2014年5月9日金曜日

菅平に来れば思い出す



 5月の3連休を菅平で過ごすようになって何年になるだろう。

 サッカーマガジンが主催するサッカー大会はことしで27回目を迎えたらしい。全国から70チームが集まり、全試合が手入れされた芝生のグラウンドで行われる。

 5月3日の朝は快晴だった。キーンと空気は澄んで、まっ青な空に山の稜線がくっきりと浮かび上がっていた。そして足元は緑の芝生が刈りそろえられたグラウンドがあった。3日間、サッカーのことだけを考えて過ごせる。サッカー選手としてこれ以上の幸福があるだろうか。

 私がはじめてサッカーで菅平を訪れたのは、1985年。正式にこの大会が始まる2年前のことだ。秋に行われていた男子の大会の隅っこで女子3チームが2試合ずつしたのが、この大会の前身と言えるだろう。

 冬はスキー、夏はラグビー合宿で有名だった菅平だけれど、「オフシーズンにサッカー大会を!」とサッカーマガジンが主催して秋に男子の大会を開催していた。

 当時編集長だった千野圭一さんは、女子サッカーの草創期からフェアな目で取材してくれた数少ない記者のひとりだった。その千野さんが男子の大会があるのなら女子の大会もと考えるのは自然だったのだろう。ただ、女子のサッカーチームがまだまだ少なかった時代。もちろん全国リーグもなかった。そんななか、私たちのチームと他2チーム、合計3チームで大会と呼ぶにはあまりにも小さかったけれど、菅平での女子のサッカーが始まったのだ。

 じつは、私は千野さんのことが苦手だった。私がサッカーを始めたころから、会うといつもきびしい言葉をかけられていた。とくに、日本代表として初めて外国チームを招いたポートピア’81大会で、イタリア代表と対戦したときのことだ。0−9で完敗した試合の直後、千野さんは私に「これはサッカーじゃなかったね。相手のケツを追いかけてるだけじゃだめだよ」と言い放ったのだ。

 まだアメリカも中国も女子の代表チームを編成していない時代。ヨーロッパチャンピオンであるイタリアが世界のナンバーワンと言ってもよかった。男子の日本代表でさえ、まだヨーロッパの代表チームとAマッチを組むことすらできなかった時代のことだ。

 それでも、千野さんの目には歴然とある力の差の前になすすべなく敗れた女子日本代表が不甲斐なく、歯がゆく見えたのだろう。それは、いまにして思えば「初めてにしては、よくがんばった」などという言葉の百倍も私たちを認め、期待を込めたものだった。

 その後、日本代表から外れ、全国レベルの試合からも遠ざかった私が千野さんに会えるのは、年にいちど、この菅平の大会だけになった。

 毎年、初日にあいさつに行くと、いつものシニカルな笑みと下町育ちのぶっきらぼうな物言いで迎えてくれた。そして1試合はかならず私たちの試合を見に来てくれて、きびしいひと言をかけていってくれた。

 技術の高い選手は本当に増えた。でも、千野さんはそれだけで選手を評価することはなかった。その技術をどこで使い、それが試合をどう動かし、チームの勝利にどう貢献しているのか、それが選手の価値を決めると考えていたと思う。千野さんと話すときには、いつもそれを感じていた。
 
 おととしの秋、千野さんは58歳という若さで逝ってしまった。

 去年の大会で私のチームは優勝した。そのときに、千野さんの前にサッカーマガジンの編集長だったうちの監督は「千野が見ている」と空を見上げて、目を潤ませていた。

 ことしの大会で、私たちのチームは決勝トーナメント1回戦で敗れた。連覇どころか2日目の2試合目で大会から姿を消すことになってしまった。

 私はことしの方が千野さんの存在をひしひしと感じていた。私の不甲斐ないプレーに何か言いたげな、あのシニカルな笑みがグラウンドの隅っこに見える気がしたのだ。

 菅平に来れば思い出す。


 サッカー選手にきびしく、でも、根っからサッカーが好きだった。千野さんのことを思い出す。


大原智子(おおはら・ともこ)
三重県伊勢市出身。1976年大学入学と同時にサッカーを始め、卒業後はクラブチームFCPAFを創設した。76年からチキンフットボールリーグ、81年にスタートした東京都女子リーグでプレーし、現在もFCPAFで現役。81年から84年まで日本代表。ポジションはMFだが、日本代表ではDF。クラブでも、チームの必要に応じてFW、DFでもプレーした。選手活動のかたわら、ワールドカップは82年スペイン大会、86年メキシコ大会、90年イタリア大会、94年アメリカ大会、98年フランス大会、02年日本/韓国大会、06年ドイツ大会、10年南アフリカ大会、8大会を観戦している。
・フリーランス・エディター/ライター
・ハーモニー体操プログラム正指導員、ハーモニー体操エンジンプログラマー