2014年6月18日水曜日

ブラジルの国内便は予告なく変更する!?



「ワールドカップは、試合のチケットが取れるだけ見る!」というのが、いままでの私の信条だ。おおげさな・・・。

今回のブラジル大会は、最初から苦戦していた。チケットが手に入らなかったのだ。最初のFIFAの抽選には漏れた。いつも当てにしていたルートがだめになった。それでも、なんとかツテを頼って日本戦は手に入れることができた。そして、世界同時先着順の抽選の日、「取れるだけ取るぞっ!」と意気込んで臨んだものの、見たいカードはすでにSOLD OUT。しょうがない、カードを選ばず取れるだけ取ろうとしたが・・・。そのとき初めてブラジル国内の広さを知る。遅いっ!

この試合とこの試合の移動は大丈夫か。インターネットを2つ開いて、片方は先着順抽選、片方は国内便のスケジュールを見ながら、どのチケットが取れるかと考えた。だいたいの都市間の移動には半日かかってしまう。ダイレクト便はなく、乗り換えに4時間を要するところもある。ひょえ〜。

去年のコンフェデレーションズカップに行った人に情報を聞くと、飛行機はよく遅れて、乗り継ぎ便に間に合わないこともあるから、できるだけダイレクト便にするようにと言われたが、そんなにうまくいかない。結局、試合を連日見ることは不可能で、中1日が精いっぱいだということがわかった。

しかし、ラウンド16に進むと、日本が1位通過の場合は6月29日にリオデジャネイロ、2位通過の場合は30日にレシーフェで試合がある。どちらの可能性も考えて、飛行機とホテルを押さえなければならない。なんとかレシーフェには30日の朝早く到着する便を予約することができた。

開幕の1週間前、GOL航空からメールがきた。
「あなたの便はキャンセルになりました。つきましては、当社としては、以下の便を推薦します」

推薦された便は、試合終わってから到着する夜の便だった。

「冗談じゃないよ」

そこから必死で別の航空会社で調べまくった。ようやくTAM航空で1便見つかった。それは、キックオフ2時間前に空港に着くというものだった。ふつうならアウトだ。でも選択の余地はない。

この経験が私を強くした。「何があっても驚かないぞ!」

私より1日遅れでブラジルに到着する予定の友人は、日本戦初戦にレシフェに着くというものだった。日本を出発して約34時間後、ほぼ定刻どおり到着し、日本戦にも余裕で間に合った。

「ブラジル、捨てたものじゃない」

しかし、到着したその晩、コートジボワールに負けて、傷心でホテルに戻った友人にきたメールは、さらに傷を深めるものだった。

第3戦のコロンビア戦のあと、翌日サンパウロ発の便で帰国することになっていたのだが、コロンビア戦が行われるクイアバからサンパウロの便がキャンセルになったというのだ。代わりに提示された便では、サンパウロからの帰国便に間に合わない。

会社に無理を言って、ぎりぎりのスケジュールで来ていた。それ以上休みを増やすことはどうしても避けたい。それが日本のサラリーマンってものだ。

TAM航空に電話することも考えたが、たとえ英語だとしてもこちらの会話力でごり押しをすることはむずかしい。

翌朝、空港に向かった。こうなったら直談判だ。

空港のTAMのカウンターに着くと、何人もが並んでいた。「こんなにトラブルがあるんだな」。

私たちの前に並んでいたのは、ランニングに短パン姿の気軽な日本人のおじさんだった。この人もトラブルに遭ったんだ。気の毒に・・・。

「こんにちは〜、何かトラブルですか?」と声をかけた。
「ええ、そうなんです。飛行機に乗り遅れちゃって・・・。ゆうべの午前3時の便だったんですけど、午後3時と勘違いしてました。きのうは、あんな試合だったから、飲んでいたらホテルに帰ったの午前4時だったんです。チケットをよく見たら、午前3時で・・・。ははははは」

なんだ、この人の場合はTAMの落ち度じゃないのか。それにしても気楽なおじさんだな〜。

「私は日系ブラジル人です。リオにうちがあるんです。何かトラブルですか?」

私たちは、自分たちの置かれている状況をつぶさに話した。

「それはお気の毒に。でも、なんとかなるでしょ。交渉してみましょう」

直談判とはいえ、言葉に不安のある私たちにとって、救世主のような人が現れたのだ。

列はどんどん長くなっていた。そこに日本人青年が現れた。

「何かトラブルですか?」とりあえず声をかけるのが、私のクセだ。

彼の話は、涙なくしては聞けないものだった。


日本からリスボン経由でレシフェ入りする計画だったが、リスボンーレシフェ便がキャンセルになった。そのあとの便でさきほどレシフェに到着。もちろんコートジボワール戦は見れず、レシフェの後にサンルイスに行くための便にも間に合わなかった。これから可能なサンルイス便で行くと、ナタルでのギリシャ戦に間に合わない。サンルイスに行くことはあきらめて、ナタルに直接行こうにも、きょうのナタルで泊まるホテルはない・・・。

