長く暑い夏を経験した体は、秋には強くたくましく、そして動きが軽くなっている。毎年この時期に感じることだ。前後がわからないほど日焼けした外観だけではない。つい2、3週間前までは、あえぐように走り回っていたグラウンドもいまは狭く感じられる。
そして10月から始まる後期リーグに突入だ。予定どおりだ。のはずだった。しかし、ことしの夏は予想以上にわたしの体にダメージを与えていたようだ。いまになって、どっと疲れが出ている。リンパ腺が腫れ、微熱が続き、体全体に倦怠感がある。こんなことはいままで経験したことがない。
リーグ戦再開まであと1週間というのに、どうしたことだ。こんなときはとにかく休養だ。体を休めるに限る。しっかり栄養のある食事をし、十分な睡眠をとる。そして、スポーツクラブに行ってストレッチを中心に体をほぐす。熱が下がれば、プールに行ってリフレッシュするのもいいだろう。やらなければならないことが、きちんと整理されてつぎつぎと頭に浮かんでくる。
しかし、実際の生活とはあまりにかけ離れている。現実はというと、仕事に振り回されている。平日の夜の練習のあとにさえ、疲れ切った体を引きずって仕事場に戻り、締め切りに間に合わせるために仕事を片づけている。要領が悪いと朝までかかることもある。サッカー選手の風上にもおけない生活だ。
こんなことで週末の試合にいいプレーができるわけがない。理想と現実のはざまであせり、悶々とする毎日だ。こんなときプロの選手なら、サッカーのことだけを考えて生活すればいいんだろうなあなどと考えているところに衝撃的なニュースが飛び込んできた。
「松下電器女子サッカー部、今季限りで廃部」
高倉麻子が、今シーズンのLリーグ開幕直前の7月に読売ベレーザ(現・NTVベレーザ)から松下電器に移籍したばかりだった。
わたしが日本代表でいっしょにプレーしたのは、1980年代の前半、高倉が中学から高校のころだ。当時高倉は東京都リーグのFCジンナンに所属していたが(のちに読売ベレーザに移籍)、実家は福島県にあり、サッカーのために週末だけ東京に出てきていた。そんな生活は東京の大学に進学するまで続いた。抜群のテクニックとセンスをもち、その華麗なプレーはまぎれもなく、日本のトッププレーヤーだった。
1989年、高倉が大学3年生のとき、日本リーグ(Lリーグ)が始まる。強豪読売ベレーザの主力選手として、つねにチームをひっぱった。大学卒業後はスポーツクラブで働きながらプレーを続けた。
1994年、26歳のときプロ選手となる。
「べつにプロになるためにサッカーをやってきたわけではないし、プロになったという感慨はとくにありませんでした。ただ、26歳という年齢もあったと思いますが、スポーツクラブで仕事をしながら、トップリーグでサッカーを続けていくのは身体的にきついなと思い始めていたころだったので、生活の心配なくサッカーに打ちこめるようになったのはありがたかったですね」
昨シーズン末に4チームが撤退したことで、Lリーグは大きく揺れた。残ったほかのどのチームも同じように状況はきびしいものだったからだ。今シーズンから、外国人選手登録禁止を申し合わせるなど、リーグ存続とチームの生き残りをかけて、各チームは運営に大きくメスをいれた。そのひとつとして、読売ベレーザはプロ選手をもつことをあきらめた。
6月いっぱいで読売との契約が切れた高倉は、いままでと同様の条件を提示してくれた松下電器に移籍することにした。シーズン開幕のわずか5日前のことだった。長年過ごした読売ベレーザに愛着はあったが、松下電器が高倉の力を必要としているのを感じたし、新しい環境でもう一度やってみようと思い、決心した。
「(廃部のニュースは)もちろん、びっくりしました。2カ月半前に移籍し、あっという間に前期リーグが終わり、これからだと思っていましたから・・・。わたしたちは、新聞でニュースを読んだ人と同じです。ただ通達を受け入れるしかないんです。選手としてできることはプレーすることです。残りの試合を一生懸命やります」
「来年のことは、まったく考えていません。Lリーグがどうなるかもわからないし、国内で移籍することはまずできないでしょうね。ただ、このままこういう状況で、なし崩し的にサッカーをやめさせられてしまうのはくやしい。漠然と、外国でプレーしたいという気持ちはあります。プロとかお金とかはどうでもいいんです。レベルの高い、しっかりと組織されたリーグの、きちんとしたチームでサッカーがやりたい」
いま女子のプロと呼べる選手が何人いるかはわからない。そもそも女子のプロなんて早すぎたという考えもあるだろう。しかし、女子サッカーの普及と強化という点で、Lリーグの果たしてきた役割は大きいし、高倉をはじめとする何人かの選手が先頭に立って、日本の女子サッカーを引き上げてきたことは疑いのない事実だ。
「わたしたちはいまのこの状況をどうすることもできない。選手はただプレーするしかないんです」
高倉の言葉が胸にひびいた。
10月2日から始まるLリーグ・後期リーグの松下電器の高倉からは目が離せない。その心意気がチームメートに伝わり、Lリーグ全体に広がることを期待している。
わたしのような選手も環境に流されることなく、きびしく自分を律していきたいと強く思う。さあ、早く仕事を終わらせよう。
1999年9月24日金曜日
1999年9月10日金曜日
第31回 どうしても、見たいっ!
