1999年1月15日金曜日

第15回 万全の準備を整えて、ことしこそ!

 毎年元日は初もうでがわりに国立競技場に出かける。ことしは横浜フリューゲルスの天皇杯優勝によって、いつもとはちょっと違う感慨をもって新年を迎えた気がする。

ことしの日本のサッカーはどうなるのだろうか。世の中の景気の浮き沈みに左右されることなく、一歩一歩着実に根づいていってほしい。98年のワールドカップ出場が頂点だったなどということにならないように。それが最初の一歩なのだから。

 天皇杯決勝や高校選手権の陰に隠れてなかなか話題にのぼらないが、女子の天皇杯ともいうべき全日本女子サッカー選手権大会も1月に行われ、ことしで第20回を迎えた。ここでも同じようにフジタや日興證券が最後の戦いを繰り広げている。

 現在はLリーグの10チームと、全国9地域の予選を勝ち抜いた9チームに前年度優勝地域からもう1チームの合わせて20チームが参加し、準決勝まで全国各地で、決勝のみ東京の国立競技場で試合を行う大会方式になっている。

 わたしが所属するチームは1年間の目標をこの大会に出場することに置いている。東京選手権で2位までにはいり関東選手権に進み、そこで優勝しなければ全日本選手権に出ることはできない。東京都を勝ち抜くことすら簡単なことではなく、89年以来10年間も全日本選手権とは縁がない。

 というわけで、わたしのなかの全日本選手権というのは、むかしむかしのお話になる。いまでもなつかしく思い出されるのは、第3回大会のことだ。

 1982年3月。チームを創立して2年目のことだ。
 当時は東日本から3チーム、西日本から3チーム、東海から2チームの合計8チームが東京の西が丘サッカー場で2日間で決勝まで行うというすごい日程だった。

 わたしのチームは東京予選を5位、東日本予選を3位という、予選を勝ち抜くための最低の順位でかろうじて全日本選手権までたどりついていた。1回戦は西日本第1代表の西山高校だった。わたしたちは1回戦に勝つことを目標にしていた。結果は2-1の勝利。試合後のロッカールームは優勝したような騒ぎだった。そこに翌日の準決勝の相手チーム、前年度準優勝で東日本第1代表FCジンナンのマネジャーがユニホームの打ち合わせにはいってきた。

 「わたしたちは決勝でプーマの白のユニホームを着なければならないことになっています。準決勝では青を着たいのですが・・・」

 淡々と事務的に話すその言葉を聞いて、わたしたちはお祭り騒ぎから一転して頬を平手打ちされたような衝撃を受けた。

 だれもが決勝は前年度と同じ対戦カードの東海第1代表の清水第八とFCジンナンの戦いになると予想していた。わたしたちも大会前はそう思っていた。しかし、試合をする前から当然勝つつもりでいるなんて・・・。1回戦を勝って満足していたわたしたちに新たな闘志が芽生えた。

 翌日は雨になった。西が丘サッカー場は立派な芝生のグラウンドだが、その日は田んぼのような状態だった。FCジンナンのパスをつなぐサッカーはほとんど実を結ばず、互角の戦いになった。両者泥まみれになりながら0-0で終了。PK戦でわたしのチームが勝利を収めた。

 ふたたびロッカールームは優勝したような騒ぎになったが、すぐに我に返った。だれも2試合分の着替えをもっていなかったのだ。ユニホームだけは2着もってきていたが、ストッキングと下着の替えがなかった。試合に出なかったチームメートがコインランドリーと買い物に走ってくれて、やっとのことで数時間後の決勝を迎えた。

 決勝は清水第八との対戦になったが、実力差に加え準備不足も手伝って、なすすべなく0-6で敗れた。このスコアは決勝戦における最大得点差(タイ記録)としていまでも大会史上に残っている。

 全日本選手権準優勝という晴れがましい経歴を思い出すとき、同時にすべてにおいて未熟だったころの自分が甘酸っぱくよみがえる。あのころは監督もコーチもいなかった。いまは監督やコーチにも恵まれ、技術的にも、練習や試合に臨む姿勢も格段に進歩していると思うのに、全日本選手権への道は遠く険しい。

 シーズン開幕まであと3カ月。あいかわらずユニホームも遠征費も自己負担のクラブチームだ。チーム力を上げることはもちろんだが、全日本選手権貯金も始めよう。万全の準備をして、ことしこそ全日本選手権へのキップを手にしたい。