2000年1月28日金曜日

第39回 さあちゃん伝説

 1月16日日曜日、国立競技場は曇り空、いまにも雪が降りだしそうだった。第21回全日本女子選手権大会決勝は「プリマハムFCくノ一対田崎ペルーレFC」、第1シードと第2シードが順当に勝ち上がってきていた。

 「よく降ったよね、雪」。わたしたちは20年も前のことをきのうのことのように思い出していた。第1回大会も第2回大会も雪に見舞われた。第3回大会もみぞれまじりの冷たい雨が降った。そのころは3月に開催されていたのだが、東京の3月はよくなごり雪が降ったものだった。

 思い出話をしながらいっしょに試合を見たのは、現在のチームメートではなく、当時のチームメートやライバルチームだった人たち、そしてそのころ日本代表として同じチームでプレーした仲間たちだ。

 わたしたちの応援の標的は田崎ペルーレのDF山口小百合だ。山口もまた、わたしの日本代表仲間なのだ。

 試合はプリマハムのペースで進んだ。プリマハムの攻撃は多彩だ。大きなサイドチェンジあり、俊足FWのドリブル突破あり、枠をとらえたミドルシュートもある。田崎は全員でよく守る。GKも何度もファインセーブを見せる。

 山口は守備のリーダーとして、マークのズレを修正し、危険なところには必ず現れる。とにかく山口の守備はすごい。自陣ゴール前の混戦では迷わず身を投げ出す。相手の足があろうがダイビングヘッドで飛び込む。ペナルティーエリアからのヘディング・クリアはセンターサークル付近まで飛び、味方につながってしまう。

 わたしは思わず「さあちゃん(山口小百合)、ナイス」と立ち上がって拍手を送る。

 わたしの脳裏には17年前の代表合宿のことが浮かぶ。練習が終わったあと、山口がおもむろにゴール内のゴールライン上に立ち、何人かに次つぎとシュートを打たせる。それをすべてヘディングでクリアするのだ。淡々と、一日の練習を締めくくるかのように。

 ケガの歴史も並大抵ではない。最初の大きなケガは1987年3月、第8回全日本選手権大会を目前に控えた練習試合のときだ。相手のタックルをかわそうとジャンプして着地に失敗し、ひざをひねった。左足ひざ前十字靱帯断裂だ。しかし、当時の医者は「内側靱帯をのばした」という診断だった。テーピングをして全日本選手権大会に出場し、清水第八スポーツクラブ(当時のチーム)の7連覇に貢献した。「そのころの第八は本当に強かったから、DFのわたしが活躍する機会はほとんどなかったから」と、こともなげにいう。

 その後も、ほお骨陥没骨折(92年)、右足ひざ前十字靱帯断裂(95年)と大きなケガに見舞われたが、いつも予定どおり復帰しケガの前と変わらないプレーを見せた。

「ほお骨陥没骨折のときはヘディングがこわくなるかなと思ったけど、こわがらずにやろうと自分に言い聞かせてやったら、全然平気だった」

「右足ひざ前十字靱帯断裂のときはショックだった。半年で復帰して、さあこれからだというときに、チーム(鈴与清水)からクビをいいわたされた。当時はプロ契約だったが、お金も何もいらないからチームにおいてほしい、といったけどだめだった。仕方ないから、そのときいちばん自分に合うサッカーだと思った田崎に移籍した」

 試合は0-0のまま延長でも決着がつかず、PK戦になった。田崎の第1キッカー山口はインステップで左隅にけり込んだ。結局PK4-2で田崎ペルーレが初優勝を決め、ウーマン・オブ・ザ・マッチには山口が選ばれた。

 山口小百合、33歳。第2回大会から連続20回出場し、そのうち優勝9回(清水第八7回、鈴与清水1回、田崎1回)、準優勝3回(清水第八1回、清水FC1回、鈴与清水1回)、MVP2回(第5回大会、第21回大会)という輝かしい経歴が語るように、トップレベルのなかのトップを走り続けてきた。

「与えられた練習をただ全力でやるだけ。そして、あとは気持ち」

 山口は淡々と語る。しかしこの「全力で」と「気持ち」という言葉のなかにカギがあるように思う。

 ただ漫然と練習するのでは意味がない。ひとつひとつの練習の意味をすぐに理解し、その意味をふまえて自分を甘やかすことなく、サッカーへの強い気持ちをもって全力で取り組む。そして最後は、その気持ちの「強さ」で決まってくるのかもしれない。

全力で、強い気持ちで・・・。