2016年4月7日木曜日

望月三起也先生が逝ってしまった・・・

                                                写真提供/今井恭司


1975年9月のある日曜日。実践女子大学日野寮の電話が鳴った。

「サッカー同好会の方をお願いします」

実践女子大学サッカー同好会といっても、大学から承認されて間もないクラブで、メンバーも10人に満たなかった。

日野寮は、実践女子大学の日野校舎で学ぶ1年生と2年生の地方出身者が暮らしていた。日野寮は日野市にあり、JR日野駅は東京発の中央線で立川駅の次、八王子駅の2つ手前の駅だ。その日野駅から徒歩十数分。中央線に沿った坂道を八王子方面に登りきったところに大学と寮があった。

東京とはいえ都心から遠く離れたキャンパスには、こぢんまりとした校舎には似つかわしくない300mのトラックとその内側には青々とした立派な芝生が植えられていた。グラウンドは日野寮の1階の食堂に面していた。寮生は、毎日朝昼晩とその芝生のグラウンドを見ながら食事をとっていた。

その中にサッカー好きの学生がいた。東京の大学に入れば日本リーグや大学リーグ、日本代表の試合だって見ることができる。それが東京の大学を選んだいちばんの理由だった。大学1年の秋、関東大学リーグの試合を寮生の友人と一緒に見に行った。その友人はひと目見てサッカーの虜になった。寮に戻り、その興奮をまわりの寮生に伝えた。その輪は関東大学リーグの試合を重ねるごとに大きくなった。シーズン終盤には観客席の真ん中には女子大生の一団があった。優勝決定の瞬間にそのグループが放った紙吹雪が舞う写真は当時のサッカー雑誌に取り上げられた。

サッカーの魅力に取り憑かれたグループは、自分たちでもボールをけってみたくなった。気がつけば、寮の目の前にはすばらしいグラウンドがあった。ボールを1個買ってきて、芝生のグラウンドでボールをけり始めた。

これが実践女子大学サッカー同好会の始まりだった。まだ女子のサッカーチームがほんの数チームしかなかった時代。私の先輩たちのチーム創設物語だ。

ずいぶん前置きが長くなってしまった。

電話の声の主は望月三起也という男性だった。

望月三起也という人は、一般的には「ワイルド7」という超人気漫画の作者で大家と呼ばれるような人だったが、サッカー界では無類のサッカー好きとして知られ、サッカー・マガジンには『絵故ひい記(えこひいき)』のちに『図々SEE(ずうずうしい)』という絵コラムを連載していた。

寮の館内放送で呼び出されたサッカー同好会のメンバー数人が、受話器に耳を近づけ「望月三起也」という名前を聞いて色めきたった。あの大家が直々に、できたばかりのサッカー同好会あてに、どこで調べたのか寮に電話をかけてきたのだ。「えっ? あの望月三起也先生がなんで?」。

望月先生は、自身は「ワイルド11(イレブン)」というチームを作ってプレーしていたが、女子チーム「ワイルド11レディース」の監督もしていた。そのチームとの練習試合の申込みだった。

実践はできたばかりのチームで、活動といえば、小学生の男子と練習試合をしたり、小さなミニサッカー大会に出場したくらいだった。

望月先生にしてみれば、自分のチームの選手に試合をさせてやりたい一心であらゆる情報を集めて自ら電話をして練習試合のアレンジをしていたのだろう。それほど、女子のチームがなかった時代だ。

そうした縁で他のチームも加えて練習試合を重ねていく上で、望月先生はある決心をした。

「女子サッカーリーグをつくる」

望月先生は当時、日本リーグの三菱重工サッカー部のファンとして有名で、三菱グループの関係者とは強いつながりがあった。思い立った先生は、巣鴨に人工芝のグラウンドをもつ三菱養和会のトップに話をつけに行った。先生の純粋な女子サッカーへの愛情が大企業の上部を動かしたのだ。

実践にかかってきた電話から約半年で、三菱養和会の全面的なバックアップを得て、東京に女子サッカーリーグが誕生した。

女子のサッカーはまだまだ未熟で、えさに群がるにわとりのようにボールに集まってしまう様子を「チキンフットボールリーグ」と先生自ら名付け親になった。

チキンリーグは1976年から1980年の5年間でその使命を終え発展的に解消するが、その間に女子サッカーは日本サッカー協会の傘下に入り、日本女子サッカー連盟を設立する。当時まったく資金源がなかった女子サッカー界にあって、連盟そのものだけでなくリーグ、大会のロゴマークやプログラム、ポスターのすべてに望月先生がイラストを書いた。




