とはいかないようだった。しかし、サポーターの後押しを受けて、徐々にリズムを取り戻し、最後には逆転で勝利を収めた。どんな相手であれ、劣勢をはねのけた勝利はこれからの自信となることだろう。
6月19日からアメリカ各地で始まる第3回女子ワールドカップは、地元アメリカ以外の試合でも前売り券がすでに1試合平均1万4000枚以上売れていると聞いた。日本代表が、高い技術でパスをつなぎ攻撃するサッカーを見せて観客を味方につけ、快進撃することを期待したい。
ところで、壮行試合で先制点をアシストしたMF柳田美幸、1得点1アシストと逆転勝利の起爆剤となったMF小林弥生は、ほんの2年前まで東京都リーグで優勝をかけて戦った間柄でもある。そう考えるとわたしもまだまだ捨てたもんじゃない!?
1999年5月28日金曜日
第24回 リーグ戦を戦い抜くということ
きょうの東京の最高気温は31.9度だったそうだ。5月としては過去最高らしい。暑いはずだ。「サッカーするには最高の季節になったね」と、つい最近言ったような気がするが、そんな季節はあっという間に過ぎていく。
今週の日曜日も暑かった。わたしは、前期リーグ戦の山場ともいうべき試合をアウェーで戦っていた。わたしのチームはことしから関東リーグに参加している。初出場ではあるが、優勝という目標をもっている。優勝するからには、どのチームにも負けるわけにはいかない。そう思って戦ってきた。しかしこの日、リーグ戦5戦目にして初めての1敗を喫してしまった。
ショックだった。試合後、反省というよりグチがつぎつぎと出た。
「急に暑くなったから、体が動かなかった」「失点したときは、マークの指示が悪かった」「中盤がしっかり当たらないから、いい球を前線にいれられた」「DFの押し上げが悪かったので、攻撃にならなかった」「FWがしっかりキープしないから、どんどん攻められた」「審判にPKを取られたのでキレた」
勝っているときは問題にならないことが、負けたとたんに吹き出してくる。べつに言い争うわけではないが、不信感がチームのなかに渦巻いている感じだった。
いつもなら、帰り道の運転や、夕飯の支度をしたり食事をしている間に、頭のモードが切り替わっていくのだが、その日は昼間の試合のことがまったく頭を離れなかった。こんなときは寝てしまうにかぎるのだが、前夜に行われたFAカップ決勝のビデオを、試合結果を知る前に生放送気分で見ることにしていたし、11時半からはペルージャのセリエA残留をかけた最終戦がライブで放送されることになっていた。寝るわけにはいかなかった。
FAカップ決勝は期待どおりすばらしい試合だった。マンチェスター・ユナイテッドはいつもわたしたちの期待を裏切らない。サッカーが楽しいものだということを十分思い出させてくれる。それはただ強いというだけでなく、見るものをわくわくさせるなにかをもっているからだ。
セリエA最終戦はまた別の目で見ることになる。ペルージャがセリエAに残留できるかどうかがこの一戦にかかっているからだ。結果は1-2で敗れはしたが、他会場の試合結果と総合するとペルージャが残留を決めた。この試合でペルージャに勝ったACミランは優勝を決め、勝ったチームも負けたチームもお祭り騒ぎという奇妙な光景になった。しかし、これがリーグ戦というものだ。最終戦のあとに残るのは、その試合の結果ではなく、リーグ戦34試合の結果なのだ。
シーズン当初、好調なスタートを切った中田に対して、「長いシーズン、疲れが出てくるこれからが正念場だよ。がんばれ」と、生意気にもわたしはテレビに向かって声をかけていた。そんな心配をよそに、チームが勝てないときも、監督が交代するようなことになっても、毎試合中田らしいプレーを見せ続けてくれた。試合ごとにチームメートの信頼を勝ち取り、イタリア人のファンの心をつかんでいくのが感じられた。その積み重ねがセリエA残留につながったのだと思う。
中田のボディバランスはすばらしい。あのスルーパスはイタリア人をもうならせる。しかしわたしは、セリエAという厳しいリーグを1シーズンフルに戦い抜き、セリエA残留に大きく貢献したという点で中田英寿という選手を心から誇りに思う。