私の友人は「自分の不幸がそれほどでもないように思えてきた・・・」

友人がカウンターに呼ばれると、日系おじさんがつきそってくれて、ポルトガル語で丁寧に交渉してくれた。TAMの職員といろいろな可能性をさぐって、それをTAM側が確認していくというものだった。確認のために職員がカウンターのうしろに行くと、日系おじさんは悲劇の青年のほうに寄り添って、TAMと掛け合った。

青年は、結局TAMでできることはなく、長距離バスでナタルに向かうことになった。日系おじさんは、長距離バスのスケジュールをどこで確認すればいいかもアドバイスしていた。

友人は、ダイレクト便ではなくぎりぎりではあるけれど、なんとか間に合う便を勝ち取った。日系おじさんのおかげだった。

日系おじさんは、きょうこそ乗り遅れることができない自分の便があるにもかかわらず(ホテルに妻と子どもを残していた)、長い時間を私たちのために割いてくれた。

「遠い日本から私たちの国に来てくれた人が困っているのだから、当然です。いい国だったって思って帰ってもらいたいですからね」

前日の敗戦から突然のキャンセル便の連絡を受けて、深く沈んでいた私たちの前で、終始笑顔をたやさず「大丈夫ですよ」と言い続けてくれた。

空港を出るとき私たちは、「トラブルに遭わなかったら、こういう人にも出会えなかったね。そういえば、きのうのメトロのなかのブラジルの人たちといい、みんなとても親切に接してくれてたよね〜」

始まったばかりのブラジル生活、これからの日々がとても希望にあふれていると感じていた。

おだやかな笑顔の日系おじさんは、じつはアメリカとリオデジャネイロを月の半分ずつ往復するビジネスマンだった。15歳の息子はアメリカのIMG(テニスプレーヤーの錦織圭が所属)でプロのサッカー選手になるためにトレーニングしているのだそうだ。「とっても有望なんですよ」。笑顔がさらにくしゃくしゃになった。「ブラジルでプロになるのは、とても大変だからアメリカか日本でチャンスがあるんじゃないかと思っています」

グレゴリー・ケン・ウエゾノ。この名前をJリーグで見ることが近い将来あるかもしれない。日本のスタジアムで日系おじさんといっしょに応援できる日のことを考えると、また希望で胸がわくわくしてくる。


プロフィール

大原智子(おおはら・ともこ)
三重県伊勢市出身。1976年大学入学と同時にサッカーを始め、卒業後はクラブチームFCPAFを創設した。76年からチキンフットボールリーグ、81年にスタートした東京都女子リーグでプレーし、現在もFCPAFで現役。81年から84年まで日本代表。ポジションはMFだが、日本代表ではDF。クラブでも、チームの必要に応じてFW、DFでもプレーした。選手活動のかたわら、ワールドカップは82年スペイン大会、86年メキシコ大会、90年イタリア大会、94年アメリカ大会、98年フランス大会、02年日本/韓国大会、06年ドイツ大会、10年南アフリカ大会、8大会を観戦している。
著書 『がんばれ、女子サッカー』共著 岩波アクティブ新書
・フリーランス・エディター/ライター
・ハーモニー体操プログラム正指導員、ハーモニー体操エンジンプログラマー


2014年6月15日日曜日

コートジボワール戦が終わった



日本代表の初戦、コートジボワール戦が終わった。


負けたことはもちろん悔しいけれど、それよりなにより、日本が世界に見せようとしていたサッカーが繰り広げられなかったことがとても悲しかった。

現在の日本代表のサッカーは、いままでの代表にない魅力がある。世界の強豪に対しても、けっしてひけをとらず、堂々と攻撃を挑んでいくところだ。

自信にあふれたボールまわし、スピード感あるサイド攻撃、ボールが次々と動き中央突破していく痛快さ。それを世界のトップクラスを相手に平然とやってのける日本代表を誇りに思っていた。

