1998年6月2日火曜日

第2回 大旗をつくろう!

 1976年、サッカーとの運命的な出合いがあり、選手としての一歩を踏み出した。それは同時に「サッカーファン」の始まりでもあった。

 最初に実際に見た試合は、1976年5月に行われた日英親善サッカー「日本代表対マンチェスターシティ」戦だった。初めての国際試合、初めてのナイトゲーム、初めての国立競技場。正直言って、試合の内容はほとんど覚えていない。しかし、緑の芝生が雨に濡れて、証明にきらきら光るのがとてもきれいだった。そして、目の前で戦っているのが「日本代表」というチームで、それはもう、無条件で心の底から応援してしまうチームの出現だった。

 サポーターとして、ひとつのピークが訪れた。1985年のワールドカップ予選だ。森孝慈監督が率いる当時の日本代表は特別なチームだった。それまでの日本代表は、ひとつひとつの試合で気合いをいれて応援し、結果に一喜一憂してきた。しかし、森日本代表は、これらの試合の先にはワールドカップがあるのだということを初めて教えてくれた。

 国立競技場での北朝鮮戦。いまでは信じられないことだが、スタンドの大部分を北朝鮮の国旗が占め、「イギョラ、イギョラ(北朝鮮のがんばれ)」の大合唱にかき消されながらも「ニッポン、チャ、チャ、チャ」と声をからして応援した。香港戦のホームゲームは神戸で行われた。今度こそ日本代表にホームゲームの雰囲気の中で試合をしてほしいと勇んで神戸まで出かけて行った。そしてアウェーの香港スタジアムにも。代表を追いかけて1試合、1試合を応援するうちに、どうしても勝ってほしい、どうにかして勝たせたいという気持ちがどんどん強くなっていった。そんな気持ちをどう表現していいものか、数人の友人を知恵を出し合った。

「大旗をつくろう。いままでにない大旗を!」頭に描いたのは、82年のワールドカップ・スペイン大会で見たスタンドを埋め尽くすようなブラジル色の大きな旗。
 当時の日本の応援は、国民の祝日に家の前に掲揚するような日の丸をひとりひとりが持ってきて、スタンドを日の丸でいっぱいにしようというものだった私たちはシーツを持ち寄って集まり、私がミシンを調達して、せまいアパートの一室で制作が始まった。いま考えるとなんともスケールの小さい話ではあるが、せまい部屋でシーツを縫い合わせていると、とてつもなく大きな旗のように思われた。赤い丸の比率を真剣に計算して赤い布を買いに行き、いかにきれいな丸に切り抜くかということをいんなで考えながら作っていると、国立競技場のスタンドで悠悠となびく旗が頭に浮かび、なんともいえない幸福感にひたることができた。完成した旗は6畳の部屋の中では広げることができずに、屋上まで持って行った。広げられた日の丸は堂々として、誇りに満ちたものだった。「日本代表ワールドカップ出場祈念」と書き、一人ひとりがサインを入れた。

 運命の19851026日、日本対韓国。朝早くから並んだが、青山門の列は千駄ヶ谷門の手前まで伸びていた。バックスタンド中央の18番ゲートになびくはずだった大旗は21番ゲートになってしまった。しかも、18番ゲートの前には、私たちがつくった大旗の何倍もあるような超大旗がすでにデビューしていた。熱烈なサポーターの考えることは同じ、しかもうわてだった。すこしがっかりしたけれど、まわりの人たちはとても喜んで私たちの大旗を一緒になってなびかせてくれた。そしてハーフタイムにはテレビ画面いっぱいに悠悠となびく私たちの大旗が映し出された。

 試合の結果はとてもとても残念なものだった。大旗は押し入れの奥にしまい込まれた。

 1986年6月2日、ワールドカップ・メキシコ大会。私はアルゼンチン対韓国の試合が行われるスタジオ・オリンピコにいた。
 スタンドに次から次へと韓国国旗をもった韓国人サポーターが入場してくる。そのなかでとりわけ大きい旗をなびかせてはいってくるサポーター。一瞬、それが日の丸に見えた。この試合が日本対アルゼンチンだったかもしれないと思うと、涙があふれた。
 試合はマラドーナのすばらしいプレーにワールドカップのレベルの高さを感じ、それに対する韓国のがんばりに心から声援を送った。
 私たちの日本代表には次こそがんばってもらおう。次の予選のために、押し入れの日の丸はときどき虫干ししなくちゃいけないなと思ったのだった。

 6月14日、フランス・トゥールーズのミュニシパル・スタジアム。いまはすっかり洗練された日本のサポーターたち。日本側の応援席をまっ青にして、歌あり、紙テープあり、巨大な応援旗ありで多彩な応援を繰り広げることだろう。

 私はその中にあって、ピッチに立つ選手たちとともに胸を貼って、(次の次の次だったけれど)ワールドカップの舞台で「君が代」を聞ける幸せをかみしめるだろう。