第8回
女子サッカー、いまむかし
日本サッカー協会女子委員会から一通の封書が届いた。
1981年香港で行われた第4回アジアカップに出場した最初の女子の日本代表から現在に至るまでの、キャップ数(国際Aマッチ出場数)が1以上の日本代表選手の名簿だった。総勢81人の名簿には氏名、当時の所属クラブ、出場数、得点数、初代表試合が記され、同封の調査票に、生年月日、現住所、近況などを記入して送り返すようになっている。
1970年代から80年代前半にかけての女子サッカーの記録や資料はほとんど残っていない。79年に日本女子サッカー連盟が設立されたが、その後日本サッカー協会の中に組み込まれ、女子委員会、五種委員会、女子委員会と名称が変更になるとともに、事務所も移転し、失われたものも多いようだ。
日本の女子サッカーは、1989年に初の全国リーグである日本女子サッカーリーグ(94年から愛称「L・リーグ」)をスタートさせた。また日本代表は、91年の第1回FIFA世界選手権(中国)、95年の第2回FIFA世界選手権(スウェーデン)、96年アトランタ・オリンピック(アメリカ)に出場し、その実力が世界レベルにあることを証明してきた。
しかし、歴史がここから始まったわけではない。
東京のFCジンナンは78年第2回アジアカップ(チャイニーズ・タイペイ)に日本を代表して参加していたし、関西の神戸FCは80年に香港、82年には中国の上海に遠征していた。クラブチーム単位でアジアとの交流はこの時代に始まっていたのだ。
神戸FCの清水万帆は小さい体でボールを軽々とけった。右サイドからのセンタリングは正確そのものだった。FCジンナンの石川通子は「女釜本」と呼ばれるほどのスターで、スケールの大きい選手だった。
80年代前半は日本代表として胸に日の丸をつけて国際大会に出ても、A代表で参加する国が少なかったために、キャップとして数えられずに名前の残らない選手もたくさんいた。
初期のころの日本代表は、東京、清水、関西の限られた3つの地域から選手を選んでいた。東京はほとんどが社会人、清水は全員が高校生、関西は高校生と大学生という、地域によってサッカーの環境がまったく違うものだった。
当時、東京の選手は20代なかばだったが、完全に年寄り扱いされていた。同等の力ならば将来性のある若い選手を使うという雰囲気がはっきりとあった。しかし、将来性のあるはずの若い選手たちのほとんどは高校を卒業して社会人になると次々とサッカーをやめていった。残ったのは大学に進学した選手と、一握りの社会人選手だけだった。働きながらサッカーを続けられる環境がなかったのだ。当時の女子サッカー界の未成熟さだった。
現在はL・リーグがあり、サッカー選手を仕事とすることができたり、サッカーと仕事が両立できるような環境が整えられている。トップレベルの選手はそういう環境を手にすることができる。
しかし、まだまだ問題はある。選手を終えたあと、どれくらいの人がサッカーに関わっているのだろう。L・リーグを引退した選手のどれくらいがコーチやスタッフとしてチームに残っているのだろう。地域のチームの指導者としてどれくらいの人が活躍しているのだろう。いまきちんと歴史をたどって、記録を残し、これからの課題を見極めなければならないのではないか。
返送するための調査票に自分の近況を書き込みながら、名簿に書かれている選手たち、名簿以前の選手たちの当時といまに思いをめぐらせた。
女子サッカー、いまむかし
日本サッカー協会女子委員会から一通の封書が届いた。
1981年香港で行われた第4回アジアカップに出場した最初の女子の日本代表から現在に至るまでの、キャップ数(国際Aマッチ出場数)が1以上の日本代表選手の名簿だった。総勢81人の名簿には氏名、当時の所属クラブ、出場数、得点数、初代表試合が記され、同封の調査票に、生年月日、現住所、近況などを記入して送り返すようになっている。
1970年代から80年代前半にかけての女子サッカーの記録や資料はほとんど残っていない。79年に日本女子サッカー連盟が設立されたが、その後日本サッカー協会の中に組み込まれ、女子委員会、五種委員会、女子委員会と名称が変更になるとともに、事務所も移転し、失われたものも多いようだ。
日本の女子サッカーは、1989年に初の全国リーグである日本女子サッカーリーグ(94年から愛称「L・リーグ」)をスタートさせた。また日本代表は、91年の第1回FIFA世界選手権(中国)、95年の第2回FIFA世界選手権(スウェーデン)、96年アトランタ・オリンピック(アメリカ)に出場し、その実力が世界レベルにあることを証明してきた。
しかし、歴史がここから始まったわけではない。
東京のFCジンナンは78年第2回アジアカップ(チャイニーズ・タイペイ)に日本を代表して参加していたし、関西の神戸FCは80年に香港、82年には中国の上海に遠征していた。クラブチーム単位でアジアとの交流はこの時代に始まっていたのだ。
神戸FCの清水万帆は小さい体でボールを軽々とけった。右サイドからのセンタリングは正確そのものだった。FCジンナンの石川通子は「女釜本」と呼ばれるほどのスターで、スケールの大きい選手だった。
80年代前半は日本代表として胸に日の丸をつけて国際大会に出ても、A代表で参加する国が少なかったために、キャップとして数えられずに名前の残らない選手もたくさんいた。
初期のころの日本代表は、東京、清水、関西の限られた3つの地域から選手を選んでいた。東京はほとんどが社会人、清水は全員が高校生、関西は高校生と大学生という、地域によってサッカーの環境がまったく違うものだった。
当時、東京の選手は20代なかばだったが、完全に年寄り扱いされていた。同等の力ならば将来性のある若い選手を使うという雰囲気がはっきりとあった。しかし、将来性のあるはずの若い選手たちのほとんどは高校を卒業して社会人になると次々とサッカーをやめていった。残ったのは大学に進学した選手と、一握りの社会人選手だけだった。働きながらサッカーを続けられる環境がなかったのだ。当時の女子サッカー界の未成熟さだった。
現在はL・リーグがあり、サッカー選手を仕事とすることができたり、サッカーと仕事が両立できるような環境が整えられている。トップレベルの選手はそういう環境を手にすることができる。
しかし、まだまだ問題はある。選手を終えたあと、どれくらいの人がサッカーに関わっているのだろう。L・リーグを引退した選手のどれくらいがコーチやスタッフとしてチームに残っているのだろう。地域のチームの指導者としてどれくらいの人が活躍しているのだろう。いまきちんと歴史をたどって、記録を残し、これからの課題を見極めなければならないのではないか。
返送するための調査票に自分の近況を書き込みながら、名簿に書かれている選手たち、名簿以前の選手たちの当時といまに思いをめぐらせた。