それを実感したのはきのうの試合に向かう途中のメトロの中だった。

初戦が行われたのはレシフェという街だ。

泊まっていたホテルは街の南部の海岸地区、スタジアムは北西の方向にあった。メトロで40分くらいの距離にあり、ちょっと遠いなという印象だった。

でも、その40分間はあっという間に過ぎた。


最初に出会ったのは「NAKAMURA」と背中にはいったセルチックのユニホームを着た男性と日本代表のユニホームを着たその友人のグループだった。

「スコットランドから来たんですか?」と聞いてみた。

「いや、ぼくらはUSAだよ。でもきょうは日本を応援するんだ。そう、中村のファンだよ。彼のFKはすごいよね〜」

アメリカ人がセルチック(スコットランド)の時代の俊輔のファンで、日本代表を応援してくれている。私が過去のワールドカップで、ジダンのユニホームを着てフランス代表を応援しに行ったようなものではないか!


私は持ってきていた日の丸のついたハチマキを彼らに手渡した。「これを巻いて応援して!」それを見ていたブラジル人の子どもが「ぼくもほしい」と私を見つめた。それからというもの、次から次へ「オレもくれよ」「私も」「ぼくも」と中年の男性、若い女性、青年・・・へと日の丸ハチマキが渡っていった。


その中に日本語を勉強しているという青年がいた。彼を介してサッカー談義に花が咲いた。彼らのなかに強烈にあるのは、去年のコンフェデレーションズカップのイタリア戦での日本代表のプレーだった。

そのときの日本代表を思い起こしながら、顔が笑みであふれていた。
「日本はすごくいいサッカーをしていたね」
「ホンダはすばらしい」
「でも(試合に勝ったのは)イタリアだったね・・・」

誇らしい気持ちとともに、いいサッカーっていうだけでなく、そういうサッカーをして「勝つ」試合をきょうはブラジルの人たちに見てもらえるんだ!という期待で胸がワクワクした。

スタジアムは、日の丸をマントにしたり、日の丸を振りながら「ジャポン、ジャポン!!」と声をあげるブラジル人たちで埋め尽くされていた。


試合が始まると、ブラジル人が先頭に立って「レ〜、レ〜オ〜、レ〜オ、レ〜オ、レ〜オ、ニッポン!」と普段はブラジルの応援に使うチャントに「ニッポン」を当てはめてリードしてくれた。それは感動的な光景だった。本田のすばらしいゴールでそれは最高潮に達した。

その後、なぜか日本代表の攻撃は徐々に輝きを失ってしまった。

声をからして応援しているのは日本人だけになっていた。

帰り道、メトロの駅までのシャトルバスのなかでは、「ブラジル! ブラジル! ブラジル!」の声が窓を割らんばかりに響いていた。私の心も張り裂けそうだった。

重い気持ちでホテルに戻り、明け方までどうしてあんな試合になったんだろうと考えていた。ブラジルの人たちの「ブラジル!ブラジル!」の声が頭のなかでぐるぐると渦巻いていた。

目覚めると窓の外は太陽の光に満ちていた。前の晩の雨は涙とともに消えた。明るい日差しを見ながら、ブラジルの人たちの気持ちを思った。ブラジルの人たちは本当に明るく楽しいことが好きなのだ。

メトロのなかでの会話のひとつひとつ、やさしい笑顔を思い出していた。

次のギリシャ戦では、帰りのメトロのなかでも日本代表の話題でもちきりになりたい。「オ〜、レ〜オ〜、レ〜オ、レ〜オ、レ〜オ、ニッポン!」って、みんなで歌いながら帰ってきたい。

そんな試合になることを、心から願っている。


プロフィール

大原智子(おおはら・ともこ)
三重県伊勢市出身。1976年大学入学と同時にサッカーを始め、卒業後はクラブチームFCPAFを創設した。76年からチキンフットボールリーグ、81年にスタートした東京都女子リーグでプレーし、現在もFCPAFで現役。81年から84年まで日本代表。ポジションはMFだが、日本代表ではDF。クラブでも、チームの必要に応じてFW、DFでもプレーした。選手活動のかたわら、ワールドカップは82年スペイン大会、86年メキシコ大会、90年イタリア大会、94年アメリカ大会、98年フランス大会、02年日本/韓国大会、06年ドイツ大会、10年南アフリカ大会、8大会を観戦している。
著書 『がんばれ、女子サッカー』共著 岩波アクティブ新書
・フリーランス・エディター/ライター
・ハーモニー体操プログラム正指導員、ハーモニー体操エンジンプログラマー