朝晩はめっきり涼しくなってきた。これでようやく、夜ぐっすり眠れる日々が返ってくる。
わたしが住んでいる部屋は集合住宅、いわゆるマンションの一室だ。東側だけに窓があり、西側は玄関。玄関を開けると通路があり、向かいには別の人が住む部屋がある。ようするに外とつながっているのは東側の窓だけなのだ。
窓を開けてもほとんど空気は動かず、夏の夜は寝苦しいことこの上ない。しかも真夏には、午前4時すぎから太陽の光が差し込み、部屋の気温はぐんぐん上がり、7時すぎまではとても寝ていられない。
この部屋との戦いは、なにも夏だけではない。あれは9年前のことだ。
1990年、ワールドカップ・イタリア大会の全52試合をNHKが基本的に生放送で放映することを発表した。画期的な出来事だった。一瞬飛び上がって喜んだあと、地面にたたきつけられた気分になった。それは衛星放送でのことだったのだ。
衛星放送を見るためには、そのためのアンテナとチューナーを購入し、しかもアンテナは西向きに立てなければならない。うちには西向きの窓はない。絶望的な気持ちになって、まずはじめにしたことは、NHKに電話をかけることだった。「なぜ、だれでも見れる総合と教育というふたつのチャンネルをもっているのに、そこで放送しないのか。わたしのマンションは150世帯が住んでいるが、その半分は東向きの部屋なので衛星放送を見ることができない。世の中の半分の人が見れないようなことを、あなたたちは平気でやるのか」と、いささか無理のある理屈で抗議した。しかし、同様の電話はかなりあったらしく、冷静な答えが返ってきた。「総合や教育でも何試合かは録画で放送します。集合住宅でも共同のアンテナをつければ、衛星放送を見ることができます」
やむをえずわたしは強硬手段に出ることにした。屋上に勝手にアンテナをつけてしまおうと考えたのだ。近所の電機屋さんと組んで計画を立てた。計画を成功させるためには、屋上の鍵を持つ管理人さんも巻き込んだ。そして、最後は上の階に住む人たちの許しが必要だった。わたしの部屋は5階建ての2階にある。屋上のアンテナから引いたケーブルは、わたしの部屋にくるまでに5階から3階の部屋のベランダを通過しなければならない。それはけっして見栄えのいいものではなかった。
わたしは、いかにワールドカップがすばらしいものであるか、4年にいちどの大会をどれほど楽しみにしているかなどなど、一人ひとりに熱心に訴えた。そして、ワールドカップが終わったらただちに撤去することを約束して、許可を得たのだった。
夢のような寝不足の1カ月はあっという間に過ぎ、アンテナとチューナーは押し入れにしまわれた。
まもなく、大々的な工事が行われ、わたしのマンションに衛星放送の共同アンテナが立った。1993年Jリーグの開幕とともに圧倒的に増えたサッカー放送を、見たい番組は逃さず堪能することができた。セリエAを見るためにWOWOWにも加入した(WOWOWは同じ衛星放送のアンテナで見ることができる)。先月には、ケーブルテレビの工事が完了し、加入手続きもすませた。それによって、欧州や南米の国の国際Aマッチを見ることができるようになった。なによりケーブルテレビなので、雨などの気象条件の影響を受けない。先日のような激しい雷雨でも画面が乱れることなく楽しめた。ちなみに衛星放送は激しい雷雨の間、まったく画面が映らなかった。
これで、わたしのテレビのサッカー観戦は鬼に金棒、完璧なはずだった。今シーズンは中田に続き名波もセリエAにデビューし、楽しみも2倍と思っていた。そんな矢先に衝撃的なニュースが飛び込んできた。セリエAすべての試合の放映権がスカイパーフェクTV(スカパー)に移ったというのだ。スカパーを見るためには、独自のアンテナを別につけなければならない。アンテナの方向は南南西だ。
2年目の中田はどんなプレーを見せるのだろう。名波のデビューは驚きをもって歓迎されたようだが、イタリアのタフなシーズンを無事戦い抜くことができるのだろうか。ふたりにどんな成長があるだろうか。
どの方角にも窓のある風とおしのよい部屋に引っ越すことしか、わたしの日曜日の夜の楽しみを取り戻す方法はないのだろうか。こんなことを考えて、わたしの眠れぬ日々がまた続いてしまう。
わたしが住んでいる部屋は集合住宅、いわゆるマンションの一室だ。東側だけに窓があり、西側は玄関。玄関を開けると通路があり、向かいには別の人が住む部屋がある。ようするに外とつながっているのは東側の窓だけなのだ。
窓を開けてもほとんど空気は動かず、夏の夜は寝苦しいことこの上ない。しかも真夏には、午前4時すぎから太陽の光が差し込み、部屋の気温はぐんぐん上がり、7時すぎまではとても寝ていられない。
この部屋との戦いは、なにも夏だけではない。あれは9年前のことだ。
1990年、ワールドカップ・イタリア大会の全52試合をNHKが基本的に生放送で放映することを発表した。画期的な出来事だった。一瞬飛び上がって喜んだあと、地面にたたきつけられた気分になった。それは衛星放送でのことだったのだ。
衛星放送を見るためには、そのためのアンテナとチューナーを購入し、しかもアンテナは西向きに立てなければならない。うちには西向きの窓はない。絶望的な気持ちになって、まずはじめにしたことは、NHKに電話をかけることだった。「なぜ、だれでも見れる総合と教育というふたつのチャンネルをもっているのに、そこで放送しないのか。わたしのマンションは150世帯が住んでいるが、その半分は東向きの部屋なので衛星放送を見ることができない。世の中の半分の人が見れないようなことを、あなたたちは平気でやるのか」と、いささか無理のある理屈で抗議した。しかし、同様の電話はかなりあったらしく、冷静な答えが返ってきた。「総合や教育でも何試合かは録画で放送します。集合住宅でも共同のアンテナをつければ、衛星放送を見ることができます」
やむをえずわたしは強硬手段に出ることにした。屋上に勝手にアンテナをつけてしまおうと考えたのだ。近所の電機屋さんと組んで計画を立てた。計画を成功させるためには、屋上の鍵を持つ管理人さんも巻き込んだ。そして、最後は上の階に住む人たちの許しが必要だった。わたしの部屋は5階建ての2階にある。屋上のアンテナから引いたケーブルは、わたしの部屋にくるまでに5階から3階の部屋のベランダを通過しなければならない。それはけっして見栄えのいいものではなかった。
わたしは、いかにワールドカップがすばらしいものであるか、4年にいちどの大会をどれほど楽しみにしているかなどなど、一人ひとりに熱心に訴えた。そして、ワールドカップが終わったらただちに撤去することを約束して、許可を得たのだった。
夢のような寝不足の1カ月はあっという間に過ぎ、アンテナとチューナーは押し入れにしまわれた。
