2014年11月5日水曜日

「千」は「1000」にあらず




「『千仞の谷』」とか『一騎当千の兵』とか、『千』という字を使った古い言葉はいろいろあるけどのぉ、それは単純に数字の『1000』とは違うんじゃ」

東京新聞の毎週水曜日の夕刊に「サッカーの話をしよう」というコラムがある。

1993年4月20日に始まったその連載は201411月5日で1000回を迎えた。



サッカージャーナリストの大住良之さんが21年半の年月をかけて書き続けてきたコラムだ。ひとつのメディアでひとりの筆者が同じコラムをこれほど長く連載を続けた例はほとんどない。

大住さんは大学卒業後『サッカー・マガジン』の編集部に就職し、その後㈱アンサーで主にトヨタカップの取材やプログラム制作に携わり、88年にフリーランスのサッカージャーナリストになった。

『サッカー・マガジン』の編集長としてサッカージャーナリズムの世界では確固たる地位を築いていた大住さんだったけれど、当時は日本サッカー界自体がまだアマチュアの時代で「サッカー」だけでフリーランスが簡単に食べていける時代ではなかった。

それが劇的に変わるのが93年5月の「Jリーグ開幕」だ。

このコラムはその開幕前夜というべき93年4月20日に始まっている。

先日、「1000回を祝う会」が行われた。派手なことや大げさなことを嫌う大住さんを気遣ったささやかでつつましいものだったけれど、このコラムを支え、そしてこのコラムの熱烈なファンである人たちが集まった。


冒頭の言葉は、このコラムの執筆を大住さんに依頼した東京新聞運動部(当時)の財徳健治さんのものだ。乾杯の発声の前に、愛すべき広島弁で執筆依頼の経緯を話してくれた。

「当時、コラムの筆者を探していたとき、大住の書いた文章が目にとまった。抜群の文章力じゃった。日本で二番目にうまいと思った。一番は賀川さんじゃ(長く大阪サンケイスポーツの記者としてサッカーの記事を書き、現在も現役最高齢記者=89歳でブラジルワールドカップにも取材に出かけた)。大住の文章には無駄がない。だれでもサラっと読める。じゃが、書きたいことを限られた文字数のなかにおさめるためにヤツはもがいてもがいて苦しんで書き上げとるんだ。そうやってもがき続けられる間は生涯書き続けられるだろう。『千』というのはものすごく長いとか大きいとか、時間の悠久とか、人並みはずれた能力や技術を表すんじゃ。そういう意味でも『千』は大住にふさわしい」

大住さんに初めて会ったのは私が大学を卒業した直後、1980年のことだ。まともな就職ができなくて、いろいろなアルバイトをしていたなかで、サッカー・マガジン編集部に出入りさせてもらえるようになり、㈱アンサーでは部下として、フリーランスになってからも、事務所のいそろうとしてずっとそばで働かせてもらった。

いや、大住さんに直接会う前から、サッカー・マガジン編集長の大住さんの熱烈なファンだった。最終ページにある編集後記を真っ先に読むような読者だった。

大学になってからサッカーを始めた私は、サッカーの知識のほとんどをサッカー・マガジンから学んだ。ルール、戦術、技術、スター選手、監督、審判、クラブというもの、ワールドカップ、日本のサッカー、世界のサッカー、サッカー用具、サッカーに関わる人たち・・・。

そして、編集後記には、サッカーを題材にしながらも、それ以前に大住さんという人間のものの考え方がにじみ出ていたと思う。そこが好きだった。

私にとっての「サッカーの話をしよう」は、「編集後記」の延長戦上にある。サッカーファンだけではない東京新聞の読者も魅き込まれる話がそこにはある。たぶん、それは大住さんのサッカーに対する愛情そのものがそうさせるのではないか。

大住さんの電話帳のなかに選手の電話番号はひとつもはいっていない。記者のなかには、選手と個人的に親しくつきあって、その中から選手の魅力を引き出した原稿を書く人が多くいる。選手の側も信頼を寄せる記者に書いてもらうことに安心感があるし、読者ももっと選手のプライベートな部分を知りたいという気持ちがある。

しかし、大住さんの取材方法はまったく違う。試合や練習のなかで、その選手がどんなプレーをしているのか、そのプレーは見る者に何を感じさせるのか。広報を通じて得た限られた取材時間のなかで、その選手の魅力をいかに引き出すか。それを大住さんの言葉でどう表現するのか。私はそんな記事が読みたいと思う。

