1999年7月9日金曜日

第27回 指導者が足りない

 「イタリア・リーグに初の女性監督」
 先日の朝日新聞夕刊で、上記の見出しとクラブのマフラーを首にかけ堂々と歩く女性の写真に目を奪われた。

 カロリーナ・モラーチェ、35歳。80年代から90年代にかけての女子サッカー界のスーパースターだ。代表における105得点/150試合はエリザベッタ・ビニョット(107110=イタリア)、ミア・ハム(107172=アメリカ)に次ぐものだ。
 今季、イタリア・リーグ・セリエCの「ビテルベーゼ」の監督に就任した。女子チームではない。れっきとした男子のプロチームだ。日本でいえば、JFLのチームの監督といったところだろうか。

 1981年9月。「ポートピア81 国際女子サッカー」と銘打った、日本で初めての国際大会がイタリア、イングランド、デンマークを招待して開催された。
 9月9日、東京・西が丘サッカー場で行われた日本代表対イタリア代表に、わたしは出場した。自分のチームではFWしかやったことがなかったが、初めての国際試合でのポジションはストッパーだった。相手チームのエースを抑える役割だ。守備の技術はまるでなかったが、足の速さと負けず嫌いの性格を買われたのだと思う。

 相手のエースはエリザベッタ・ビニョット、「女クライフ」と呼ばれ、当時の世界ナンバーワン・プレーヤーだった。守りのシステムなんてなかった。わたしは、ただビニョットについてまわった。足の速さには自信があったが、一瞬の速さでことごとく置いていかれた。試合を通じて、わたしはビニョットの横顔と背中もしくはお尻しか見ていなかったように思う。

 試合中たったいちどだけ、わたしはビニョット以外の選手と対峙した。17歳のカロリーナ・モラーチェだ。ゴール正面、ペナルティーエリアのラインあたりから打ったモラーチェのシュートがわたしのみぞおちを直撃した。数秒間、まったく息ができなかった。次の瞬間、苦しさにのたうちまわった。記念すべき初代表試合のテレビ放映で、唯一わたしが大写しになったのは、そんな場面だった。

 結果は0-9で負け。赤ん坊と大人の差があった。しかしそれは、イタリアと日本の女子サッカーの歴史の差でもあった。ヨーロッパでは70年代から国同士の選手権大会が行われていたのだ。

 その後、日本も徐々に国際試合の経験を積んだ。そして86年9月、ビニョットとモラーチェを擁するイタリア代表をふたたび招待した。2試合行い、結果は1-2と2-3。敗れはしたものの、守備はしっかり組織され、攻撃は何度も相手ゴールを脅かした。互角に戦う日本代表の姿はまさに5年間の成長を示していた。

 80年代後半には、アメリカ、中国、ブラジルといった大国が代表を組んで試合を始めた。そして91年、ついに第1回女子ワールドカップが中国で開催される。

 日本は第1回中国大会、第2回スウェーデン大会と出場し、初めて正式種目となったアトランタ・オリンピックにも参加して、世界レベルの力を示してきた。そして、80年代から活躍してきた選手たちは、96年のアトランタ・オリンピック出場を区切りに代表チームを去った。

 半数が入れ替わり若い世代になった新しい日本代表チームは、6月19日から7月10日にかけてアメリカで開催された第3回ワールドカップに出場した。
 しかし、日本代表は非常にきびしい戦いを強いられた。いままでの12チームから16チームの参加になった今大会は、グループ2位になってベスト8にはいることが、来年のシドニー・オリンピック出場のために最低必要な条件だったが、初出場のロシアに完敗し、グループ最下位に終わってしまったのだ。

 日本代表はこの20年間で確実に成長してきた。しかし日本女子サッカー界全体が同じように成長してきたかどうかは疑問だ。ここ数年、登録チーム数は伸び悩み、全日本選手権の都道府県予選の参加チームは逆に減少の傾向にさえある。

 日本の女子サッカーの課題はたくさんある。しかし、いま考えなければならないのは、底辺を拡大することだ。もっともっとチーム数を多くし、競技人口を増やすことが必要だ。それにともなってもっと多くの指導者が必要になる。これこそわたしたちがいま真剣に取り組まなければならない問題なのだ。
 この20年間で日本の女子サッカー界は多くの優秀な選手を輩出してきた。しかし、そのなかからどれだけの人数のコーチが生まれているのだろうか。

 モラーチェは78年に14歳でリーグにデビューし、98年に34歳で現役を引退後、ラツィオの女子チームの監督になった。