1999年6月11日金曜日

第25回 女子ワールドカップがはじまる

 6月6日日曜日、天気は晴れ、気温は28℃。キリンカップ、日本代表対ペルー代表の試合が行われた横浜国際総合競技場は6万7000の観衆で埋めつくされた。満員のスタジアムはいいものだ。そのなかにいるだけで、なにか起こりそうな気がしてわくわくしてくる。

 とくにこの日は、日本にこんなにたくさんのペルーの人たちがいたのかと思うほど、白に「赤だすき」の伝統のユニホームが、アウェーサイドのゴール裏の一角を占めていた。3,000人ほどいたと思われるペルーのサポーターたちは、声を合わせて歌い、国名を連呼し、迫力ある応援を繰り広げていた。気候といい、雰囲気といい、さながらワールドカップの風景だった。2002年には本当にここでワールドカップの試合が行われるのだと感慨にふけりながら、キックオフの笛を聞いた。

 キリンカップといえばわたしにはなつかしい思い出がある。
 1983年、全国から26人の女子日本代表候補が召集された。千葉県の東京大学検見川合宿所で1週間の合宿練習を行い、最終日にはふたつのチームに分けて紅白試合で締めくくることになっていた。それがキリンカップ83の日本代表対ボタフォゴ戦の前座試合だった。

 81年に初めて女子日本代表としてチームを組み、第4回アジアカップ(香港)やポートピア81(日本)に参加し国際試合を経験していたが、それ以降は代表としての活動はなかった。いまのように定期的に国際大会があるわけでもなく、現在アジア・ナンバーワン、世界でもトップ5にはいる中国でさえまだ代表チームをつくってはいなかった。

 久しぶりの代表の試合は国際試合ではなかったけれど、初めてあこがれの国立競技場の芝のピッチで試合ができて感激だった。そして、すでに入場していた2,000人以上の観衆がスタンドでわたしたちに声援を送ってくれた、その雰囲気はいまでも忘れられない。自分たちが日本のサッカー界に少しだけ認知された気がして、うれしかった。

 80年代の後半からは少しずつ代表チームとして国際大会に出かけるようになった。当時高校生だった本田、木岡、半田らが徐々に経験を積み、高倉、長峯、野田らを加えて日本の女子サッカーを引っ張っていた。そして、91年第1回女子ワールドカップ出場を果たしたのだ。彼女たちの成長はそのまま日本女子サッカーの成長だった。

 その後、Lリーグで育った選手を加えて、95年第2回ワールドカップ出場。そして96年には念願のアトランタ・オリンピック出場を果たしたことは、彼女たちのサッカー人生の集大成のようにも思われた。これを境に、80年代前半わたしがいっしょにプレーした選手はすべて代表チームからいなくなった。

 6月3日木曜日。キリンカップ、国立競技場での日本代表対ベルギー代表戦の前座として女子の日本代表対韓国代表の試合が組まれていた。第3回女子ワールドカップへの壮行試合でもあるこの試合に、前座であるにもかかわらず1万8000人の観客が声援を送った。

 ワールドカップには出場しない韓国代表に押し込まれるシーンも多く見られ、準備万端とはいかないようだった。しかし、サポーターの後押しを受けて、徐々にリズムを取り戻し、最後には逆転で勝利を収めた。どんな相手であれ、劣勢をはねのけた勝利はこれからの自信となることだろう。

 6月19日からアメリカ各地で始まる第3回女子ワールドカップは、地元アメリカ以外の試合でも前売り券がすでに1試合平均1万4000枚以上売れていると聞いた。日本代表が、高い技術でパスをつなぎ攻撃するサッカーを見せて観客を味方につけ、快進撃することを期待したい。

 ところで、壮行試合で先制点をアシストしたMF柳田美幸、1得点1アシストと逆転勝利の起爆剤となったMF小林弥生は、ほんの2年前まで東京都リーグで優勝をかけて戦った間柄でもある。そう考えるとわたしもまだまだ捨てたもんじゃない!?