2016年3月27日日曜日

スター・ウォーズを見た



遅ればせながら、「スター・ウォーズ/フォースの覚醒」を見た。

そもそも、私とスター・ウォーズの出合いは1977年にさかのぼる。

1977年、大学2年生の夏、「語学研修」と親をだまして私はアメリカ1カ月間の旅を手に入れた。いやいや、だましたわけではない。20歳になったばかりの私は、田舎から東京に出てきて1年そこそこの純情な大学生だった。しかも住んでいたのは東京とは名ばかりの日野市! 日野駅前には「バンブー」という喫茶店と「キング」というパン屋しかなかった。ホントにそれだけしかなかった。大学構内にある寮から授業とグラウンドでの練習に通うことが生活のすべてだった。もっと広い世界を見たいという漠然としたあこがれがあるのは当然のことだ。夏休みに1カ月アメリカに行けば、だれでも英語がしゃべれるようになってアメリカ人の友だちがたくさんできると思っていた。単なるあほだ。

まだ成田空港ができる前。羽田空港からの出発だった。初めての外国。初めての飛行機。初めてのパスポート。初めてのスーツケース・・・。

滞在したのはカリフォルニア州オークランドから車で1時間くらいのダンヴィルという街だった。ゴールデンバーグさん一家のうちにお世話になった。ラリーとルース夫妻に中学生のデニスと小学生ケニーの姉弟、そしてブラッキーという犬。

絵に書いたようなアメリカの家庭がそこにあった。カリフォルニアの青い空のもとに芝生の庭に囲まれた平屋の白い家。そこで私はアメリカンガールとしてはじけた夏を送る予定だった。でも、そう簡単な話ではなかった。

言葉が話せないのは致命的だった。それでも、私がもっている最低限の中学生レベルの英語を駆使すれば、状況は違ったと思う。日本では元気が服を着て歩いているような私もアメリカでは借りてきた猫のようだった。



「遠慮」と「謙虚」と「恥」はだれでもがもっていて、それを推し量ってお互いがコミュニケーションするものだと思っていた。

「何が食べたい?」と聞かれても「なんでも」と言い、「どこに行きたい?」と聞かれても「どこでも」と答えた。私は会ったばかりの人に面倒をかけてはいけないと思っていた。彼らの生活の邪魔にならないようにするのが礼儀だと思っていたのだ。

言葉を流暢に話せれば、そこらへんのニュアンスを伝えることができたかもしれない。気持ちとしては「何がおいしいの? それはどんな味? お店で食べるの? 自宅でつくるの? 私にもつくれそう? もしよかったら、それを食べたい。おうちでつくるのなら、一緒にお買い物に行って、つくるのを手伝いたい」「レイク・タホにも行ってみたいのだけれど、ここからどのくらいかかるのかしら」とかね。こうやって書いてみると、英語にできない表現なんてひとつもないことに気づく。

私はただひたすら私という人間を理解してくれるのを待っていた。

状況が変わってきたのは、一家でテニスに行ったとき。私は父親のラリーに勝ってしまった。うちにいるときとは別人のような私を家族のみんなは不思議そうに見ていた。そして、公園でのバレーボールや、泳ぎは苦手だったけれど、砂浜のサッカーでは「水を得た魚」とはこのことだとばかり大はしゃぎした。

母親のルースは「tomoko、あなたはtomboy(おてんば)だったのね」と、あきれたように笑っていた。

これを機に子どもたちとも仲良くなった。

ある日曜日、ルースが私に「きょうは私たちは夫婦で出かけるから、子どもたちを映画に連れて行ってくれない?」と言った。「もちろん」と笑顔で応えた。

字幕のないアメリカ映画を見ても理解できるとは思わなかったけれど、責任ある仕事を任されて、私は緊張感とともにやりがいを感じていた。きょうは私がこの子たちの保護者なのだ!

映画館へはルースが車で送ってくれて、チケットはデニスが買ってくれた。私の仕事は何? いやいや、この子たちと一緒にいることが仕事なのだ。

映画は子ども向けの怪獣映画のようだった。こりゃ、円谷プロだなと私は冷めた目で見ていた。しかし、途中からぐんぐん映画に引き込まれていった。子どもたちといっしょにポップコーンをほおばりながら前のめりになっていた。

最後に敵をやっつけるシーンでは、映画館全体が興奮に包まれ、拍手喝采がわき起こった。デニスとケニーといっしょに私も声を上げていた。

それが「スター・ウォーズ」だった。



当時は、世界同時封切ということはなく、日本で公開されたのは翌年の夏だった。私は日本で友だちを誘って何回もスター・ウォーズを見に行った。アメリカでの1カ月間は「ああすればよかった、こうもできたのに・・・」というほろ苦い思い出もたくさんあったけれど、あの映画館全体を包む興奮のなかで、私はアメリカに受け入れられたような気がしたのだ。それを1年後の日本で何度もかみしめていた。

その後、私は長い間、映画から遠ざかることになる。サッカーでの故障が原因で映画を見る2時間を座っていることができなくなっていたのだ。その間に、スター・ウォーズは何度も続編が出て、人気を博していたけれど私が映画館でそれを見ることはなかった。

「最近の映画館は快適だよ。足も伸ばせるし、腰も痛くならないよ」という甘い誘いもあったし、サッカーで痛めたカラダも不思議なことに年々よくなってきていた。

39年ぶりに見る「スター・ウォーズ」には、39年後のハン・ソロやレイア姫、そしてルーク・スカイウォーカーがいた。あのときアメリカの映画館で私は自分の姿を映画のなかの彼らに見ていた。いっしょに悪と戦い、そして打ち勝ったのだ。

しかし、今回、もはや私は年老いた彼らに自分の姿を見たりはしなかった。

若い女性戦士レイがフォースの力を得て、ライトセーバーで痛快に敵をやっつける姿に自分を投影していた。

39年前、借りてきた猫みたいだった私は、その苦い経験を糧として、その後どこの国に行っても、もちろん国内であっても、とにかく会った人とコミュニケーションすることを心がけた。初対面であっても、たとえ言葉が通じなくても、一生懸命に自分を表現することで相手は理解してくれようとするし、新しい世界が開けたものだ。

tomboyが元気にボールをけっていた姿をアメリカのファミリーが受け入れてくれたように、ただただ元気に40年間ボールをけり続けていると、この年齢になって「『女性戦士レイ』に自分を投影した」なんてぬけぬけ言ったとしても、苦々しくではあるけれど、「ま、しょうがない。言ってろ」ってな感じで受け入れてくれるのだ。と、私は信じている。



プロフィール

大原智子(おおはら・ともこ)
三重県伊勢市出身。1976年大学入学と同時にサッカーを始め、卒業後はクラブチームFCPAFを創設した。76年からチキンフットボールリーグ、81年にスタートした東京都女子リーグでプレーし、現在もFCPAFで現役。81年から84年まで日本代表。ポジションはMFだが、日本代表ではDF。クラブでも、チームの必要に応じてFW、DFでもプレーした。選手活動のかたわら、ワールドカップは82年スペイン大会、86年メキシコ大会、90年イタリア大会、94年アメリカ大会、98年フランス大会、02年日本/韓国大会、06年ドイツ大会、10年南アフリカ大会、14年ブラジル大会、9大会を観戦している。
著書 『がんばれ、女子サッカー』共著 岩波アクティブ新書
・フリーランス・エディター/ライター
・ハーモニー体操プログラム正指導員、ハーモニー体操エンジンプログラマー