1999年8月13日金曜日

第29回 女子審判もシドニーを目指す

 チームのつかの間のオフを利用して、7月の終わりの土曜日に、審判4級取得講習会を受講した。97年にも受講して4級審判員の資格を取得していたが、有効期限が2年間だったので取り直したのだ(99年4月1日から「総合登録審判制度」がスタートしたことにより、それ以降に取得した4級審判員の有効期限は1年間になった)。

 日本サッカー協会にチーム登録する場合には、必ずチームの所属審判員を1人以上登録しなければならない。そして、わたしはチーム唯一の審判員だ。女子委員会審判部は、「女子の試合は女子の審判で」という目標を掲げて、女子審判員の育成に力を入れている。それで各チームにも、積極的に審判員を育てることを呼びかけている。

 6月から7月にかけて開催された女子ワールドカップに、副審として吉澤久恵さんが参加していた。日本代表はグループリーグを1分け2敗という成績で、残念ながら決勝トーナメントに進むことはできなかった。しかし、吉澤さんは開幕戦を含むグループリーグ4試合と準々決勝、準決勝、3位決定戦の7試合に副審として出場した。副審は世界中から15人が選ばれて参加していたが、全32試合のうち7試合に指名されるということは、彼女の評価がいかに高かったかがうかがえる。決勝への出場がならなかったのは、中国が出たからだった。

 しかも、開幕戦のアメリカ-デンマーク戦はニューヨークのジャイアンツ・スタジアムで7万8972人、準決勝のアメリカ-ブラジル戦はパロアルトで7万3123人、3位決定戦はロサンゼルスのローズボール・スタジアムで9万185人。日本では想像もつかないくらいの大観衆だった。

 「ちょっときわどいオフサイドの判定があったのですが、わたしひとりに向けた7万人のブーイングはすごい迫力がありました。もしかしたらJリーグの審判の方よりすごい経験をしたのでしょうか」

 笑いながら淡々と話してくれたが、大きな仕事を成し遂げた充実感と自信に満ちていた。

 実は、彼女はわたしの大学の9年後輩にあたる。大学時代はお世辞にも熱心な選手とはいえなかった。練習をさぼって日本リーグの試合を地方まで見に行くこともよくあった。いまでも平気で、「トレーニングは好きじゃないんですよ」といったりする。

 審判を始めたきっかけも彼女らしい。日本リーグの観戦仲間のなかに審判をやっている人がいた。ある日その人について行ったところが、審判の人の集まりだった。「この子、これから審判をやるから」と紹介された。思いもかけない言葉だったが、妙に納得して、わたしは審判になるんだと確信したという。1988年、吉澤久恵、大学4年生のときのことだ。

 「とにかくサッカーが好きで、サッカーとかかわっていられるのなら、何でもよかったんです。選手より審判のほうが長くできると思ったし。それに、時代もよかったですね」
 当時は女子の審判員は少なく、上級を目指す人もほとんどいなかった。彼女が3級審判員になった1990年に女子の日本リーグが始まり、そこで線審(副審)の経験を積み、91年に福岡で行われた第8回アジアカップで国際試合にデビューした。

 93年に2級審判員、95年に国際線審になり、現在にいたる。91939597アジアカップ、9498アジア大会、9599ワールドカップなど輝かしい経歴にもかかわらず、気持ちは昔と変わらない。
 「サッカーは楽しい。大好きです。だから選手が楽しく試合ができるようにサポートできればいいなと思っています」

 終始おだやかだった口調が最後のひとことだけは強くなった。
 「トップに長くいることはできません。だからこそ、来年のシドニー・オリンピックだけはどうしても行きたいんです。いまはそれに向けてがんばっています」

 選手が上の大会や代表を目指すのと同じように、審判も上を目指すことができる。吉澤さんを目標に、たくさんの審判が育ってくることを期待したい。

 わたしも自分の練習や試合の合間を縫って、主審8試合以上、副審5試合以上、合計15試合以上の経験を積んで、ことしこそ3級審判員に挑戦しようと思っている。