まもなく、大々的な工事が行われ、わたしのマンションに衛星放送の共同アンテナが立った。1993年Jリーグの開幕とともに圧倒的に増えたサッカー放送を、見たい番組は逃さず堪能することができた。セリエAを見るためにWOWOWにも加入した(WOWOWは同じ衛星放送のアンテナで見ることができる)。先月には、ケーブルテレビの工事が完了し、加入手続きもすませた。それによって、欧州や南米の国の国際Aマッチを見ることができるようになった。なによりケーブルテレビなので、雨などの気象条件の影響を受けない。先日のような激しい雷雨でも画面が乱れることなく楽しめた。ちなみに衛星放送は激しい雷雨の間、まったく画面が映らなかった。
これで、わたしのテレビのサッカー観戦は鬼に金棒、完璧なはずだった。今シーズンは中田に続き名波もセリエAにデビューし、楽しみも2倍と思っていた。そんな矢先に衝撃的なニュースが飛び込んできた。セリエAすべての試合の放映権がスカイパーフェクTV(スカパー)に移ったというのだ。スカパーを見るためには、独自のアンテナを別につけなければならない。アンテナの方向は南南西だ。
2年目の中田はどんなプレーを見せるのだろう。名波のデビューは驚きをもって歓迎されたようだが、イタリアのタフなシーズンを無事戦い抜くことができるのだろうか。ふたりにどんな成長があるだろうか。
どの方角にも窓のある風とおしのよい部屋に引っ越すことしか、わたしの日曜日の夜の楽しみを取り戻す方法はないのだろうか。こんなことを考えて、わたしの眠れぬ日々がまた続いてしまう。
1999年8月27日金曜日
第30回 力強さと、バランスと
これが最後の暑さだとばかり、夏の太陽が強い日差しを送り続けている。あと1週間もすれば、朝晩には風も出てくるのだろう。サッカーをやる身にはつらい季節だが、もう少しの辛抱だ。
夏を境にして、シーズンの前半が終わる。
昨シーズンは筋肉のトラブルに悩まされ続けた。背筋や大腿四頭筋や大腿二頭筋にいつも違和感があって、爆弾をかかえている感じだった。それを克服するために、ことしのシーズン前からプールのトレーニングを始めた。自己流ではあるが、筋肉をほぐすことと水の抵抗を利用した筋力アップというふたつの相反すると思われる要素を、きちんと分けながら強いイメージをもって取り組んだ。
ただ、マシントレーニングほど体型に変化が表れるわけではないので、このまま続けていいのかどうか半信半疑だった。体重が増えるわけでも減るわけでもなく、体脂肪率が変化するわけでもなかった。
しかし、シーズンを半分終えてみて、ここ数年のなかで、筋肉の状態がいちばんいいということを実感している。筋肉をほぐすという点で、プールのトレーニングは明らかに効果があった。長年悩まされてきたヒザ関節の痛み、足の指の疲労骨折、いろいろな筋肉の痛み、肉離れの恐怖などから、いまは開放されている。
本当はもっともっとサッカーがうまくなりたいと思っていたのに、ケガのことばかり気になった。痛みの出ないテーピングをいろいろ試したり、痛くないけり方を工夫したり、痛みが消えるトレーニングを研究したりした。そうしなければ、続けられなかったのだから仕方なかったが、ときどき何を目的にしているのかわからなくなるときがあった。
先日、ジュビロ磐田の中山選手のインタビュー記事を読んだ。
「現在の力を維持しようと思ったときに、下降が始まっている。常に上へ上へと目指して、ぎりぎりのところまで自分を追い込んで、やっと維持できるんです」
わたしは、ずっと維持しようと努力してきたけれど、どんどん下降線をたどっていたんだなと思った。だが、いまからでも遅くはない。痛みから開放されているいまがチャンスなのだ。
たとえば、長い距離の強いパスを正確にけりたいと思う。それができれば、自分自身のプレーの幅が広がり、チームとしても一歩前進するきっかけになるかもしれない。必要なのは強い筋力と体全体のバランスだ。こういった具体的な目的やプレーをイメージして、筋力アップのトレーニングをしていきたいと思っている。
そしてわたしには、もうひとつ明確なイメージがある。
さきごろ行われた女子ワールドカップ決勝で、アメリカが優勝した瞬間、最後のPKを決めたブランディ・チェイスティンが思わずゲームシャツを脱いで喜びを爆発させた。その姿はテレビニュースや新聞で大きくとりあげられ、話題になった。
わたしは新聞に載ったその1枚の写真を見ただけで感動した。そこには、女子サッカー選手の理想の体があった。余分な贅肉はまったくついておらず、筋肉が偏ってついていることもない。バランスよく研ぎ澄まされた肉体だった。
この体が世界の頂点に立つプレーを生むのだ。
チャスティンの体を頭に描きながら、ひとつひとつのプレーとひとつひとつの筋肉を重ね合わせて、トレーニングする。
10月から始まる後期リーグに向けて、わたしは体の改造を始めようと思う。
夏を境にして、シーズンの前半が終わる。
昨シーズンは筋肉のトラブルに悩まされ続けた。背筋や大腿四頭筋や大腿二頭筋にいつも違和感があって、爆弾をかかえている感じだった。それを克服するために、ことしのシーズン前からプールのトレーニングを始めた。自己流ではあるが、筋肉をほぐすことと水の抵抗を利用した筋力アップというふたつの相反すると思われる要素を、きちんと分けながら強いイメージをもって取り組んだ。
ただ、マシントレーニングほど体型に変化が表れるわけではないので、このまま続けていいのかどうか半信半疑だった。体重が増えるわけでも減るわけでもなく、体脂肪率が変化するわけでもなかった。
しかし、シーズンを半分終えてみて、ここ数年のなかで、筋肉の状態がいちばんいいということを実感している。筋肉をほぐすという点で、プールのトレーニングは明らかに効果があった。長年悩まされてきたヒザ関節の痛み、足の指の疲労骨折、いろいろな筋肉の痛み、肉離れの恐怖などから、いまは開放されている。
本当はもっともっとサッカーがうまくなりたいと思っていたのに、ケガのことばかり気になった。痛みの出ないテーピングをいろいろ試したり、痛くないけり方を工夫したり、痛みが消えるトレーニングを研究したりした。そうしなければ、続けられなかったのだから仕方なかったが、ときどき何を目的にしているのかわからなくなるときがあった。
先日、ジュビロ磐田の中山選手のインタビュー記事を読んだ。
「現在の力を維持しようと思ったときに、下降が始まっている。常に上へ上へと目指して、ぎりぎりのところまで自分を追い込んで、やっと維持できるんです」
わたしは、ずっと維持しようと努力してきたけれど、どんどん下降線をたどっていたんだなと思った。だが、いまからでも遅くはない。痛みから開放されているいまがチャンスなのだ。
たとえば、長い距離の強いパスを正確にけりたいと思う。それができれば、自分自身のプレーの幅が広がり、チームとしても一歩前進するきっかけになるかもしれない。必要なのは強い筋力と体全体のバランスだ。こういった具体的な目的やプレーをイメージして、筋力アップのトレーニングをしていきたいと思っている。
そしてわたしには、もうひとつ明確なイメージがある。
さきごろ行われた女子ワールドカップ決勝で、アメリカが優勝した瞬間、最後のPKを決めたブランディ・チェイスティンが思わずゲームシャツを脱いで喜びを爆発させた。その姿はテレビニュースや新聞で大きくとりあげられ、話題になった。
