2000年3月24日金曜日

第42回 パワーをもらった日


「大原さんなら、ハーフタイムにどういうふうに選手に言います?」「どうアドバイスすれば流れが変わったんだろう?」「やっぱり、ボールの持ちすぎちゃいます?」「せっかく東京から見にきはったのに、こんな試合で気の毒やわ」
 関西弁で加治真弓がまくしたてる。 

 315日、神戸総合運動公園ユニバー記念競技場で日本代表対中国代表の試合を見終わったあとの帰り道のことだ。39482人の満員の観客のほとんどが市営地下鉄の「総合運動公園」駅や近所の駐車場に向かうなか、加治たち地元民にうながされて次の駅まで歩き始めていた。山麓バイパス沿いにすこし坂をのぼって振り返るとスタジアムがぼんやり浮かんで見えた。

 わたしはべつに失望などしていなかった。久しぶりに見る名波は左サイドで自在にボールを操り、中田英寿は華麗なスルーパスというイメージから一歩進んで、突き刺さるようなサイドチェンジのパスを見せてくれた。わたしは思わずウォーと声をあげた。このパス一本見れただけでも、神戸に来たかいがあるというものだ。

 しかし、このところなかなか勝てない自分のチームと日本代表を重ね合わせて、力の差を見せつけるような、きっちり勝つ試合を見て勇気づけられたかったことも事実だった。なんとなく不純な気持ちのわたしに対して、まっすぐサッカーと向き合ってエネルギッシュに語りかけてくる加治の言葉にただ圧倒されていた。

 この友人たちと神戸で会うのは何年ぶりだろう。思えば80年代の前半、わたしは毎年ここ神戸を訪れていた。1980年に現在のチームをつくったわたしたちは、監督もコーチもおらず、10人そこそこで夏の合宿をするよりも遠征して試合をすることを選んだ。そして、神戸FCレディースとのつきあいが始まった。神戸FCは歴史あるクラブで、レディースも1975年に創設されていた。組織されたクラブ運営は、チームをつくったばかりのわたしにとってあこがれだった。試合はいつもきちんとセッティングされ、試合のあとには手づくりの歓迎会が用意されていた。

 約15年ぶりで会った加治は、去年から受講していたC級指導者講習会の話を目をきらきらさせながら話してくれた。それで、冒頭のような言葉が次から次へと出てきたのだ。
「とにかく、いままでやってきたことが、頭のなかできれいに整理された感じなんですよ。いまから選手に戻ったら、すごくうまくできるような気がする」

 加治真弓、1964年6月28日生まれ。1975年小学5年のとき神戸FCレディースでサッカーを始め(中学3年間は高倉中学でプレー)、1992年に現役を引退。代表歴は48試合、代表デビューは1981年の対イングランド戦。第6回、第7回、第8回アジアカップ、第11回アジア大会、第1回ワールドカップ出場。

 この輝かしい経歴に加えて、選手を引退したあとは、中学教員として男子チームを5年半指導している。「C級ライセンスをとったからといって、いままでと指導法が大きく変わることはないですね。ただ、これをきっかけに女子の指導をしていきたい。わたしはサッカーをすることで外国に行けたり、いろいろな人と出会えたり、サッカーはわたしの人生を広げてくれました。そういう経験をできる女子の選手をひとりでも多く育てたいんです」

 公立の中学校にいるかぎり、いろいろな制約がある。地域の女子サッカーを指導したいと思っても簡単にはいかない。
 しかし「ことしは、女子の指導にたずさわる第一歩をふみ出したい!」という、加治のまっすぐなまなざしと、話す声のトーンは最後まで変わることはなかった。

 日本代表の勝利よりももっと大きなパワーをもらうことができた神戸の一日だった。