1998年12月11日金曜日

第13回 世界で戦う若者を見れば


12月といえばトヨタカップ。
 わたしは1981年から87年までトヨタカップに関わる仕事をしていた。とくに1982年はトヨタカップ事務局のなかで働いた。当時はトヨタカップという言葉をできるだけ多くの人に知ってもらうことが大きなテーマであり、チケットが全部売れてスタジアムが満員になることが最大の関心事だった。わたしの重要な仕事のひとつが、毎週月曜日に各プレイガイドに電話してチケットの売れ行きを調べることだった。それをグラフにして一喜一憂し、大会直前に売り切れたときは本当にうれしかった。

 当時のサッカー人気は長い低迷期にあり、日本リーグの観客動員数は1試合の平均は81年が1,812人、82年が2,157人という状況だった。そんななかトヨタカップだけは国立競技場を満員にし、スポーツ新聞の1面を飾った。「クラブチームの世界一を決める」と銘打った真剣勝負は、サッカーに興味のなかった人まで競技場に足を運ばせた。

 「トヨタカップのチケットは即日完売」となるのに何年もかからなかった。1994年の第15回大会からは真冬の平日のナイトゲームという信じられない日程になったが、それでも人気はほとんど変わらなかった。

 そしてことしはスペインからレアル・マドリードという超ビッグクラブがやってきた。ロベルト・カルロス、ラウル、イエロ、ミヤトビッチ、セードルフなど世界選抜ともいえるスター軍団だ。スターたちが噂どおりのプレーを見せ、満員の観客は大いに満足した。もちろん翌日のスポーツ新聞の1面はラウルやロベルト・カルロスに飾られた。
 ところが、サッカーの専門誌の表紙にはならなかった。毎年この時期の表紙はトヨタカップを掲げた選手たちの喜びに満ちた姿と決まっていたが、ことしは違う。中田あり、小野ありだ。

 ここのところの日本のサッカーファンは忙しかった。
 中田は、1129日のピアチェンツァ戦で2ゴールし、そのうち1点はオーバーヘッドキックで決めた。12月5日のローマ戦は1-5で負けたが、1点をアシストし、何度か決定的なシュートを放つ活躍をした。
 タイで開催されているアジア大会は12月1日ネパール戦、3日インド戦、7日韓国戦、9日クウェート戦とU-21日本代表がフル代表を相手に堂々と戦っている。
 J1参入戦は第3代表決定戦が12月2日と5日に福岡と札幌で戦われ、死闘が繰り広げられた。

 ほとんど毎日、見逃せない試合が続いた。見ていて楽しくなる試合、誇らしい試合、手に汗握る試合、胸が痛くなるような試合。それぞれが違うサッカーだけれど、どれもがまさにサッカーなのだ。

 最近のサッカーをめぐる話題は、暗いものばかりだった。マリノス・フリューゲルス合併問題に始まり、読売の撤退や平塚の厳しい状況、そして新聞には各クラブの大量の解雇者リストが載せられる。

 各クラブの経営者たちは、この毎日の試合を見ているのだろうか。Jリーグが生んだ、Jリーグが育てた若者たちが、イタリアで世界の名だたるスターと肩を並べて活躍する姿を、アジアの王者と対等に戦っている姿を。

 もし見ていたなら、きっと思うだろう。
 「この若者たちを大切に育てて、こういう選手をどんどん生み出していこう。そうすれば、ゆくゆくはレアル・マドリードやバスコ・ダ・ガマのようなクラブになれるに違いない」

 あせることはない。どちらも100年の歴史をもつクラブなのだから。

 ことしの12月は例年になく寒い風が吹いている。しかし、熱い戦いを見せる選手たちに負けないように、わたしたちファンも熱くサポートしていきたいと思う。