わたしは新聞に載ったその1枚の写真を見ただけで感動した。そこには、女子サッカー選手の理想の体があった。余分な贅肉はまったくついておらず、筋肉が偏ってついていることもない。バランスよく研ぎ澄まされた肉体だった。
この体が世界の頂点に立つプレーを生むのだ。
チャスティンの体を頭に描きながら、ひとつひとつのプレーとひとつひとつの筋肉を重ね合わせて、トレーニングする。
10月から始まる後期リーグに向けて、わたしは体の改造を始めようと思う。
1999年8月13日金曜日
第29回 女子審判もシドニーを目指す
チームのつかの間のオフを利用して、7月の終わりの土曜日に、審判4級取得講習会を受講した。97年にも受講して4級審判員の資格を取得していたが、有効期限が2年間だったので取り直したのだ(99年4月1日から「総合登録審判制度」がスタートしたことにより、それ以降に取得した4級審判員の有効期限は1年間になった)。
日本サッカー協会にチーム登録する場合には、必ずチームの所属審判員を1人以上登録しなければならない。そして、わたしはチーム唯一の審判員だ。女子委員会審判部は、「女子の試合は女子の審判で」という目標を掲げて、女子審判員の育成に力を入れている。それで各チームにも、積極的に審判員を育てることを呼びかけている。
6月から7月にかけて開催された女子ワールドカップに、副審として吉澤久恵さんが参加していた。日本代表はグループリーグを1分け2敗という成績で、残念ながら決勝トーナメントに進むことはできなかった。しかし、吉澤さんは開幕戦を含むグループリーグ4試合と準々決勝、準決勝、3位決定戦の7試合に副審として出場した。副審は世界中から15人が選ばれて参加していたが、全32試合のうち7試合に指名されるということは、彼女の評価がいかに高かったかがうかがえる。決勝への出場がならなかったのは、中国が出たからだった。
しかも、開幕戦のアメリカ-デンマーク戦はニューヨークのジャイアンツ・スタジアムで7万8972人、準決勝のアメリカ-ブラジル戦はパロアルトで7万3123人、3位決定戦はロサンゼルスのローズボール・スタジアムで9万185人。日本では想像もつかないくらいの大観衆だった。
「ちょっときわどいオフサイドの判定があったのですが、わたしひとりに向けた7万人のブーイングはすごい迫力がありました。もしかしたらJリーグの審判の方よりすごい経験をしたのでしょうか」
笑いながら淡々と話してくれたが、大きな仕事を成し遂げた充実感と自信に満ちていた。
実は、彼女はわたしの大学の9年後輩にあたる。大学時代はお世辞にも熱心な選手とはいえなかった。練習をさぼって日本リーグの試合を地方まで見に行くこともよくあった。いまでも平気で、「トレーニングは好きじゃないんですよ」といったりする。
審判を始めたきっかけも彼女らしい。日本リーグの観戦仲間のなかに審判をやっている人がいた。ある日その人について行ったところが、審判の人の集まりだった。「この子、これから審判をやるから」と紹介された。思いもかけない言葉だったが、妙に納得して、わたしは審判になるんだと確信したという。1988年、吉澤久恵、大学4年生のときのことだ。
「とにかくサッカーが好きで、サッカーとかかわっていられるのなら、何でもよかったんです。選手より審判のほうが長くできると思ったし。それに、時代もよかったですね」
当時は女子の審判員は少なく、上級を目指す人もほとんどいなかった。彼女が3級審判員になった1990年に女子の日本リーグが始まり、そこで線審(副審)の経験を積み、91年に福岡で行われた第8回アジアカップで国際試合にデビューした。
93年に2級審判員、95年に国際線審になり、現在にいたる。91、93、95、97アジアカップ、94、98アジア大会、95、99ワールドカップなど輝かしい経歴にもかかわらず、気持ちは昔と変わらない。
「サッカーは楽しい。大好きです。だから選手が楽しく試合ができるようにサポートできればいいなと思っています」
終始おだやかだった口調が最後のひとことだけは強くなった。
「トップに長くいることはできません。だからこそ、来年のシドニー・オリンピックだけはどうしても行きたいんです。いまはそれに向けてがんばっています」
選手が上の大会や代表を目指すのと同じように、審判も上を目指すことができる。吉澤さんを目標に、たくさんの審判が育ってくることを期待したい。
わたしも自分の練習や試合の合間を縫って、主審8試合以上、副審5試合以上、合計15試合以上の経験を積んで、ことしこそ3級審判員に挑戦しようと思っている。
日本サッカー協会にチーム登録する場合には、必ずチームの所属審判員を1人以上登録しなければならない。そして、わたしはチーム唯一の審判員だ。女子委員会審判部は、「女子の試合は女子の審判で」という目標を掲げて、女子審判員の育成に力を入れている。それで各チームにも、積極的に審判員を育てることを呼びかけている。
6月から7月にかけて開催された女子ワールドカップに、副審として吉澤久恵さんが参加していた。日本代表はグループリーグを1分け2敗という成績で、残念ながら決勝トーナメントに進むことはできなかった。しかし、吉澤さんは開幕戦を含むグループリーグ4試合と準々決勝、準決勝、3位決定戦の7試合に副審として出場した。副審は世界中から15人が選ばれて参加していたが、全32試合のうち7試合に指名されるということは、彼女の評価がいかに高かったかがうかがえる。決勝への出場がならなかったのは、中国が出たからだった。
しかも、開幕戦のアメリカ-デンマーク戦はニューヨークのジャイアンツ・スタジアムで7万8972人、準決勝のアメリカ-ブラジル戦はパロアルトで7万3123人、3位決定戦はロサンゼルスのローズボール・スタジアムで9万185人。日本では想像もつかないくらいの大観衆だった。
「ちょっときわどいオフサイドの判定があったのですが、わたしひとりに向けた7万人のブーイングはすごい迫力がありました。もしかしたらJリーグの審判の方よりすごい経験をしたのでしょうか」
笑いながら淡々と話してくれたが、大きな仕事を成し遂げた充実感と自信に満ちていた。
実は、彼女はわたしの大学の9年後輩にあたる。大学時代はお世辞にも熱心な選手とはいえなかった。練習をさぼって日本リーグの試合を地方まで見に行くこともよくあった。いまでも平気で、「トレーニングは好きじゃないんですよ」といったりする。
審判を始めたきっかけも彼女らしい。日本リーグの観戦仲間のなかに審判をやっている人がいた。ある日その人について行ったところが、審判の人の集まりだった。「この子、これから審判をやるから」と紹介された。思いもかけない言葉だったが、妙に納得して、わたしは審判になるんだと確信したという。1988年、吉澤久恵、大学4年生のときのことだ。
「とにかくサッカーが好きで、サッカーとかかわっていられるのなら、何でもよかったんです。選手より審判のほうが長くできると思ったし。それに、時代もよかったですね」
当時は女子の審判員は少なく、上級を目指す人もほとんどいなかった。彼女が3級審判員になった1990年に女子の日本リーグが始まり、そこで線審(副審)の経験を積み、91年に福岡で行われた第8回アジアカップで国際試合にデビューした。
