1998年8月14日金曜日

第5回 ボールにはちょっとうるさい


第5回
ボールにはちょっとうるさい


 ワールドカップの楽しみのひとつにボールがある。最近の大会では毎回新しく改良されたボールがデビューするのだ。

 最初の衝撃は78年のアルゼンチン大会で使用された「タンゴ」というボールだ。アルゼンチンだから「タンゴ」と、ネーミングもインパクトが強かった。デザインが画期的で、その後の86年「アステカ」、90年「エトルスコ」、94年「クエストラ」、98年「トリコロール」の基本となっている。

 毎回、新しく出たボールを初めてけるときは期待に胸をふくらませるが、98年版「トリコロール」は驚くほど軽かった。

 わたしがサッカーを始めたころ、女子の公式球は4号サイズの貼りボールと決められていた。わたしのチームは大学にはいって初めてボールをけるという者ばかりだったので、4号球でさえ思うようにけることができなかった。足の指の爪を血豆で真っ黒にしてしまうこともめずらしくなかった。

 当時の東京のリーグは20歳前後の選手がほとんどで、それはその年齢からサッカーを始めたことを意味していた。グラウンドの広さも正規の半分、人数も8人、試合時間も40分(20分ハーフ)。わたしに与えられたサッカーというものは、「ひとまわり小さい世界」だった。

 同じころ、静岡県清水市に驚異の小学生がいた。後に長い間日本代表としてプレーし、日本の女子サッカーをひっぱってきた本田美登里、木岡二葉、半田悦子たちだ。体は細くて小さくて小学生そのものだが、ボールをける姿は一人前のサッカー選手なのだ。大人の体をもつわたしたちが満足にけれないボールを、いとも簡単にける彼女たちを見てショックを受けた。「ボールをけることは力ではない。技術である」。

 初めて5号球をけったのは、1981年。西が丘サッカー場でのイタリア代表との国際親善試合だった。初めての5号球、初めての80分(40分ハーフ)ゲーム。力の差は歴然としており、結果は0-9と惨敗だったけれど、ようやく本当のサッカーの世界へ足を踏み入れた気がした。85年には、東京都リーグでも4号球から5号球に切り替えられた。

 5号球で練習してみると、インステップにちゃんと当たれば4号球よりはるかに強く、遠くにキックできる。トラップもドリブルもボールが大きいほうがやりやすい。慣れるのに時間はかからなかった。きちんとした技術を身につけるには、はじめから5号球を使ったほうがよかったと思う。

 わたしはボールにはちょっとうるさい。練習のときにもボールの空気がちゃんとはいっていないと気がすまない。ボールが柔らかいと、適当にけってもボールはある程度飛んでしまうし、固すぎると足にインパクトする感じが得られない。正しい空気圧が、正しいインパクトを教えてくれると思うのだ。

 「トリコロール」は評判どおりとても軽くて、けりやすい。ワールドカップでジダンやロベルトカルロスが同じボールをけっていたなんて、不思議な気持ちだ。
 もしかしたら、最新技術を駆使したこのボールは、だれでもジダンやロベルトカルロスにしてしまうのかも。なんて。