先生の功績はそういう組織の礎を築く力を貸してくれただけでなく、女子サッカーがメディアにほとんど取り上げられることなどなかった時代に、折に触れてサッカー・マガジンのコラムで女子サッカーを真っ当に扱い、温かく、ときにきびしい批評をしてくれたことにあると思う。




これはサッカー・マガジン198111月号。9月に行われた「ポートピアサッカー’81」のことを扱ったコラム。女子日本代表として、はじめてヨーロッパの代表チームと対戦した大会。0-9のスコアでイタリア代表にこてんぱんにやられた。ちなみに、中央でイタリア代表のビニョット選手を相手に鎧を身にまとい真剣で挑んでいるのは私だ。ぶざまにやられ続けたこの試合を今後につながる試合として愛情深く描いてくれている。





そしてこちらは198211月号。チキンリーグ設立から7年。「この名前(チキン)がとれたときが本モノのサッカーと合言葉に昨年めでたくとりはずしましたが、プレーの方はいまひとつ脱皮できてない。そろそろ飛ぶための羽を持ってほしい」ときびしい言葉をかけてくれている。

望月先生がどれだけの大家だったのか、漫画を読まない私は失礼ながらよく知らない。ただ、私がサッカー・マガジンでアルバイトとして働いていたときに、先生のところに原稿を取りに行くことがあった。ふつう、原稿取りの編集者は階下に部屋があって、そこで原稿ができるのを待つものだった。先生に直に会うことなどない。私もその例にならい下の部屋で待っていると、「トモが来てるのかい? あがってきなさい」と上の仕事場に呼び入れてくれた。締切前、睡眠不足で疲れきっているはずなのに、満面の笑顔で迎えてくれて、原稿に最後のペンを入れながら「最近、調子はどうだい?」とか、たわいないサッカーの話を本当に楽しそうにしてくれる、そんな人だった。

最後に先生に会ったのはいつのことだっただろう。

去年、実践女子大学サッカー同好会は40周年を迎えた。40周年の節目に、私は創設メンバーの先輩たちひとりひとりから当時の話を聞いた。

そのときに、日野寮に望月先生から電話がかかってきたときの話を聞いたのだ。

私は、先輩たちがサッカー同好会をつくってから1年経たないうちに大学に入学し、同好会に入った。チキンリーグには初年度から出場し、ベスト8にも選ばれた(当時は8人制サッカーだった)。草創期の苦労も知っている。だから、自分も創設メンバーのひとりだと考えていた。でも、それはまったく違う。

先月の最終日曜日3月27日に、41年前に望月先生からの電話を受けた先輩のひとりからメールがきた。

「今日は池袋東武での望月三起也原画展に行って来ました。今日は先生来場予定とのことでした。今年はじめ、先生は肺癌で余命宣告を受けました。会えそうなら、迷わず会いに行く!と心に決めて行きました。直接言葉を交わすことはできませんでしたが、手紙を渡して黙礼してきました。行く前に、昔のマガジンやプログラムをたくさん読んでから行ったので、懐かしさで胸が苦しくなりました

そのメールを読んで「私も会いに行かなくちゃ!」と思った。だけど行けなかった。

そのメールからちょうど1週間後、4月3日の夜、望月三起也先生の訃報をネットのニュースで知った。先生の声、先生の顔が次々に浮かんできた。

そのとき、また先輩からメールがきた。
「あの日、日野寮に突然かかってきた望月先生からの電話が、同好会が日野のグラウンドから外の世界へ飛び出して行くきっかけになったんだよね。先生が私たちの活動を知ってくれていなかったら、いま、私たちはどんな人生になっていたんだろう」

望月先生は、私たち実践女子大学サッカー同好会が、その後41年間絶えることなく続いていく道しるべをつくってくれた。それは、私たち卒業生がその後の人生においてサッカーを大きな支えとして生きて行くことを可能にしてくれたということだ。

女子サッカーの世界は、この41年間で大きく変わった。

望月先生は、私たちのような小さな集団に手をさしのべ、サッカーという世界に引き入れてくれた。そんな小さなことの積み重ねが、いまの女子サッカーへとつながっているのだ。

