最近、体がキツイ。リズムが狂っているのだ。
週末の土日は練習と試合でクタクタに疲れている。日曜日の夜は食事をすませると、ほとんど体は動かず、ひたすら寝ることを望んでいる。だいたい10時ころにはベッドにはいることになっていた。しかし、それができなくなっている。
日曜日の夜10時半か11時には、WOWOWでセリエAの試合を見なければならない。少し前まではR・バッジオやロナウドたちのプレーを見るのが楽しみだった。でもそれは、疲れていたり、眠かったらビデオをとって見ればよかった。
いまの目的は「中田」ただひとり。デルピエロでさえワキ役に見える。世界で最もレベルの高いリーグのひとつであるセリエAで、ユベントスやインテルなどのスターたちと同等にわたりあってプレーする中田を生放送で見ることができるのだ。ビデオというわけにはいかない。体は多少きついが、次の1週間への活力となるのだ。
イタリアで活躍する中田を見ながら、ひとりの女子サッカー選手を思い出した。現在もL・リーグの鈴与清水FCラブリーレディースでプレーしている長峯かおりだ。
長峯は1991年12月から93年6月までイタリアの女子サッカーリーグ・セリエAで活躍した。
最初に会ったのは1981年の春、長峯が中学1年生のときだった。その年の3月には東京都女子サッカー連盟が発足し、4月には第1回東京都女子サッカー大会が開催され、5月からは第1回東京都女子サッカーリーグが始まった。
4年前に清水市の驚異の小学生を見たときのことがそのときよみがえった。長峯が木岡二葉や半田悦子と違うところは、子どもというより少年そのものだったことだ。強引なドリブルと豪快なシュートは新しい時代を感じさせた。
2年後の1983年、長峯は中学3年生で日本代表に選ばれ、中国の広州で行われた国際大会に参加した。正式な日本代表デビューは84年10月の対オーストラリア戦だが、それは広州の大会に参加したほかの国がA代表でなかったからだ。その後ずっとストライカーとして日本代表を引っ張り、64試合48得点(98年5月24日現在)という記録をもっている。
イタリア行きのきっかけは大学を卒業したことだ。当時のチームでは卒業後に続けられる環境になかった。国内での移籍を考えたが、いろいろ問題があってかなわなかった。
チームのない状態が8カ月間も続いたが、母校の日本大学男子のサッカー部で練習させてもらいながら、代表でのプレーを続けた。その年、1991年は女子日本代表がアジアカップを勝ち抜き、第1回世界選手権への出場を果たした歴史的な年だった。
11月に中国で世界選手権を戦ったあと、12月、イタリアに渡った。
移籍したレジアナというチームは、イタリア代表が11人もいるようなトップチームだった。言葉もわからない、知り合いもいない、たったひとりのイタリアだったが、住む部屋を与えられ、サッカーを職業とし、高いレベルで自分を磨けることは理想的な環境だった。
シーズン途中の移籍だったが、最初からフル出場した。16チームでの2回戦総当たりのリーグ戦は激しく、厳しいものだったが、やれる手応えを感じていた。しかし、2、3カ月たつと、徐々に調子が落ちてきた。途中出場が多くなった。明らかに疲れだった。シーズンを通して戦える体力がなかったのだ。
イタリアというところは、そこで実際プレーしてみて、選手のすごさがわかる。短期的には力に大きな差はないように感じるが、チーム内の激しい競争に勝ち抜き試合に出て、フルシーズン戦い抜く、それがイタリアの選手の強さだ。貧しい家庭に育った10歳の女の子がひとり田舎から出てきて、サッカーで身を立てられる。それがイタリアなのだ。
イタリアでの終わりはあっけなくやってきた。2シーズン目のレジアナは全勝でリーグ優勝し、イタリア・カップも制した。結果に満足したオーナーは、今度は男子に力を入れるために、女子のレジアナをやめてしまった。選手たちはほかのチームに移籍した。長峯にもオファーはあったが、日本に帰ることにした。日本の若い選手たちに自分の経験を伝えたいと思ったのだ。
ことし30歳になった長峯は、鈴与ラブリーレディースの主力選手として、強敵の日興證券を破り、久しぶりの優勝に向けてがんばっている。体力の衰えなんかぜんぜん感じていない。まだまだうまくなりたいと思っている。たとえ選手を終えても、指導者としてサッカーと関わっていられるように、準指導員コースの講習にも通っている。
「わたし、結構いいコーチになれるかもしれない。イタリアで試合に使ってもらえない時期もあったし、代表ではオリンピック直前の選考合宿で最後に落とされて、合宿所から帰されたこともある。いろいろな経験をしているから、選手の気持ちがわかるコーチになれると思うんです」
たった2年足らずのイタリアでの生活が、長峯のサッカー人生を強く、たくましく、大きく成長させたのだと思った。
長峯と久しぶりに電話で話した日曜日の夜、ちょっと疲れの見える中田に「がんばれ、これからが本当の勝負だぞ」とテレビに向かって声をかけた。
