1998年5月19日火曜日

第1回 ゴールがほしい

 1976年、4月。正門をくぐるとまっ青な芝生が広がっていた。
 地方から東京の女子大に入学し、緊張と不安でいっぱいの私だったが、すうっと力が抜けていくのを感じた。

 大学の構内にある寮での生活が始まる。食堂の一歩外は一面の芝生。高校時代は陸上競技部に所属し、明けても暮れても走り回っていた私に「さあ、いらっしゃい、いらっしゃい。毎日走りにいらっしゃい」と語りかけてくる。食事ごとに芝生が語りかけてくるのだ。そのとき思いがけないポスターを目にする。「サッカー同好会会員募集」。陸上競技部もない女子大学にサッカー部があるなんて。

 翌日グラウンドを訪れると、2年生と3年生5、6人が楽しそうにボールをけっていた。話を聞くと、当時の3年生が1年生のとき何人かが集まってボールをけり始めたのが、この同好会をつくったきっかけらしい。全員が寮生だった。「やっぱり! だよね」 そう、そこに芝生があったから・・・。その日から私とサッカーの長いつきあいが始まった。

 文学部と家政学部しかない東京の女子大。グラウンドの芝生はまずで観賞用のように美しかった。私たち1年生が数人はいって、ボールをけるグループはチームになった。当時、女子のサッカーはまだ協会の組織ができていなかった。しかし、熱心に女子サッカーをサポートしてくれる方がたのはからいで、その年から東京を中心としたチームでリーグ戦(チキン・フットボール・リーグ)が始まった。
 グラウンドはすばらしい、ボールもある、元気いっぱいの私たち。

 しかし、女子大のグラウンドにはゴールがなかった。同好会としては承認されていたが、体育会クラブではなかったので、大学からの予算はゼロ。唯一幸運だったのは、グラウンドを使う体育会クラブがなかったこと。それで辛うじてグラウンドを使うことは許されていたが、学校からはほとんど無視された存在だった。というより、やっかいものに近かったかもしれない。

 かつて体育の授業で使われていたと思われる古びたハードルを3つ横に並べハンドボールのゴールネットをかぶせてゴールにした。サッカーを始めたばかりの私たちは正規のゴールがなくても、十分練習ができたし、不自由は感じなかった。
 第1回チキン・フットボール・リーグに優勝。どのチームの力もどんぐりの背比べのなかでの優勝だったが、試合を重ねていくうちに、「ボールけり」から少しずつではあるが「サッカー」に近づいていくのが感じられた。もっとうまくなりたい、もっと練習したいという気持ちがどんどん強くなっていた。

 「ゴールがほしい」。優勝をきっかけにして「ゴールを買うこと」がチームの悲願となった。「優勝」の実績をひっさげて学校に嘆願した。しかし、女子大にとってサッカーの優勝なんて、たいした値打ちはなかった。大学の関係者のなかには「女性がサッカーをやるなって」と眉をひそめる人が少なからずいたのだ。

 私たちは地道な活動とサッカーへの情熱を、ことあるごとに訴え続けた。同時に自分たちで資金を調達する方法を考えた。大学祭でゴール購入キャンペーンの模擬店を出したのだ。炊きたてのごはんを、手を真っ赤に腫れ上がらせてにぎったおにぎりは好評だった。しかし、売り上げ金は8万円弱。一式30万円といわれていたゴールはとうてい買えない。ネット分くらいにしかならない。先は長いなと感じた。

 吉報は突然やってきた。大学の後援会が私たちの活動を見守ってくれていたのだ。知らないうちに試合や練習、大学祭を見て評価してくれていたらしい。残りのお金は後援会が援助してくれることになった。

 観賞用の美しい芝生に、力強く白く輝くゴールポストが立った。すばらしいグラウンドの誕生だった。