ペルージャの試合が終わったのは深夜1時半すぎだった。体は疲れ果てていたが、頭は時間とともにさえてきていた。昼間の試合のことがどうしても頭から離れなかったのだ。
わたしはリーグ戦1試合の結果にとらわれている自分を恥じた。
気持ちを切り替えて、来週の試合のことを考えよう。残りの練習でチームメート同士の信頼も回復できるはずだ。マンチェスター・ユナイテッドのようにとはいかないまでも、楽しくプレーできていたときのイメージを思い出してみよう。
「負け」という経験から何かを学んでいかなければならない。それがリーグ戦を戦うということだからだ。そして、1シーズンを戦い抜いた最終戦のあと、みんなで笑っていたいと思う。
今週の日曜日も暑かった。わたしは、前期リーグ戦の山場ともいうべき試合をアウェーで戦っていた。わたしのチームはことしから関東リーグに参加している。初出場ではあるが、優勝という目標をもっている。優勝するからには、どのチームにも負けるわけにはいかない。そう思って戦ってきた。しかしこの日、リーグ戦5戦目にして初めての1敗を喫してしまった。
ショックだった。試合後、反省というよりグチがつぎつぎと出た。
「急に暑くなったから、体が動かなかった」「失点したときは、マークの指示が悪かった」「中盤がしっかり当たらないから、いい球を前線にいれられた」「DFの押し上げが悪かったので、攻撃にならなかった」「FWがしっかりキープしないから、どんどん攻められた」「審判にPKを取られたのでキレた」
勝っているときは問題にならないことが、負けたとたんに吹き出してくる。べつに言い争うわけではないが、不信感がチームのなかに渦巻いている感じだった。
いつもなら、帰り道の運転や、夕飯の支度をしたり食事をしている間に、頭のモードが切り替わっていくのだが、その日は昼間の試合のことがまったく頭を離れなかった。こんなときは寝てしまうにかぎるのだが、前夜に行われたFAカップ決勝のビデオを、試合結果を知る前に生放送気分で見ることにしていたし、11時半からはペルージャのセリエA残留をかけた最終戦がライブで放送されることになっていた。寝るわけにはいかなかった。
FAカップ決勝は期待どおりすばらしい試合だった。マンチェスター・ユナイテッドはいつもわたしたちの期待を裏切らない。サッカーが楽しいものだということを十分思い出させてくれる。それはただ強いというだけでなく、見るものをわくわくさせるなにかをもっているからだ。
セリエA最終戦はまた別の目で見ることになる。ペルージャがセリエAに残留できるかどうかがこの一戦にかかっているからだ。結果は1-2で敗れはしたが、他会場の試合結果と総合するとペルージャが残留を決めた。この試合でペルージャに勝ったACミランは優勝を決め、勝ったチームも負けたチームもお祭り騒ぎという奇妙な光景になった。しかし、これがリーグ戦というものだ。最終戦のあとに残るのは、その試合の結果ではなく、リーグ戦34試合の結果なのだ。
シーズン当初、好調なスタートを切った中田に対して、「長いシーズン、疲れが出てくるこれからが正念場だよ。がんばれ」と、生意気にもわたしはテレビに向かって声をかけていた。そんな心配をよそに、チームが勝てないときも、監督が交代するようなことになっても、毎試合中田らしいプレーを見せ続けてくれた。試合ごとにチームメートの信頼を勝ち取り、イタリア人のファンの心をつかんでいくのが感じられた。その積み重ねがセリエA残留につながったのだと思う。
中田のボディバランスはすばらしい。あのスルーパスはイタリア人をもうならせる。しかしわたしは、セリエAという厳しいリーグを1シーズンフルに戦い抜き、セリエA残留に大きく貢献したという点で中田英寿という選手を心から誇りに思う。
ペルージャの試合が終わったのは深夜1時半すぎだった。体は疲れ果てていたが、頭は時間とともにさえてきていた。昼間の試合のことがどうしても頭から離れなかったのだ。
わたしはリーグ戦1試合の結果にとらわれている自分を恥じた。