93年に2級審判員、95年に国際線審になり、現在にいたる。91、93、95、97アジアカップ、94、98アジア大会、95、99ワールドカップなど輝かしい経歴にもかかわらず、気持ちは昔と変わらない。
「サッカーは楽しい。大好きです。だから選手が楽しく試合ができるようにサポートできればいいなと思っています」
終始おだやかだった口調が最後のひとことだけは強くなった。
「トップに長くいることはできません。だからこそ、来年のシドニー・オリンピックだけはどうしても行きたいんです。いまはそれに向けてがんばっています」
選手が上の大会や代表を目指すのと同じように、審判も上を目指すことができる。吉澤さんを目標に、たくさんの審判が育ってくることを期待したい。
わたしも自分の練習や試合の合間を縫って、主審8試合以上、副審5試合以上、合計15試合以上の経験を積んで、ことしこそ3級審判員に挑戦しようと思っている。
1999年7月23日金曜日
第28回 国体を女子サッカー普及のために
暑い夏の日の練習や単調なマシントレーニングをしているとき、わたしはいつも高校時代を思い出す。そうすると、どんな練習も楽しく思えるのだ。
もう20年以上も前、高校生のわたしは、陸上競技部で短距離の選手だった。練習は、グラウンドを使える日は本当にただひたすらトラックを走った。距離とスピードの変化こそあるが、練習の最初から最後までずっと走っていた。天気が悪くてグラウンドを使えない日はウェートトレーニングと校舎の中の階段を何本も駆け上がる練習だ。それらはただただつらく、苦しいものだった。わたしはいつも頭をからっぽにして、練習を消化することだけを考えていた。そんな態度だったから、わたしは全国レベルの選手にはなれなかったのだろう。
わたしの高校から自転車で5分のところに立派な県営総合競技場があった。当時としては最新の全天候性のトラックと芝生のフィールドだ。わたしが高校1年生のときに全国高校総合体育大会(高校総体)、高校3年生のときに国民体育大会(国体)が地元で開催された。メイン会場として開会式や陸上競技を行うために、県営総合競技場を新しく建設していたのだ。
国体開催のおかげで、わたしのようなレベルの選手でも、公式大会だけでなく記録会や練習会までも最新の競技場で走ることができた。練習はつらかったが、試合になると一流選手と同じような雰囲気でトラックを走ることができた。そして、国体強化選手として招待された有名選手と同じトラックを走ることもあった。そういう体験は、高校3年間競技を続けていく原動力にもなっていたように思う。
国体というのは、わたしの高校3年間を通じて、県をあげて準備され、全国の競技者を迎える大きなイベントだったことは間違いない。
女子のサッカーが1997年から「成年女子サッカー」として国体の正式種目となった。ようやく日本体育協会に競技スポーツと認められたという感慨はあるが、この大会の性質はまだよくわからない。原因のひとつが以下のような選手資格にあった。
①アマチュア選手であること。
②高校卒業以上の年齢であること。(成年女子ということから)
③Lリーグ枠は3人まで。(Lリーグのチームに所属する選手もしくはLリーグのチームをやめても3年以内の選手は3人までしか登録できない)
④当該都道府県に在住もしくは在勤在学していなければならない。(これは日本サッカー協会の登録とはまったく別の考え方によるものである)
⑤1チームの登録が選手14人と監督1人(監督と選手を兼ねてもよい)である。
①は問題ないとして、②は現在の女子の登録制度からみて、高校卒業以上というのは適当ではないと思う。男子は1種~4種という年齢別登録があるなかで、少年と成年男子のふたつの部門で行われている。女子はひとつの部門しかないのだから、競技人口や競技レベルを考えても、「女子」として中学以上の年齢とするのが妥当だろう。
③が国体というものを非常にあいまいな大会にしていたと思う。しかし、ことしからはLリーグの選手も人数制限なく登録できることになった。だが実際、どんなチームが出てくるかはわからないが、シーズン真っ最中のLリーグのチームが、リーグ戦の合間に、最高4日連続で試合をする大会に実質15人の登録選手で参加することは考えにくい。ほとんどのチームは参加を考えていないだろう。
それよりも、Lリーグをやめた選手に何の制限もなくなったことが大きな意味をもつと思う。Lリーグには全国から良い選手が集まっている。しかし、Lリーグをやめたあと地元に帰っても、受け入れられるチームがほとんどないのが現状だ。とくにことしは、Lリーグから4チームが撤退したことにより、多くの選手が移籍し、多くの選手がLリーグを離れた。その選手たちをていねいにすくい上げて、意欲をもちながらサッカーを続けられる環境を与えることができれば、これからの国体の意味は大きい。
そのためには④と⑤にも問題がある。
わたしのチームは東京都協会に登録している。チームの構成メンバーはその一員であるにもかかわらず、東京都国体選抜に選ばれる資格のない者が4人もいる。住所も勤め先も学校も東京都にないからだ。
逆に、どのチームにも所属していなくても、住所さえ東京都にあれば選ばれる資格がある。サッカーはチームがなければできないスポーツであるにもかかわらずだ。
「Lリーグをやめた選手が、新しいチームでやる気はないが国体だけならやってもいい」という考えがまかり通ることになる。
国体は、日本のアマチュアスポーツの総本山である日本体育協会が開催する大会である。だから、日本サッカー協会という枠にとらわれず、広く国民が参加できなければならないものなのだそうだ。なかなか日本サッカー協会の考えだけで進めるわけにはいかないのが現状だ。変則的な12チームの参加数とか、選手14人、監督1人という登録人数とか、すべて日本体育協会の枠組みからくるものなのだ。
日本体育協会が広く日本国民に競技スポーツを奨励する趣旨に文句はない。しかし、いろいろな競技があり、それぞれの競技には違った考え方があり、理念のようなものがあるのではないだろうか。
これからの国体の女子サッカーには、底辺拡大のきっかけにつながる大きなイベントになる可能性があると思う。まず日本サッカー協会が女子サッカーの普及を真剣に考えることが必要だ。そして日本体育協会に理解を得られるように働きかけてほしい。
わたしのチームから3人の選手が東京都国体選抜候補として、8月21日から23日に行われるミニ国体(関東地区予選)に向けてがんばっている。彼女たちのがんばりは、わたしたちチームメートに大きな勇気を与えてくれる。
もう20年以上も前、高校生のわたしは、陸上競技部で短距離の選手だった。練習は、グラウンドを使える日は本当にただひたすらトラックを走った。距離とスピードの変化こそあるが、練習の最初から最後までずっと走っていた。天気が悪くてグラウンドを使えない日はウェートトレーニングと校舎の中の階段を何本も駆け上がる練習だ。それらはただただつらく、苦しいものだった。わたしはいつも頭をからっぽにして、練習を消化することだけを考えていた。そんな態度だったから、わたしは全国レベルの選手にはなれなかったのだろう。