私は、なにもないところから小さな一歩を踏み出した先輩たちを誇りに思う。

そして、私たちの手をひっぱって女子サッカーに大きな一歩をもたらしてくれた望月三起也先生に、先輩たちと共に心から感謝したい。





プロフィール

大原智子(おおはら・ともこ)
三重県伊勢市出身。1976年大学入学と同時にサッカーを始め、卒業後はクラブチームFCPAFを創設した。76年からチキンフットボールリーグ、81年にスタートした東京都女子リーグでプレーし、現在もFCPAFで現役。81年から84年まで日本代表。ポジションはMFだが、日本代表ではDF。クラブでも、チームの必要に応じてFW、DFでもプレーした。選手活動のかたわら、ワールドカップは82年スペイン大会、86年メキシコ大会、90年イタリア大会、94年アメリカ大会、98年フランス大会、02年日本/韓国大会、06年ドイツ大会、10年南アフリカ大会、14年ブラジル大会、9大会を観戦している。
著書 『がんばれ、女子サッカー』共著 岩波アクティブ新書
・フリーランス・エディター/ライター

・ハーモニー体操プログラム正指導員、ハーモニー体操エンジンプログラマー


2016年3月27日日曜日

スター・ウォーズを見た



遅ればせながら、「スター・ウォーズ/フォースの覚醒」を見た。

そもそも、私とスター・ウォーズの出合いは1977年にさかのぼる。

1977年、大学2年生の夏、「語学研修」と親をだまして私はアメリカ1カ月間の旅を手に入れた。いやいや、だましたわけではない。20歳になったばかりの私は、田舎から東京に出てきて1年そこそこの純情な大学生だった。しかも住んでいたのは東京とは名ばかりの日野市! 日野駅前には「バンブー」という喫茶店と「キング」というパン屋しかなかった。ホントにそれだけしかなかった。大学構内にある寮から授業とグラウンドでの練習に通うことが生活のすべてだった。もっと広い世界を見たいという漠然としたあこがれがあるのは当然のことだ。夏休みに1カ月アメリカに行けば、だれでも英語がしゃべれるようになってアメリカ人の友だちがたくさんできると思っていた。単なるあほだ。

まだ成田空港ができる前。羽田空港からの出発だった。初めての外国。初めての飛行機。初めてのパスポート。初めてのスーツケース・・・。

滞在したのはカリフォルニア州オークランドから車で1時間くらいのダンヴィルという街だった。ゴールデンバーグさん一家のうちにお世話になった。ラリーとルース夫妻に中学生のデニスと小学生ケニーの姉弟、そしてブラッキーという犬。

絵に書いたようなアメリカの家庭がそこにあった。カリフォルニアの青い空のもとに芝生の庭に囲まれた平屋の白い家。そこで私はアメリカンガールとしてはじけた夏を送る予定だった。でも、そう簡単な話ではなかった。

言葉が話せないのは致命的だった。それでも、私がもっている最低限の中学生レベルの英語を駆使すれば、状況は違ったと思う。日本では元気が服を着て歩いているような私もアメリカでは借りてきた猫のようだった。



「遠慮」と「謙虚」と「恥」はだれでもがもっていて、それを推し量ってお互いがコミュニケーションするものだと思っていた。

「何が食べたい?」と聞かれても「なんでも」と言い、「どこに行きたい?」と聞かれても「どこでも」と答えた。私は会ったばかりの人に面倒をかけてはいけないと思っていた。彼らの生活の邪魔にならないようにするのが礼儀だと思っていたのだ。

言葉を流暢に話せれば、そこらへんのニュアンスを伝えることができたかもしれない。気持ちとしては「何がおいしいの? それはどんな味? お店で食べるの? 自宅でつくるの? 私にもつくれそう? もしよかったら、それを食べたい。おうちでつくるのなら、一緒にお買い物に行って、つくるのを手伝いたい」「レイク・タホにも行ってみたいのだけれど、ここからどのくらいかかるのかしら」とかね。こうやって書いてみると、英語にできない表現なんてひとつもないことに気づく。

私はただひたすら私という人間を理解してくれるのを待っていた。

状況が変わってきたのは、一家でテニスに行ったとき。私は父親のラリーに勝ってしまった。うちにいるときとは別人のような私を家族のみんなは不思議そうに見ていた。そして、公園でのバレーボールや、泳ぎは苦手だったけれど、砂浜のサッカーでは「水を得た魚」とはこのことだとばかり大はしゃぎした。

母親のルースは「tomoko、あなたはtomboy(おてんば)だったのね」と、あきれたように笑っていた。

これを機に子どもたちとも仲良くなった。

ある日曜日、ルースが私に「きょうは私たちは夫婦で出かけるから、子どもたちを映画に連れて行ってくれない?」と言った。「もちろん」と笑顔で応えた。

字幕のないアメリカ映画を見ても理解できるとは思わなかったけれど、責任ある仕事を任されて、私は緊張感とともにやりがいを感じていた。きょうは私がこの子たちの保護者なのだ!

