2000年8月25日金曜日

第50回 20年の歩み


 8月のお盆明けの土曜日、東京近郊にある芝生のグラウンドに60人以上が集まった。クラブ創立20周年を祝うためだ。わたしの所属クラブであるFC PAFは、1980年4月に実践女子大学サッカー同好会の卒業生によってつくられた。わたしは、創立メンバーのひとりである。

 全国的にみても、20年以上の歴史をもつ女子チームは多くない。FC PAFは女子サッカーの歴史とともに歩んできたといっても過言ではないだろう。

 唯一の創立メンバーの生き残りであるわたしは、ことしの春先にこの20周年イベントを提案し、徐々に準備をしてきた。チームに在籍した全員に案内状を送りたいと思い、昔の資料を探し始めたが、簡単な作業ではなかった。記憶だけが頼りだった。

 最初の3年間は大学の卒業生だけだったので、大学の資料を参考にした。しかし、そのあとがたいへんだった。それは、チームとしての危機の時期でもあった。

 毎年、仕事の都合や結婚、出産などでチームを離れるメンバーがつぎつぎと出るなか、4年目からは大学の卒業生がほとんどはいってこなくなった。最初からぎりぎりの人数で活動していたので、あっという間にメンバー不足になった。

 卒業生に限らず、広くメンバーを募ったが、グラウンドもなく、監督、コーチもいないようなチームになど、なかなかはいってくる人はいなかった。当時、わたしは活発な女性とみるとだれかれかまわず「サッカーやりませんか」と声をかけた。「自衛隊の勧誘じゃないんだから」と、いわれたこともあったが、なりふりかまっている場合ではなかった。

 公式戦に11人そろわないこともあった。試合の前日に電話をかけまくって、とにかく人数を集めることがいちばん大切な仕事だった。同じ大学の卒業生という仲良しグループから、練習や試合のときだけに会うチームメートへ変化していく時期だった。

 そんななかでチームをやっていくことのむずかしさを痛感するとともに、このままではいけないと強く思っていた。「ただいっしょにボールをける場所」ではなく、「自分のチーム」と思えることが必要だった。

 わたしは、毎月のニュースをつくって、一人ひとりに送ることにした。その月の予定と前月の活動状況や試合結果を中心に、チームの具体的な目標「全日本選手権出場をめざす」をつねに掲げ、そのために何が必要か、一人ひとりの役割やチームの規律を伝えようとしてきた。

 徐々にではあるが、住む場所も生活の環境も年齢もまったく違うチームメート同士がお互いを理解し合うようになり、自分はチームの一員であるという意識が生まれた。

 わたしのチームが最初の10年間でようやくクラブの土台を築いていたころ、女子サッカー界は劇的な変化をとげていた。チーム数は飛躍的に伸び、1989年には全国リーグである日本女子サッカーリーグ(Lリーグ)が始まった。Lリーグは世界中から一流選手が来てプレーし、世界最強リーグともいわれた。そのなかでレベルアップした日本選手は、91年、95年、99年ワールドカップ、96年アトランタ・オリンピックの出場を果たした。

 しかし、ここ数年は登録チーム数も減少の傾向がみられる。そして、企業の撤退によりLリーグの存続が危ぶまれ、大幅に縮小したかたちでようやく2000年のLリーグが開催されている。

 11年前、東京都リーグでともに戦いライバルだった3チームが、突然できた日本リーグに何の説明もなしに移っていってしまった。そのときの驚きと、置いてきぼりをくったという落胆の気持ちはいまも忘れない。しかしその後、そのうちの2チームが親会社の都合によってつぶされてしまった。

 わたしたちは、20年間だれの援助も受けず自分たちの力でチームを運営してきた。シーズンのはじめに「全日本選手権出場と東京都リーグ優勝(1999/2000シーズンは関東リーグ)」を目標として掲げ、毎試合の結果に一喜一憂しながら、シーズンを終える。一見、何の進歩もない毎年の繰り返しにように思えるが、それが実はかけがえのないことなのだ。

説明: C:\Users\Tsuyoshi\Documents\user\智子\ボールと昼寝\No50.files\b50-2.jpg 20周年はひとつの通過点にすぎない。しかし、わたしたちは20年というクラブ歴史を手にしているのだ。これは、だれもが突然に手に入れることができるものではない。

 94年から97年までPAFでプレーし、3年前にアメリカに帰国したケイが、この日のためにわざわざ休暇をとって日本を訪れるなんて、だれが想像しただろう。

 当日集まった60数人が多いのか少ないのか、わたしにはわからない。ただ、現役選手、OG、その夫や子どもたち、そして監督、コーチ、参加したそれぞれが、FC PAFという大きな家族の一員であるということを実感できたしあわせな一日だった。