1998年7月24日金曜日

第4回 ワールドカップが終わった


 82年スペイン、86年メキシコ、90年イタリア、94年アメリカに続いて今回のフランス。わたしにとって5回目のワールドカップが終わった。

 スペインは旅行費用全額を兄から借金して出かけた貧乏旅行だった。メキシコでは開幕戦から決勝戦まで30日間で23試合を見た。イタリアへは仕事をやめて行った。アメリカは仕事をやりくりして、自分の公式戦の日程の合間をぬってなんとか行くことができた。

 ワールドカップというものはよその国を応援することにほかならなかった。
 アイドルはミシェル・プラティニ。82年、86年はフランス代表のユニホームを身につけ、フランスを応援した。82年の準決勝、西ドイツ-フランス戦、86年の準々決勝、ブラジル-フランス戦は強烈な印象として残っている。プラティニがいなくなってからは、わたしにとっての特別な選手が現れず、イタリアではアズーリのユニホームを着て、アメリカでは星条旗をイメージした赤と白のユニホームで開催国を応援した。

 まわりの観客といっしょに「トト・スキラッチ!」と声を合わせたイタリア大会準決勝、アルゼンチン-イタリア戦。アメリカ大会決勝トーナメント1回戦、ブラジル-アメリカ戦では、強豪ブラジルに対して「USA! USA!」と8万人以上の観客が大合唱し、選手と一体となって戦ったサンフランシスコ・スタンフォードスタジアム。世界のトップレベルの試合を見れることはもちろんだが、これがワールドカップの楽しさだとずっと思っていた。

今回のフランス大会はいままで4回とはまったく違うワールドカップだった。自分たちの代表といっしょに来ることがこんなに誇らしくうれしいこととは・・・。想像をはるかに超えていた。自分たちの代表のユニホームを着て、自分たちの国歌を聞ける喜び。それだけではない。世界の舞台で日本が認知されたという実感が得られたことがなによりうれしかった。

 フランス人の観客が日本人のサポーターに合わせて「ソーマ! ソーマ!」と声援を送ったり、アルゼンチンやクロアチアのサポーターたちは試合のあと、あきらかにわたしたちを見る目が変わっており、がっちりとかわした握手に「お互いよくやったな」という気持ちが感じられた。

 日本戦以外の試合の会場で、声をかけられることも少なくなかった。「日本人か?」と聞かれて「そうだ」と答えると、親指を立てて「いいチームだ」といってくれたりする。「ナカタ」といって肩をたたいていく人もいた。

 結果は日本は3試合で1勝もできなかった。勝ち点をあげることもできなかった。実際、ジャマイカ戦の試合終了後、わたしは力が抜けてしばらく立ち上がれないほど残念だった。しかし、結果として、数字として表れないものをわたしたちは見た。一人ひとりの選手がどのように戦っていたかを自分たちの目で見た。誰がなんと言おうと日本代表は立派に世界デビューを果たしたのだ。

 大会の終盤に日本代表のことを話題にした人はいなかったかもしれない。しかし、イタリアのセリエAでプレーする中田を見て、これからヨーロッパや南米に遠征する日本代表を見て、世界の人々はきっと思い出すだろう。フランスで戦っていた彼らの姿を。

 7月13日、午前4時。わたしは自宅のテレビの前に座っていた。正直にいうとフランス代表のユニホームを着て見ていた。かつてのアイドルがもう似合わなくなってしまったユニホームを着ているのを、なつかしく眺めながら、ともに優勝を喜んだ。

 4年後、わたしの6回目のワールドカップは、世界中のサッカーファンを迎えるというまた違ったワールドカップになりそうだ。
 こんどは大会の最後の日まで日本代表のユニホームを着ていられるような大会であってほしい。