長いつきあいのなかで、大住さんが原稿の書き方を教えてくれた事はほとんどない。

「原稿を書くときには、原稿用紙のマスに大きくわかりやすい字で書くこと!」
これだけだ。活版や写植の時代の話。原稿をデータで送るいまとなっては化石のような教えだ。

ただ、私は大住さんの原稿をだれよりも先に読む権利を与えられていたし、たったひとつのフレーズのために何時間も、あるときはひと晩を費やす姿をそばで見てきた。

「サッカーの話をしよう」も例外ではない。

「ネタが尽きることはないんですか?」

「それはないよね。ひとつとして同じ試合はないし、サッカーは世界中で何億という人が関わっているスポーツだからいろいろな側面がある。その側面の数でいったら無限といっていいんじゃない?」

財徳さんが言うように、「サッカーの話をしよう」は大住さんのライフワークとして生涯続いていくだろう。

その原稿をいちばんはじめに読む、最初の読者として原稿をチェックする権利をこれからもだれにもゆずりたくない。「千」の道をついて行かせてもらいたいと思うのだ。







プロフィール

大原智子(おおはら・ともこ)
三重県伊勢市出身。1976年大学入学と同時にサッカーを始め、卒業後はクラブチームFCPAFを創設した。76年からチキンフットボールリーグ、81年にスタートした東京都女子リーグでプレーし、現在もFCPAFで現役。81年から84年まで日本代表。ポジションはMFだが、日本代表ではDF。クラブでも、チームの必要に応じてFW、DFでもプレーした。選手活動のかたわら、ワールドカップは82年スペイン大会、86年メキシコ大会、90年イタリア大会、94年アメリカ大会、98年フランス大会、02年日本/韓国大会、06年ドイツ大会、10年南アフリカ大会、14年ブラジル大会、9大会を観戦している。
著書 『がんばれ、女子サッカー』共著 岩波アクティブ新書
・フリーランス・エディター/ライター
・ハーモニー体操プログラム正指導員、ハーモニー体操エンジンプログラマー

2014年8月26日火曜日

絵はがきが届けてくれたもの



きのう1枚の絵はがきが届いた。

「ブラジル最後の夜は・・・」という書き出しで始まる7月15日の消印のものだ。この絵はがきは6週間かかってようやく日本にたどり着いた。サッカージャーナリストとしてブラジルでワールドカップの開幕から決勝戦まで取材していた私のチームの監督からのものだ。

ワールドカップ期間よりも長い時間をかけて、ブラジルのなつかしい香りをのせて絵はがきは届いた。

先日、ワールドカップの清算(いろいろな立て替え分を返したり戻してもらったり)がようやく終わった。あえて目を背けていた今回のワールドカップにどれだけの経費がかかったのかがはっきりと数字として表れた。それと同時に総飛行距離も算出した。

総飛行距離25,373マイル。

これがどのくらいの距離なのかはなかなかイメージしづらい。

内訳は

往路
羽田—フランクフルト 4,149マイル
フランクフルト—サンパウロ 4,265マイル
復路
サンパウロ—ミュンヘン 4,291マイル
ミュンヘン—羽田 4,109マイル

ブラジル国内移動 8,562マイル

こうやってみると、ブラジルがどれほど遠くて、しかもブラジル国内がどれほど広いかがわかるだろう。

今回の旅は飛行機に乗っている時間、空港にいる時間が本当に長かった。

もちろん、観戦した7試合とそのスタジアムはとても印象深く残っているけれど、それにも劣らず、1回1回の飛行機移動で過ごした飛行機や空港での時間がとてもなつかしく思い出される。

6月13日金曜日、午前5時にサンパウロ空港に降り立った。羽田を飛び立ってから27時間が経っていた。それでもこれはまだ途中下車(?)であり、最終目的地のレシフェへの便は4時間後だった。

日本を出発する前には、ブラジルの治安に関していろいろな報道がなされていた。空港はとくに危険だということだった。

国際線から国内線への乗り継ぎだったため、荷物をピックアップして、あらためてチェックインしなければならない。サンパウロのグアルーリョス空港は広い空港だった。国際線から国内線への移動は大きな荷物を持って15分以上歩かなければならなかった。案内の表示をキョロキョロ探しながらTAM航空のカウンターを目指した。こういう姿こそ「格好のカモ」なのだろうとは思ったけれど・・・。

ようやくTAMのカウンターが目にはいり、その手前に自動チェックイン機を見つけた。

乗り継ぎの時間にはまだまだ余裕があったので、自動チェックイン機にまず慣れておこうと、いちばん人がいない機械の前に陣取り、緊張しながら指示された手順に沿って操作しようとした。でも、その指示がポルトガル語だった。

これが最初のポルトガル語の洗礼だった。

チェックインの操作なんて、どこでもそんなに変わりはないだろうと思ったけれど、カード挿入口も日本のものとは違っていたし、パスポートをスキャンする操作も初めてのものだった。

荷物をカラダから離さないように持ち、脂汗をかきかき、わからない言語と格闘したあげくに、ようやく搭乗券が機械から出てきたときには、大きなひと仕事を終えたような気持ちになった。