気持ちを切り替えて、来週の試合のことを考えよう。残りの練習でチームメート同士の信頼も回復できるはずだ。マンチェスター・ユナイテッドのようにとはいかないまでも、楽しくプレーできていたときのイメージを思い出してみよう。
「負け」という経験から何かを学んでいかなければならない。それがリーグ戦を戦うということだからだ。そして、1シーズンを戦い抜いた最終戦のあと、みんなで笑っていたいと思う。
1999年5月14日金曜日
第23回 ダイヤモンドの原石に出会う大会
ゴールデンウィークを境に季節は春から初夏へと移る。
5月の連休は、長野県の菅平高原で行われる大会に出場するのが最近の恒例行事となっている。ことしは5月2日から4日までの3日間を菅平で過ごした。
「サッカーマガジン」が主催するこの大会はことしで第12回を迎えた。ほかにも夏休みなどを利用して河口湖、苗場、草津温泉でいろいろな大会が開催されているが、いちばん歴史が古いのがこの大会だろう。
今大会の競技委員長で、長い間サッカーマガジンの編集長だった(いまはもっとえらい役職らしい)千野さんと話をする機会があり、昔話に花が咲いた。サッカーマガジンは女子サッカーにきちんとページを割いて取り上げてくれる雑誌で、とくに草創期の女子サッカー担当だった千野さんはだれよりも理解があった。20年前のわたしのプレーを知る数少ない生き証人のひとりでもある。
わたしのチームが初めて参加したのは、14年前にさかのぼる。まだ女子の大会として独立しておらず、男子の大会の付録のように、9月に行われていた。グラウンドは粘土質で、天気が悪く、どろんこサッカーのイメージだ。参加したのはわずか3チーム。長野の松本レディース、神奈川の相模原サッカークラブとわたしのチームだった。
3チームでは大会のレベルをどうこういう以前の問題だが、ダイヤモンドの原石のような選手もいた。当時14歳だった相模原の丹羽千里だ。高い技術とスピードをもつMFだった。その後、Lリーグのプリマハムや宝塚バニーズで活躍している。
大部由美もダイヤモンドの原石のひとりだ。89年に鳥取の米子コスモスの一員として14歳で参加し、才能が見いだされて、翌年には15歳で日興證券入りした。のちのLリーグや日本代表の活躍は周知のとおりだ。
いくら能力があっても、チームが全国レベルの大会に出場できなければ、なかなか存在を知られることはない。しかし、全国からだれでも参加できるこういう大会があれば、思いがけない才能を発見することもできる。
大会は1988年に正式に第1回サッカーマガジン・レディースカップとしてゴールデンウィークの開催になった。初期のころの優勝チームを見てみると、第1回上野くノ一(現在のプリマハム)、第2回読売ベレーザ(現在のNTVベレーザ)、第3回日興證券、となっている。全国リーグである日本リーグ(Lリーグ)が発足する1年前にこの大会が始まったこともあり、当時の全国レベルへの登竜門でもあったようだ。
その後、徐々にLリーグのチームは参加しなくなったが、チームは増え続け今大会の参加数は63。とくに第5回大会からはグラウンドが芝生になり、それも大きな魅力のひとつになっている。
そしていまや、半田悦子、弘中和子、山田千愛といった少し前まで日本代表として活躍していた選手たちが、監督やコーチとして大会に参加している。3日間で最大8試合という日程のきつさもあり、なかなかゆっくり旧交を温められないのが残念だが、そこには女子サッカーの成長の縮図が見える。わたしのように十年一日のごとく一選手であっても、なにかしら成長していると感じられるのだ。
ことしは偶然にも14年前に対戦した相模原SCと松本レディースのどちらとも試合をした。しかし、相手チームの年齢層が14年前とほとんど変わっていないのに驚いた。当時のメンバーはどうしているのだろう。いま30歳前後になったと思われる彼女たちは、チームの新旧の波に押し流されてしまったのだろうか。サッカーは、たとえ体力が下り坂になったとしても、1年1年の経験で成長していけるものだと思うのに。
新しい原石の発見は楽しい。そしてお互いの成長を確認しあうのはもっと楽しい。