わたしの高校から自転車で5分のところに立派な県営総合競技場があった。当時としては最新の全天候性のトラックと芝生のフィールドだ。わたしが高校1年生のときに全国高校総合体育大会(高校総体)、高校3年生のときに国民体育大会(国体)が地元で開催された。メイン会場として開会式や陸上競技を行うために、県営総合競技場を新しく建設していたのだ。
国体開催のおかげで、わたしのようなレベルの選手でも、公式大会だけでなく記録会や練習会までも最新の競技場で走ることができた。練習はつらかったが、試合になると一流選手と同じような雰囲気でトラックを走ることができた。そして、国体強化選手として招待された有名選手と同じトラックを走ることもあった。そういう体験は、高校3年間競技を続けていく原動力にもなっていたように思う。
国体というのは、わたしの高校3年間を通じて、県をあげて準備され、全国の競技者を迎える大きなイベントだったことは間違いない。
女子のサッカーが1997年から「成年女子サッカー」として国体の正式種目となった。ようやく日本体育協会に競技スポーツと認められたという感慨はあるが、この大会の性質はまだよくわからない。原因のひとつが以下のような選手資格にあった。
①アマチュア選手であること。
②高校卒業以上の年齢であること。(成年女子ということから)
③Lリーグ枠は3人まで。(Lリーグのチームに所属する選手もしくはLリーグのチームをやめても3年以内の選手は3人までしか登録できない)
④当該都道府県に在住もしくは在勤在学していなければならない。(これは日本サッカー協会の登録とはまったく別の考え方によるものである)
⑤1チームの登録が選手14人と監督1人(監督と選手を兼ねてもよい)である。
①は問題ないとして、②は現在の女子の登録制度からみて、高校卒業以上というのは適当ではないと思う。男子は1種~4種という年齢別登録があるなかで、少年と成年男子のふたつの部門で行われている。女子はひとつの部門しかないのだから、競技人口や競技レベルを考えても、「女子」として中学以上の年齢とするのが妥当だろう。
③が国体というものを非常にあいまいな大会にしていたと思う。しかし、ことしからはLリーグの選手も人数制限なく登録できることになった。だが実際、どんなチームが出てくるかはわからないが、シーズン真っ最中のLリーグのチームが、リーグ戦の合間に、最高4日連続で試合をする大会に実質15人の登録選手で参加することは考えにくい。ほとんどのチームは参加を考えていないだろう。
それよりも、Lリーグをやめた選手に何の制限もなくなったことが大きな意味をもつと思う。Lリーグには全国から良い選手が集まっている。しかし、Lリーグをやめたあと地元に帰っても、受け入れられるチームがほとんどないのが現状だ。とくにことしは、Lリーグから4チームが撤退したことにより、多くの選手が移籍し、多くの選手がLリーグを離れた。その選手たちをていねいにすくい上げて、意欲をもちながらサッカーを続けられる環境を与えることができれば、これからの国体の意味は大きい。
そのためには④と⑤にも問題がある。
わたしのチームは東京都協会に登録している。チームの構成メンバーはその一員であるにもかかわらず、東京都国体選抜に選ばれる資格のない者が4人もいる。住所も勤め先も学校も東京都にないからだ。
逆に、どのチームにも所属していなくても、住所さえ東京都にあれば選ばれる資格がある。サッカーはチームがなければできないスポーツであるにもかかわらずだ。
「Lリーグをやめた選手が、新しいチームでやる気はないが国体だけならやってもいい」という考えがまかり通ることになる。
国体は、日本のアマチュアスポーツの総本山である日本体育協会が開催する大会である。だから、日本サッカー協会という枠にとらわれず、広く国民が参加できなければならないものなのだそうだ。なかなか日本サッカー協会の考えだけで進めるわけにはいかないのが現状だ。変則的な12チームの参加数とか、選手14人、監督1人という登録人数とか、すべて日本体育協会の枠組みからくるものなのだ。
日本体育協会が広く日本国民に競技スポーツを奨励する趣旨に文句はない。しかし、いろいろな競技があり、それぞれの競技には違った考え方があり、理念のようなものがあるのではないだろうか。
これからの国体の女子サッカーには、底辺拡大のきっかけにつながる大きなイベントになる可能性があると思う。まず日本サッカー協会が女子サッカーの普及を真剣に考えることが必要だ。そして日本体育協会に理解を得られるように働きかけてほしい。
わたしのチームから3人の選手が東京都国体選抜候補として、8月21日から23日に行われるミニ国体(関東地区予選)に向けてがんばっている。彼女たちのがんばりは、わたしたちチームメートに大きな勇気を与えてくれる。
1999年7月9日金曜日
第27回 指導者が足りない
「イタリア・リーグに初の女性監督」
先日の朝日新聞夕刊で、上記の見出しとクラブのマフラーを首にかけ堂々と歩く女性の写真に目を奪われた。
カロリーナ・モラーチェ、35歳。80年代から90年代にかけての女子サッカー界のスーパースターだ。代表における105得点/150試合はエリザベッタ・ビニョット(107/110=イタリア)、ミア・ハム(107/172=アメリカ)に次ぐものだ。
今季、イタリア・リーグ・セリエCの「ビテルベーゼ」の監督に就任した。女子チームではない。れっきとした男子のプロチームだ。日本でいえば、JFLのチームの監督といったところだろうか。
1981年9月。「ポートピア81 国際女子サッカー」と銘打った、日本で初めての国際大会がイタリア、イングランド、デンマークを招待して開催された。
9月9日、東京・西が丘サッカー場で行われた日本代表対イタリア代表に、わたしは出場した。自分のチームではFWしかやったことがなかったが、初めての国際試合でのポジションはストッパーだった。相手チームのエースを抑える役割だ。守備の技術はまるでなかったが、足の速さと負けず嫌いの性格を買われたのだと思う。
相手のエースはエリザベッタ・ビニョット、「女クライフ」と呼ばれ、当時の世界ナンバーワン・プレーヤーだった。守りのシステムなんてなかった。わたしは、ただビニョットについてまわった。足の速さには自信があったが、一瞬の速さでことごとく置いていかれた。試合を通じて、わたしはビニョットの横顔と背中もしくはお尻しか見ていなかったように思う。
試合中たったいちどだけ、わたしはビニョット以外の選手と対峙した。17歳のカロリーナ・モラーチェだ。ゴール正面、ペナルティーエリアのラインあたりから打ったモラーチェのシュートがわたしのみぞおちを直撃した。数秒間、まったく息ができなかった。次の瞬間、苦しさにのたうちまわった。記念すべき初代表試合のテレビ放映で、唯一わたしが大写しになったのは、そんな場面だった。
