1998年11月6日金曜日

第11回 チームは1日でできるものじゃない

 1980年3月23日は雪の降る寒い日だった。第1回全日本選手権大会1回戦、実践女子大学対高槻女子。わたしは初めての全国大会を戦っていた。高槻女子は中学生主体だが、松田理子という、後の日本代表のエースストライカーを擁し、高い技術をもったチームだった。結果は0-3で敗れ、わたしの最初のチーム・実践女子大学の最後の公式戦となった。

 大学を卒業したら卒業生で新しいチームをつくろうと決めていた。当時、東京のリーグ(チキンフットボールリーグ)は7チームで、大学が3、企業が2、クラブチームが2だった。既存のチームにはいるとしたら、ふたつあるクラブチームのどちらかだったが、ひとつはつぶれそうなチームで、もうひとつは「FCジンナン」という、大学時代いつも優勝を競いあったライバルチームだった。ライバルチームにはいるわけにはいかなかった。

 80年の卒業生が4人、前年までの卒業生7人と合わせて11人(うち東京在住が8人、ほかは福岡県、兵庫県、長野県在住)で、グラウンドもなく、監督、コーチもなく、とにかく新チームを始めようとしていた。

 「うちで女子のチームをつくるんだが、みんなで来てくれないか」

 突然の話だった。読売クラブでユースのコーチをしているという人が、わたしたちの最終戦に来て、声をかけてきたのだった。当時の読売クラブは日本サッカーリーグの1部に上がるやいなや強豪となり、企業のチームのなかにあって唯一クラブチームとしての異彩を放っていた。その読売クラブが下部組織として女子のチームをつくるという。わたしたちを中心として。立派なグラウンド、優秀なコーチたち・・・。願ってもない環境だった。

 しかし、結局わたしたちはその話を断った。理由はいろいろあったが、ひとつは同じ大学を卒業したというつながりを延々と続けていける家族のようなチームにしたかったのだと思う。読売はまったく新しいチームを一からつくり、毎年メンバーをがらりと変えて、どんどん強くなり、4、5年でわたしたちが勝てないチームになってしまった。そして現在のL・リーグの強豪「読売ベレーザ」がある。

 わたしのチームはわずか4年で卒業生だけではやっていけなくなり、「だれでもはいれる」というより「だれにでもはいってほしい」チームになった。それでも、サッカーがやりたいというつながりを延々と続けていける家族のようなチームであることに変わりはない。わたしたちの選択はまちがっていなかったと思う。

 女子サッカーの世界では、よりよい環境を求めてチームの名前を変えるというのはめずらしいことではない。

 86年、名門「FCジンナン」が「日産FC」となり、「小平FC」は89年に「新光精工」になり、93年に「TOKYO SHIDAX」になった。どちらも東京都リーグの強豪チームだったが、89年に始まった日本リーグ(現在のL・リーグ)に参加するために、スポンサーが必要になったのだ。日本リーグに参加したチームのほとんどが同じような経過をたどり、企業の名前に変えていた。読売ベレーザだけが元のままの形で参加することができた。

 日本リーグが始まってから10年。各チームは世界のトップレベルの選手を呼び、強化を図ってきた。そのため日本の女子サッカーのレベルは飛躍的に伸びてきた。日本リーグ(L・リーグ)が果たした役割は計り知れなく大きいと思う。しかし、現在各チームが非常に厳しい状況にある。トップリーグでの力を維持するためには、何人もの外国人選手やプロ選手をもたなければならず、かかる経費を、この不況のなか企業が支えられなくなってきたのだ。

 今シーズンを限りに「日興證券」と「フジタ」の2チームがL・リーグから撤退することが決まった。すでに93年に日産、95年にSHIDAXが撤退している。L・リーグ撤退はチームの解散を意味している。過去の2チームがそうだったように、チーム自体がなくなってしまうようだ。

 なぜ、チームとしてL・リーグ以外で生き残る道を考えないのだろうか。地域リーグで活動するのであれば、年間にかかる経費は100分の1ですむのだ。L・リーグじゃなければ企業にとって何のメリットもないからチームを続ける意味がないというのか。チームに少しの責任感と柔軟な考え方があれば、日産はFCジンナンに、SHIDAXはFC小平に戻れたかもしれないのに。
 Jリーグで起こっている「マリノス・フリューゲルス合併問題」で、フリューゲルスのひとりのサポーターがテレビのインタビューに答えて言った。

 「だれでも自分の家族が突然いなくなったら悲しいでしょ。それと同じです」 

 チームというのは1日でできるものではない。プロチームだったら、サポーターも交えて、多くの人の力と愛情で支えられている。わたしのチームのような、ただの町のクラブチームでさえ、クラブ創立以来、18年の間に150人以上の人がチームに関わり、それぞれがなんらかの思いを抱いていることだろう。

 「あすからチームは無くなります」

 こんな言葉は、どんなチームでも言えないことなのだ。