週末の土日は練習と試合でクタクタに疲れている。日曜日の夜は食事をすませると、ほとんど体は動かず、ひたすら寝ることを望んでいる。だいたい10時ころにはベッドにはいることになっていた。しかし、それができなくなっている。
日曜日の夜10時半か11時には、WOWOWでセリエAの試合を見なければならない。少し前まではR・バッジオやロナウドたちのプレーを見るのが楽しみだった。でもそれは、疲れていたり、眠かったらビデオをとって見ればよかった。
いまの目的は「中田」ただひとり。デルピエロでさえワキ役に見える。世界で最もレベルの高いリーグのひとつであるセリエAで、ユベントスやインテルなどのスターたちと同等にわたりあってプレーする中田を生放送で見ることができるのだ。ビデオというわけにはいかない。体は多少きついが、次の1週間への活力となるのだ。
イタリアで活躍する中田を見ながら、ひとりの女子サッカー選手を思い出した。現在もL・リーグの鈴与清水FCラブリーレディースでプレーしている長峯かおりだ。
長峯は1991年12月から93年6月までイタリアの女子サッカーリーグ・セリエAで活躍した。
最初に会ったのは1981年の春、長峯が中学1年生のときだった。その年の3月には東京都女子サッカー連盟が発足し、4月には第1回東京都女子サッカー大会が開催され、5月からは第1回東京都女子サッカーリーグが始まった。
4年前に清水市の驚異の小学生を見たときのことがそのときよみがえった。長峯が木岡二葉や半田悦子と違うところは、子どもというより少年そのものだったことだ。強引なドリブルと豪快なシュートは新しい時代を感じさせた。
2年後の1983年、長峯は中学3年生で日本代表に選ばれ、中国の広州で行われた国際大会に参加した。正式な日本代表デビューは84年10月の対オーストラリア戦だが、それは広州の大会に参加したほかの国がA代表でなかったからだ。その後ずっとストライカーとして日本代表を引っ張り、64試合48得点(98年5月24日現在)という記録をもっている。
イタリア行きのきっかけは大学を卒業したことだ。当時のチームでは卒業後に続けられる環境になかった。国内での移籍を考えたが、いろいろ問題があってかなわなかった。
チームのない状態が8カ月間も続いたが、母校の日本大学男子のサッカー部で練習させてもらいながら、代表でのプレーを続けた。その年、1991年は女子日本代表がアジアカップを勝ち抜き、第1回世界選手権への出場を果たした歴史的な年だった。
11月に中国で世界選手権を戦ったあと、12月、イタリアに渡った。
移籍したレジアナというチームは、イタリア代表が11人もいるようなトップチームだった。言葉もわからない、知り合いもいない、たったひとりのイタリアだったが、住む部屋を与えられ、サッカーを職業とし、高いレベルで自分を磨けることは理想的な環境だった。
シーズン途中の移籍だったが、最初からフル出場した。16チームでの2回戦総当たりのリーグ戦は激しく、厳しいものだったが、やれる手応えを感じていた。しかし、2、3カ月たつと、徐々に調子が落ちてきた。途中出場が多くなった。明らかに疲れだった。シーズンを通して戦える体力がなかったのだ。
イタリアというところは、そこで実際プレーしてみて、選手のすごさがわかる。短期的には力に大きな差はないように感じるが、チーム内の激しい競争に勝ち抜き試合に出て、フルシーズン戦い抜く、それがイタリアの選手の強さだ。貧しい家庭に育った10歳の女の子がひとり田舎から出てきて、サッカーで身を立てられる。それがイタリアなのだ。
イタリアでの終わりはあっけなくやってきた。2シーズン目のレジアナは全勝でリーグ優勝し、イタリア・カップも制した。結果に満足したオーナーは、今度は男子に力を入れるために、女子のレジアナをやめてしまった。選手たちはほかのチームに移籍した。長峯にもオファーはあったが、日本に帰ることにした。日本の若い選手たちに自分の経験を伝えたいと思ったのだ。
ことし30歳になった長峯は、鈴与ラブリーレディースの主力選手として、強敵の日興證券を破り、久しぶりの優勝に向けてがんばっている。体力の衰えなんかぜんぜん感じていない。まだまだうまくなりたいと思っている。たとえ選手を終えても、指導者としてサッカーと関わっていられるように、準指導員コースの講習にも通っている。
「わたし、結構いいコーチになれるかもしれない。イタリアで試合に使ってもらえない時期もあったし、代表ではオリンピック直前の選考合宿で最後に落とされて、合宿所から帰されたこともある。いろいろな経験をしているから、選手の気持ちがわかるコーチになれると思うんです」
たった2年足らずのイタリアでの生活が、長峯のサッカー人生を強く、たくましく、大きく成長させたのだと思った。
長峯と久しぶりに電話で話した日曜日の夜、ちょっと疲れの見える中田に「がんばれ、これからが本当の勝負だぞ」とテレビに向かって声をかけた。