1998年11月20日金曜日

第12回 都並敏史、引退はサッカー人生の序章


 11月7日土曜日、98Jリーグ第16節。第2ステージ最終節を待たずに、平塚競技場でのホームゲームを最後にプロサッカー選手としての現役を引退した。
 都並敏史、わたしがもっとも好きだった選手だ。多くのファンと同じように、相手を吹き飛ばすハードタックルや左サイドを駆け抜けるプレーに胸を躍らせ、拍手を送った。そして何より彼の人柄は魅力的だった。

 最初に会ったのは、19811010日、新宿のデパートの屋上だった。デパート主催の女子のミニサッカー大会に読売クラブのほかの選手といっしょにゲストとして来ていたのだ。参加チームはわずか5、6チームの大会。昼休みのアトラクションとして、主催者が「男女日本代表対決」とかなんとか銘打って、わたしは都並と1対1をやらされた。方や押しも押されもせぬスター選手で相手にも何もならなかったが、ムキになって向かっていった。都並も手をぬかずにやってくれたのがうれしかった。大会はわたしのチームが優勝し、都並から表彰状やトロフィーを受け取った。

 半年後、スタジアムで都並を見かけたが、わたしはただのファンとして遠巻きにしていた。すると向こうから「こんにちは」とあいさつしてきた。わたしは思わずまわりを見回した。まさか自分に対してだとは思わなかったのだ。

 何度か偶然に会い、短い時間だが話す機会があった。すごく不思議なことだが、いつも長年の友人のように話ができた。スター選手という感じはまったくなく、ただのサッカー好きの少年といったふうなのだ。しかも、わたしを普通にサッカー選手仲間として扱った。

 3年ほど前、わたしのチームはあるサッカー専門誌の主催する大会に出場し、準優勝した。大会の結果とチーム写真はその専門誌のグラビアに掲載され、わたしの顔も3ミリ位の大きさで登場した。

 「大原はまだがんばっているんですね。雑誌で見ましたよ。よろしく伝えてください」

 専門誌が発売された数日後、偶然都並に会った共通の知人からこのメッセージを聞いたときは、うれしいというより本当に驚いた。10年以上会っていないということだけでなく、プロ選手が、いくら専門誌とはいえ女子のしかもローカルな大会の記事に目を通しているなんて信じられなかったのだ。

 サッカー選手としての輝かしい経歴や93年のワールドカップ最終予選のときのケガとの戦い、試合やテレビ番組などを通して見せるパーソナリティーは、だれもが知るところであり、何の説明も必要としない。

 わたしはそれ以上に、都並が抱いているサッカーに対する純粋な愛情に打たれる。
 女子であれどんなレベルであれ同じサッカーに関わる人間として、同じ高さで話をすることができる。「サッカーはどこでやってもサッカー」ということを知っている。それはとりもなおさず、この現役引退までが都並のサッカー人生の序章にすぎないということを示しているのではないだろうか。

 すでにコーチの勉強を始めていると聞く。都並はどんな選手を育てていくのだろうか、どんなチームをつくるのだろうか。

 目標であり、心の支えだった選手の引退は、わたしを動揺させ、サッカー選手を続けていくことを一歩立ち止まって考えさせたりもする。「アマチュア選手に引退はない」「生涯一選手」がわたしの持論だが、次々と現れるケガや衰えの兆候を無視することもできない。

 「引退」がけっしてサッカーからの引退でないというこれからの都並の生き方は、わたしにどんな影響を与えてくれるのだろうか。これからもファンとしてずっと見守っていきたい。