2014年4月29日火曜日

30th


30年前、私はいまと同じようにサッカーをやり、いまより激しく仕事をしていた。

前日まで通常どおりの仕事をこなし、翌日には練習試合が予定されていた。

母の大好きな小川軒のレーズンウィッチをおみやげのお菓子にしたために、ホテルへの搬入は自分たちでやらなければならなかった。100個以上の箱詰めをホテルに納め、細かい打ち合わせを済ませて自分のアパートの部屋に戻ったときには、古傷のひざが悲鳴をあげていた。

「あしたはハイヒールを履かなきゃいけないんだ・・・」
気持ちはどんどん憂鬱になっていた。

夜はひざの痛みでまったく眠れなかった。
翌日から始まる新しい生活への不安もあったかもしれない。

当日は、ひざの痛みを感じるヒマもなくバタバタと準備に追われた。
慣れない化粧、着付けないドレス、あ〜、ハイヒール・・・。

地方から出てきてくれたおじちゃんおばちゃんたち、パリからわざわざ来てくれたピアニストのいとこ夫婦は、無事にホテルにたどり着けるだろうか。

日本代表の監督や団長、会社のボスや上司の方がたが退屈な思いをされないようにチームメートにアテンドを頼んだ。

式が始まる前に来てくれることになっていたカメラマンの今井さんがまだ着かない。GWの渋滞に巻き込まれているのだろう。

周りの心配をしているうちに式は終わり(まったく覚えていない)、パーティーでは出席してくださったおひとりおひとりに感謝の気持ちを伝えるために各テーブルをゆっくりまわった。

気がつければ、となりに立っている人がみなさんに挨拶していた。

「割れ鍋に割れ蓋のようなふたりですが、がんばっていきますので見守ってください」みたいなことを言っていたと思う。

みなさん、笑っていた。

1984年4月29日、私は結婚し、新しい生活がスタートした。

とはいえ、翌日は別々に自分のサッカーの試合に出かけて行き、日々の仕事に終われる生活はなんら変わりがなかった。

そうやって30年が過ぎた。

ふたりとも30年分、歳を取ったけれど、私はあいかわらず週4回のサッカー、となりに立っていた人も休日にはサッカーに出かけて行く。

走るスピートは落ちたかもしれない。ボールを飛ばせる距離も短くなったかもしれない。

とはいえ、私はあの日よりひざの状態は格段によくなっている。いまはテーピングもサポーターもしないでサッカーできているではないか。

30
周年にあらためて思いを馳せてみたけれど、ただの通過点だと思うに至った。

きのうよりきょう、きょうよりあしたを楽しく生きてやる!

まだまだサッカーうまくなれるぞ!

ってね。

大原智子(おおはら・ともこ)
三重県伊勢市出身。1976年大学入学と同時にサッカーを始め、卒業後はクラブチームFCPAFを創設した。76年からチキンフットボールリーグ、81年にスタートした東京都女子リーグでプレーし、現在もFCPAFで現役。81年から84年まで日本代表。ポジションはMFだが、日本代表ではDF。クラブでも、チームの必要に応じてFW、DFでもプレーした。選手活動のかたわら、ワールドカップは82年スペイン大会、86年メキシコ大会、90年イタリア大会、94年アメリカ大会、98年フランス大会、02年日本/韓国大会、06年ドイツ大会、10年南アフリカ大会、8大会を観戦している。
・フリーランス・エディター/ライター
・ハーモニー体操プログラム正指導員、ハーモニー体操エンジンプログラマー