映画館へはルースが車で送ってくれて、チケットはデニスが買ってくれた。私の仕事は何? いやいや、この子たちと一緒にいることが仕事なのだ。

映画は子ども向けの怪獣映画のようだった。こりゃ、円谷プロだなと私は冷めた目で見ていた。しかし、途中からぐんぐん映画に引き込まれていった。子どもたちといっしょにポップコーンをほおばりながら前のめりになっていた。

最後に敵をやっつけるシーンでは、映画館全体が興奮に包まれ、拍手喝采がわき起こった。デニスとケニーといっしょに私も声を上げていた。

それが「スター・ウォーズ」だった。



当時は、世界同時封切ということはなく、日本で公開されたのは翌年の夏だった。私は日本で友だちを誘って何回もスター・ウォーズを見に行った。アメリカでの1カ月間は「ああすればよかった、こうもできたのに・・・」というほろ苦い思い出もたくさんあったけれど、あの映画館全体を包む興奮のなかで、私はアメリカに受け入れられたような気がしたのだ。それを1年後の日本で何度もかみしめていた。

その後、私は長い間、映画から遠ざかることになる。サッカーでの故障が原因で映画を見る2時間を座っていることができなくなっていたのだ。その間に、スター・ウォーズは何度も続編が出て、人気を博していたけれど私が映画館でそれを見ることはなかった。

「最近の映画館は快適だよ。足も伸ばせるし、腰も痛くならないよ」という甘い誘いもあったし、サッカーで痛めたカラダも不思議なことに年々よくなってきていた。

39年ぶりに見る「スター・ウォーズ」には、39年後のハン・ソロやレイア姫、そしてルーク・スカイウォーカーがいた。あのときアメリカの映画館で私は自分の姿を映画のなかの彼らに見ていた。いっしょに悪と戦い、そして打ち勝ったのだ。

しかし、今回、もはや私は年老いた彼らに自分の姿を見たりはしなかった。

若い女性戦士レイがフォースの力を得て、ライトセーバーで痛快に敵をやっつける姿に自分を投影していた。

39年前、借りてきた猫みたいだった私は、その苦い経験を糧として、その後どこの国に行っても、もちろん国内であっても、とにかく会った人とコミュニケーションすることを心がけた。初対面であっても、たとえ言葉が通じなくても、一生懸命に自分を表現することで相手は理解してくれようとするし、新しい世界が開けたものだ。

tomboyが元気にボールをけっていた姿をアメリカのファミリーが受け入れてくれたように、ただただ元気に40年間ボールをけり続けていると、この年齢になって「『女性戦士レイ』に自分を投影した」なんてぬけぬけ言ったとしても、苦々しくではあるけれど、「ま、しょうがない。言ってろ」ってな感じで受け入れてくれるのだ。と、私は信じている。



プロフィール

大原智子(おおはら・ともこ)
三重県伊勢市出身。1976年大学入学と同時にサッカーを始め、卒業後はクラブチームFCPAFを創設した。76年からチキンフットボールリーグ、81年にスタートした東京都女子リーグでプレーし、現在もFCPAFで現役。81年から84年まで日本代表。ポジションはMFだが、日本代表ではDF。クラブでも、チームの必要に応じてFW、DFでもプレーした。選手活動のかたわら、ワールドカップは82年スペイン大会、86年メキシコ大会、90年イタリア大会、94年アメリカ大会、98年フランス大会、02年日本/韓国大会、06年ドイツ大会、10年南アフリカ大会、14年ブラジル大会、9大会を観戦している。
著書 『がんばれ、女子サッカー』共著 岩波アクティブ新書
・フリーランス・エディター/ライター
・ハーモニー体操プログラム正指導員、ハーモニー体操エンジンプログラマー