搭乗券を大事にバッグにしまい、荷物を預けようとカウンターに向かったら、ここは同じTAMでも国際線のTAM のカウンターだった。国内線のカウンターはもっと先だったのだ。

それからまた大きな荷物を引っぱりながら国内線のカウンターまで行き、荷物を預けたときには、2つ目の大きな仕事を終えた気持ちになった。

さて3つ目の仕事は、現地通貨を調達することだ。

ブラジル通貨のレアルをクレジットカードでキャッシングしようとATMの前に立った。いちいち緊張する作業だ。慎重に財布を出してクレジットカードを取り出そうとした。

「ない! クレジットカードがないっ!!」

まっ青になった。クレジットカードがないのだ。頭はびゅんびゅん回転した。いままでの行動をさかのぼっていた。だれかが近づいてきて盗ろうにもそんな機会はなかった。と思う。いくらプロの仕業でも、こんなバッグの奥から財布を出してクレジットカードだけを抜いて行くことなんてできないだろう。

自動チェックイン機!

あの機械からカードを抜き取るのを忘れたのだ。次の瞬間、TAMの国際線のカウンターに向かって走り出していた。あれからすでに20分以上は経っている。機械は次の人が使っているだろう。抜き取られたクレジットカードはどうなるのだろう。どこかに置かれて、それをだれかが持って行く・・・。

クレジットカードはカード会社に連絡して止めてもらえばいい。でも、試合のチケットを受け取るのにあのクレジットカードが必要だ。ここまできて試合が見れないなんてことあるのだろうか! 頭のなかはいろいろな思いが錯綜していた。

国際線のTAMのカウンター前の自動チェックイン機の前には人が並んでいた。その周りを見てもカードらしきものは見当たらなかった。当たり前か・・・。

絶望してまわりを見渡すと、人のいないところにぽつんと自動チェックイン機があった。

そうだ、私は人のいないところの機械を選んでいたのだった。

走ってその機械の前に行くと、カード挿入口の奥に私のクレジットカードが笑って待っていた。「やれやれ、やっと戻ってきたか・・・」
本当にそんな風に見えたのだ。私がこんなに焦っているのに、何事もなかったように悠然と私のクレジットカードはそこにいた。

あまりにもほっとして涙があふれてきた。

私のブラジル1日目はそうやって始まった。



これからの3週間、どのようにしてブラジルで過ごすのか。それは、危険といわれている治安に対してではなく、ほかのだれでもない自分自身への強い警鐘のように思われた。

そのおかげなんだかどうだか知らないが、私の3週間のブラジル生活はやさしく親切なブラジルの人たちの中で楽しくおだやかに過ごせたことは何度も書いてきたとおりだ。

唯一残念だったのは、日本代表がグループリーグで敗退してしまい、私の希望だったリオデジャネイロのマラカナン・スタジアムで日本代表の試合を見ることがかなわなかったことだ。

せめて、マラカナンでラウンド16のコロンビア—ウルグアイ戦を見たかったけれど、チケットを手に入れることはできなかった。

6月29日に行われたラウンド16のコスタリカ—ギリシャ戦(レシフェ)が私のブラジル最後の試合だった。

帰国してから決勝戦までの10日間もあっという間に過ぎ、さらに1カ月半、私のブラジルはすでに遠くなっていた。

そんなところに1枚の絵はがきが届いたのだ。行きたかったマラカナンの絵はがきが・・・。



もうずいぶん昔のように感じられたワールドカップの日々もたった1枚の絵はがきであっという間によみがえった。

飛行機で降り立ったひとつひとつの街の空気と土の匂い、そこで出会った人々の顔が次々と浮かんでくる。

最近はなんでもEmailで済ませていた。Emailで写真や文章を送って瞬時に地球の反対側とその場を共有できることはとても楽しかった。

でも、40日間かけて届いた絵はがきから伝わってきたものは、それとはまったく違うものだった。


リオの風がふぅっと吹いた気がした。


プロフィール

大原智子(おおはら・ともこ)
三重県伊勢市出身。1976年大学入学と同時にサッカーを始め、卒業後はクラブチームFCPAFを創設した。76年からチキンフットボールリーグ、81年にスタートした東京都女子リーグでプレーし、現在もFCPAFで現役。81年から84年まで日本代表。ポジションはMFだが、日本代表ではDF。クラブでも、チームの必要に応じてFW、DFでもプレーした。選手活動のかたわら、ワールドカップは82年スペイン大会、86年メキシコ大会、90年イタリア大会、94年アメリカ大会、98年フランス大会、02年日本/韓国大会、06年ドイツ大会、10年南アフリカ大会、14年ブラジル大会、9大会を観戦している。
著書 『がんばれ、女子サッカー』共著 岩波アクティブ新書
・フリーランス・エディター/ライター
・ハーモニー体操プログラム正指導員、ハーモニー体操エンジンプログラマー