結果は0-9で負け。赤ん坊と大人の差があった。しかしそれは、イタリアと日本の女子サッカーの歴史の差でもあった。ヨーロッパでは70年代から国同士の選手権大会が行われていたのだ。
その後、日本も徐々に国際試合の経験を積んだ。そして86年9月、ビニョットとモラーチェを擁するイタリア代表をふたたび招待した。2試合行い、結果は1-2と2-3。敗れはしたものの、守備はしっかり組織され、攻撃は何度も相手ゴールを脅かした。互角に戦う日本代表の姿はまさに5年間の成長を示していた。
80年代後半には、アメリカ、中国、ブラジルといった大国が代表を組んで試合を始めた。そして91年、ついに第1回女子ワールドカップが中国で開催される。
日本は第1回中国大会、第2回スウェーデン大会と出場し、初めて正式種目となったアトランタ・オリンピックにも参加して、世界レベルの力を示してきた。そして、80年代から活躍してきた選手たちは、96年のアトランタ・オリンピック出場を区切りに代表チームを去った。
半数が入れ替わり若い世代になった新しい日本代表チームは、6月19日から7月10日にかけてアメリカで開催された第3回ワールドカップに出場した。
しかし、日本代表は非常にきびしい戦いを強いられた。いままでの12チームから16チームの参加になった今大会は、グループ2位になってベスト8にはいることが、来年のシドニー・オリンピック出場のために最低必要な条件だったが、初出場のロシアに完敗し、グループ最下位に終わってしまったのだ。
日本代表はこの20年間で確実に成長してきた。しかし日本女子サッカー界全体が同じように成長してきたかどうかは疑問だ。ここ数年、登録チーム数は伸び悩み、全日本選手権の都道府県予選の参加チームは逆に減少の傾向にさえある。
日本の女子サッカーの課題はたくさんある。しかし、いま考えなければならないのは、底辺を拡大することだ。もっともっとチーム数を多くし、競技人口を増やすことが必要だ。それにともなってもっと多くの指導者が必要になる。これこそわたしたちがいま真剣に取り組まなければならない問題なのだ。
この20年間で日本の女子サッカー界は多くの優秀な選手を輩出してきた。しかし、そのなかからどれだけの人数のコーチが生まれているのだろうか。
モラーチェは78年に14歳でリーグにデビューし、98年に34歳で現役を引退後、ラツィオの女子チームの監督になった。
先日の朝日新聞夕刊で、上記の見出しとクラブのマフラーを首にかけ堂々と歩く女性の写真に目を奪われた。
カロリーナ・モラーチェ、35歳。80年代から90年代にかけての女子サッカー界のスーパースターだ。代表における105得点/150試合はエリザベッタ・ビニョット(107/110=イタリア)、ミア・ハム(107/172=アメリカ)に次ぐものだ。
今季、イタリア・リーグ・セリエCの「ビテルベーゼ」の監督に就任した。女子チームではない。れっきとした男子のプロチームだ。日本でいえば、JFLのチームの監督といったところだろうか。
1981年9月。「ポートピア81 国際女子サッカー」と銘打った、日本で初めての国際大会がイタリア、イングランド、デンマークを招待して開催された。
9月9日、東京・西が丘サッカー場で行われた日本代表対イタリア代表に、わたしは出場した。自分のチームではFWしかやったことがなかったが、初めての国際試合でのポジションはストッパーだった。相手チームのエースを抑える役割だ。守備の技術はまるでなかったが、足の速さと負けず嫌いの性格を買われたのだと思う。
相手のエースはエリザベッタ・ビニョット、「女クライフ」と呼ばれ、当時の世界ナンバーワン・プレーヤーだった。守りのシステムなんてなかった。わたしは、ただビニョットについてまわった。足の速さには自信があったが、一瞬の速さでことごとく置いていかれた。試合を通じて、わたしはビニョットの横顔と背中もしくはお尻しか見ていなかったように思う。
試合中たったいちどだけ、わたしはビニョット以外の選手と対峙した。17歳のカロリーナ・モラーチェだ。ゴール正面、ペナルティーエリアのラインあたりから打ったモラーチェのシュートがわたしのみぞおちを直撃した。数秒間、まったく息ができなかった。次の瞬間、苦しさにのたうちまわった。記念すべき初代表試合のテレビ放映で、唯一わたしが大写しになったのは、そんな場面だった。
結果は0-9で負け。赤ん坊と大人の差があった。しかしそれは、イタリアと日本の女子サッカーの歴史の差でもあった。ヨーロッパでは70年代から国同士の選手権大会が行われていたのだ。
その後、日本も徐々に国際試合の経験を積んだ。そして86年9月、ビニョットとモラーチェを擁するイタリア代表をふたたび招待した。2試合行い、結果は1-2と2-3。敗れはしたものの、守備はしっかり組織され、攻撃は何度も相手ゴールを脅かした。互角に戦う日本代表の姿はまさに5年間の成長を示していた。
80年代後半には、アメリカ、中国、ブラジルといった大国が代表を組んで試合を始めた。そして91年、ついに第1回女子ワールドカップが中国で開催される。
日本は第1回中国大会、第2回スウェーデン大会と出場し、初めて正式種目となったアトランタ・オリンピックにも参加して、世界レベルの力を示してきた。そして、80年代から活躍してきた選手たちは、96年のアトランタ・オリンピック出場を区切りに代表チームを去った。
半数が入れ替わり若い世代になった新しい日本代表チームは、6月19日から7月10日にかけてアメリカで開催された第3回ワールドカップに出場した。
しかし、日本代表は非常にきびしい戦いを強いられた。いままでの12チームから16チームの参加になった今大会は、グループ2位になってベスト8にはいることが、来年のシドニー・オリンピック出場のために最低必要な条件だったが、初出場のロシアに完敗し、グループ最下位に終わってしまったのだ。
日本代表はこの20年間で確実に成長してきた。しかし日本女子サッカー界全体が同じように成長してきたかどうかは疑問だ。ここ数年、登録チーム数は伸び悩み、全日本選手権の都道府県予選の参加チームは逆に減少の傾向にさえある。
日本の女子サッカーの課題はたくさんある。しかし、いま考えなければならないのは、底辺を拡大することだ。もっともっとチーム数を多くし、競技人口を増やすことが必要だ。それにともなってもっと多くの指導者が必要になる。これこそわたしたちがいま真剣に取り組まなければならない問題なのだ。
この20年間で日本の女子サッカー界は多くの優秀な選手を輩出してきた。しかし、そのなかからどれだけの人数のコーチが生まれているのだろうか。
モラーチェは78年に14歳でリーグにデビューし、98年に34歳で現役を引退後、ラツィオの女子チームの監督になった。
1999年6月25日金曜日
第26回 香港で若い才能が開花した
あれはもう18年も前のことだ。
1981年1月。初めての海外遠征は香港だった。チキン・フットボールリーグ(CFL)選抜の一員として、香港遠征に参加した。