来年はここ10年も全日本選手権から遠ざかっているわたしのチームから原石が発見されるかもしれない。そしてもし、わたしが来年もプレーし続けていることができたら、1年老けたわたしではなく、少しでも前進しているわたしを見せることができるようにがんばりたい。
5月の連休は、長野県の菅平高原で行われる大会に出場するのが最近の恒例行事となっている。ことしは5月2日から4日までの3日間を菅平で過ごした。
「サッカーマガジン」が主催するこの大会はことしで第12回を迎えた。ほかにも夏休みなどを利用して河口湖、苗場、草津温泉でいろいろな大会が開催されているが、いちばん歴史が古いのがこの大会だろう。
今大会の競技委員長で、長い間サッカーマガジンの編集長だった(いまはもっとえらい役職らしい)千野さんと話をする機会があり、昔話に花が咲いた。サッカーマガジンは女子サッカーにきちんとページを割いて取り上げてくれる雑誌で、とくに草創期の女子サッカー担当だった千野さんはだれよりも理解があった。20年前のわたしのプレーを知る数少ない生き証人のひとりでもある。
わたしのチームが初めて参加したのは、14年前にさかのぼる。まだ女子の大会として独立しておらず、男子の大会の付録のように、9月に行われていた。グラウンドは粘土質で、天気が悪く、どろんこサッカーのイメージだ。参加したのはわずか3チーム。長野の松本レディース、神奈川の相模原サッカークラブとわたしのチームだった。
3チームでは大会のレベルをどうこういう以前の問題だが、ダイヤモンドの原石のような選手もいた。当時14歳だった相模原の丹羽千里だ。高い技術とスピードをもつMFだった。その後、Lリーグのプリマハムや宝塚バニーズで活躍している。
大部由美もダイヤモンドの原石のひとりだ。89年に鳥取の米子コスモスの一員として14歳で参加し、才能が見いだされて、翌年には15歳で日興證券入りした。のちのLリーグや日本代表の活躍は周知のとおりだ。
いくら能力があっても、チームが全国レベルの大会に出場できなければ、なかなか存在を知られることはない。しかし、全国からだれでも参加できるこういう大会があれば、思いがけない才能を発見することもできる。
大会は1988年に正式に第1回サッカーマガジン・レディースカップとしてゴールデンウィークの開催になった。初期のころの優勝チームを見てみると、第1回上野くノ一(現在のプリマハム)、第2回読売ベレーザ(現在のNTVベレーザ)、第3回日興證券、となっている。全国リーグである日本リーグ(Lリーグ)が発足する1年前にこの大会が始まったこともあり、当時の全国レベルへの登竜門でもあったようだ。
その後、徐々にLリーグのチームは参加しなくなったが、チームは増え続け今大会の参加数は63。とくに第5回大会からはグラウンドが芝生になり、それも大きな魅力のひとつになっている。
そしていまや、半田悦子、弘中和子、山田千愛といった少し前まで日本代表として活躍していた選手たちが、監督やコーチとして大会に参加している。3日間で最大8試合という日程のきつさもあり、なかなかゆっくり旧交を温められないのが残念だが、そこには女子サッカーの成長の縮図が見える。わたしのように十年一日のごとく一選手であっても、なにかしら成長していると感じられるのだ。
ことしは偶然にも14年前に対戦した相模原SCと松本レディースのどちらとも試合をした。しかし、相手チームの年齢層が14年前とほとんど変わっていないのに驚いた。当時のメンバーはどうしているのだろう。いま30歳前後になったと思われる彼女たちは、チームの新旧の波に押し流されてしまったのだろうか。サッカーは、たとえ体力が下り坂になったとしても、1年1年の経験で成長していけるものだと思うのに。
新しい原石の発見は楽しい。そしてお互いの成長を確認しあうのはもっと楽しい。
来年はここ10年も全日本選手権から遠ざかっているわたしのチームから原石が発見されるかもしれない。そしてもし、わたしが来年もプレーし続けていることができたら、1年老けたわたしではなく、少しでも前進しているわたしを見せることができるようにがんばりたい。
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