1979年に日本女子サッカー連盟が発足したものの、東京都女子サッカー連盟ができたのが1981年3月、東京都女子サッカーリーグは同年5月から始まった。CFLは、三菱養和会の全面的なサポートを受け、1976年から1980年までの5年間開催された。主に東京と神奈川のチームで、最初は5チームから始まり、最後は9チームが参加していた。
CFL最後のシーズン終了後に香港遠征が行われた。もちろん遠征費は全額自己負担だったし、選手のほとんどが社会人で、それぞれが休暇をとって参加した。しかし、リーグの事務局長でプロ・コーチでもある鈴木良平さん(86-89女子日本代表監督)の指導を受けて1カ月以上前から準備して臨んだ香港代表との2試合は、わたしたちにとっては「国際Aマッチ」だった。
とくに1月4日の第1戦はすごかった。スペイン・ワールドカップ予選アジア第4組の決勝、中国対北朝鮮戦の前座試合だったのだ。香港スタジアムには2万人の観衆がつめかけていた。人で埋まったすり鉢状のスタンドから聞こえる歓声はすごい圧迫感があった。ピッチに立つだけで、全身に鳥肌がたった。
そんなわたしたちの目の前に、数本の日の丸が振られているのが見えた。メインスタンドのまん中に陣取った十数人のグループは、明らかに日本から応援に来ている人たちだった。「ニッポン、チャ、チャ、チャ」の声は、香港代表を応援する大歓声のなかにあっても、直接わたしたちの胸にひびいた。わたしたちは1-0で勝利した。
実はそのグループは、日本のサポーターの草分け的存在である「日本サッカー狂会」の人たちだった。ワールドカップ予選を戦う日本代表の応援に来ていたのだ。残念なことに、日本代表は5日前に行われた準決勝で北朝鮮に延長の末0-1で敗れていた。
当時の日本代表は平均年齢21.5歳という若さで、中盤に風間八宏、金田喜稔、戸塚哲也という技巧派を並べ、左サイドのチャンスメーカーが木村和司という画期的なチームだった。あきらかにそれまでの日本代表とは違う雰囲気をもっていた。その攻撃の多彩さは見るものをわくわくさせた。
わたしたちが香港に滞在している間中、テレビでは繰り返しワールドカップ予選のダイジェストを放送していたが、決勝に進出した中国や北朝鮮よりもはるかに多く、日本代表のプレーが映し出されていた。木村和司のフリーキック、金田の突破、戸塚のドリブル、風間のスルーパスなど、ひとつひとつのプレーが香港の人たちを驚かせ、魅了したようだ。おかげでわたしたちも香港の人たちに温かく見守られ、いいプレーには拍手してもらった。町のレストランでは「アナタタチ、ウマイネ」と日本語で声をかけられたりもした。
それから4年半 ─── 。
このときの日本代表がベースになって、メキシコ・ワールドカップ・アジア最終予選で日本中を熱狂させた日本代表チームがつくられる。1985年10月26日、国立競技場を日の丸で埋め尽くした、あの日本対韓国戦は日本サッカー史上に残る大きな出来事になった。
先週香港で圧倒的な力の差を見せた日本オリンピック代表の選手たちは、ちょうどそのころサッカーを始めたのではないだろうか。
香港ラウンドでは登録選手20人全員が試合に出て、多くの可能性を示した。一部の才能に頼るのでなく、たくさんの才能を組み合わせてつくるサッカーはまた香港の人たちを楽しませたに違いない。
いよいよ日本ラウンドが始まる。もっともっと、若い選手たちの才能を見たい。そしてそれを、来年には世界の人たちに見せたい。
1981年1月。初めての海外遠征は香港だった。チキン・フットボールリーグ(CFL)選抜の一員として、香港遠征に参加した。
1979年に日本女子サッカー連盟が発足したものの、東京都女子サッカー連盟ができたのが1981年3月、東京都女子サッカーリーグは同年5月から始まった。CFLは、三菱養和会の全面的なサポートを受け、1976年から1980年までの5年間開催された。主に東京と神奈川のチームで、最初は5チームから始まり、最後は9チームが参加していた。
CFL最後のシーズン終了後に香港遠征が行われた。もちろん遠征費は全額自己負担だったし、選手のほとんどが社会人で、それぞれが休暇をとって参加した。しかし、リーグの事務局長でプロ・コーチでもある鈴木良平さん(86-89女子日本代表監督)の指導を受けて1カ月以上前から準備して臨んだ香港代表との2試合は、わたしたちにとっては「国際Aマッチ」だった。
とくに1月4日の第1戦はすごかった。スペイン・ワールドカップ予選アジア第4組の決勝、中国対北朝鮮戦の前座試合だったのだ。香港スタジアムには2万人の観衆がつめかけていた。人で埋まったすり鉢状のスタンドから聞こえる歓声はすごい圧迫感があった。ピッチに立つだけで、全身に鳥肌がたった。
そんなわたしたちの目の前に、数本の日の丸が振られているのが見えた。メインスタンドのまん中に陣取った十数人のグループは、明らかに日本から応援に来ている人たちだった。「ニッポン、チャ、チャ、チャ」の声は、香港代表を応援する大歓声のなかにあっても、直接わたしたちの胸にひびいた。わたしたちは1-0で勝利した。
実はそのグループは、日本のサポーターの草分け的存在である「日本サッカー狂会」の人たちだった。ワールドカップ予選を戦う日本代表の応援に来ていたのだ。残念なことに、日本代表は5日前に行われた準決勝で北朝鮮に延長の末0-1で敗れていた。
当時の日本代表は平均年齢21.5歳という若さで、中盤に風間八宏、金田喜稔、戸塚哲也という技巧派を並べ、左サイドのチャンスメーカーが木村和司という画期的なチームだった。あきらかにそれまでの日本代表とは違う雰囲気をもっていた。その攻撃の多彩さは見るものをわくわくさせた。
わたしたちが香港に滞在している間中、テレビでは繰り返しワールドカップ予選のダイジェストを放送していたが、決勝に進出した中国や北朝鮮よりもはるかに多く、日本代表のプレーが映し出されていた。木村和司のフリーキック、金田の突破、戸塚のドリブル、風間のスルーパスなど、ひとつひとつのプレーが香港の人たちを驚かせ、魅了したようだ。おかげでわたしたちも香港の人たちに温かく見守られ、いいプレーには拍手してもらった。町のレストランでは「アナタタチ、ウマイネ」と日本語で声をかけられたりもした。
それから4年半 ─── 。
このときの日本代表がベースになって、メキシコ・ワールドカップ・アジア最終予選で日本中を熱狂させた日本代表チームがつくられる。1985年10月26日、国立競技場を日の丸で埋め尽くした、あの日本対韓国戦は日本サッカー史上に残る大きな出来事になった。
先週香港で圧倒的な力の差を見せた日本オリンピック代表の選手たちは、ちょうどそのころサッカーを始めたのではないだろうか。
香港ラウンドでは登録選手20人全員が試合に出て、多くの可能性を示した。一部の才能に頼るのでなく、たくさんの才能を組み合わせてつくるサッカーはまた香港の人たちを楽しませたに違いない。
いよいよ日本ラウンドが始まる。もっともっと、若い選手たちの才能を見たい。そしてそれを、来年には世界の人たちに見せたい。
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