2018年6月18日月曜日

青年は荒野をめざす



去年の2月、6つ違いの兄をガンで亡くした。小さいころの6歳上というのは、ずいぶん文化も違うもので、ほとんど一緒に遊んでもらうことがなかった。私の方は遊ぶ気満々でついて行くのだけれど、あっという間に撒かれてしまって、ひとり取り残されて泣いて母に訴えるということの繰り返しだった。

兄は私が中学に入った年に東京の大学に進学し、接する時間がほとんどなかった。たまに実家の伊勢に帰ってきても、友人との時間に多くを費やしうちに居つくことはなかった。

そんな兄が大学を休学して外国に出かけると言う。1970年代前半、海外旅行はいまほどポピュラーではなく、ましてやせっかく入った大学を休学して行くということに両親は少なからず反対していた。中学生の私には実際のことは全然わからなかったが、そういう気まずい雰囲気がうちのなかに漂っていたことは感じていた。

兄は当時の若者のバイブルとまで言われたベストセラー小説「青年は荒野をめざす」(五木寛之著)を読んでいた。船でソビエト連邦のナホトカにはいり、鉄道でシベリア大陸を横断するという話で、兄はその主人公の辿った道をなぞるように旅したのだと聞いていた。

帰国してからも、あいかわらず兄と接する時間はほとんどなく、旅の話を聞くことはなかった。6年をかけて大学生活を終えた兄は、フランス資本の石油会社に入り、仕事のほとんどは日本を離れた東南アジアの奥地でのものだった。

兄が亡くなった翌年、私はワールドカップでロシアに行くことになった。ふつうの旅行ではロシアという国を選ばないだろうという思いに、なにか因縁めいたものを感じ、はじめて「青年は荒野をめざす」を手に取って読んでみたのだ。

小説の中身は私の想像とはずいぶん違っていた。小説のなかで主人公たちはあっという間にシベリア大陸を横断してしまい、そのあと北欧に行き、イギリスに行き、最終的にはアメリカ大陸をめざすというものだった。

ロシアという国をその小説から感じられるのではないかという私の期待は外れたけれど、1970年代の若者が当時の常識や自分の枠を超えてどこかへ飛び出していきたいという内に秘めた思いが旅のなかで熟成されていく過程が生き生きと描かれていて、その小説のなかに兄を置いてみたとき、ほとんど接することのなかった兄がまったく違う顔を持っていたように思えた。

私が知っている兄はいつもクールだった。感情が先に出てしまう私とは正反対の性格だった。けれど、小説のなかに悶々と自分のなかから湧き出る思いを外に向かって吐き出そうとする20歳そこそこの兄がいた。

大学を卒業したあと、日本国内に自分の仕事を見つけるのではなく、外国に自分の身を置くことを選んだこともそういう理由があったのかもしれない。

兄とほとんど深い話をしたことがないと思っていたけれど、思い出したことがある。

私も東京の大学を選び4年間を過ごしたが、きちんと正規の仕事に就くことができなかった。成績もよくなかったし、1980年は女子大学生の就職氷河期と言われていた。親は実家に帰ってくることを望んでいた。でも、私は帰らなかった。サッカーを続けるためには東京に残ることが必要だった。それで、アルバイトでぎりぎりの生活をしていた。

1982
年、ワールドカップ・スペイン大会の年。78年のアルゼンチン大会をテレビで見て、別世界の出来事だと思っていた私に大学の先輩が「スペイン大会へ行く!」と宣言したのだ。一気にワールドカップが身近になったけれど、先立つものは何もなかった。親に相談したが、とんでもなかった。「東京にいるからそんなバカなことを言い出すんだ。早く帰ってこい」。

そのときたまたま日本に帰っていた兄に相談すると、「いくら必要なんだ。何年かければ返すことができるか考えているか。そんなに行きたいのなら、貸してやるが、きちんと返済計画を立ててからだ」

私のはじめてのワールドカップは兄のおかげで実現した。

あれから36年。私はいま、私にとっての10回目のワールドカップ・ロシア大会へ向かう飛行機のなかにいる。





兄が世界に目を向けるきっかけになったであろうロシアへの旅。なんだか偶然ではないものを感じる。いま兄が生きていたら、何を語ってくれるだろう。

「あなたの妹も還暦を過ぎて青年とはとても言えない年齢になったけれど、あなたがつけてくれた道筋をきっかけにして、いまだ荒野をめざしています」

これから23日間、ロシアの9都市を10時間の列車移動や飛行機で試合を追いかけながら、広い荒野のなかに自分の身を置き、なにかを感じる旅にしたいと思う。




2016年4月7日木曜日

望月三起也先生が逝ってしまった・・・

                                                写真提供/今井恭司


1975年9月のある日曜日。実践女子大学日野寮の電話が鳴った。

「サッカー同好会の方をお願いします」

実践女子大学サッカー同好会といっても、大学から承認されて間もないクラブで、メンバーも10人に満たなかった。

日野寮は、実践女子大学の日野校舎で学ぶ1年生と2年生の地方出身者が暮らしていた。日野寮は日野市にあり、JR日野駅は東京発の中央線で立川駅の次、八王子駅の2つ手前の駅だ。その日野駅から徒歩十数分。中央線に沿った坂道を八王子方面に登りきったところに大学と寮があった。

東京とはいえ都心から遠く離れたキャンパスには、こぢんまりとした校舎には似つかわしくない300mのトラックとその内側には青々とした立派な芝生が植えられていた。グラウンドは日野寮の1階の食堂に面していた。寮生は、毎日朝昼晩とその芝生のグラウンドを見ながら食事をとっていた。

その中にサッカー好きの学生がいた。東京の大学に入れば日本リーグや大学リーグ、日本代表の試合だって見ることができる。それが東京の大学を選んだいちばんの理由だった。大学1年の秋、関東大学リーグの試合を寮生の友人と一緒に見に行った。その友人はひと目見てサッカーの虜になった。寮に戻り、その興奮をまわりの寮生に伝えた。その輪は関東大学リーグの試合を重ねるごとに大きくなった。シーズン終盤には観客席の真ん中には女子大生の一団があった。優勝決定の瞬間にそのグループが放った紙吹雪が舞う写真は当時のサッカー雑誌に取り上げられた。

サッカーの魅力に取り憑かれたグループは、自分たちでもボールをけってみたくなった。気がつけば、寮の目の前にはすばらしいグラウンドがあった。ボールを1個買ってきて、芝生のグラウンドでボールをけり始めた。

これが実践女子大学サッカー同好会の始まりだった。まだ女子のサッカーチームがほんの数チームしかなかった時代。私の先輩たちのチーム創設物語だ。

ずいぶん前置きが長くなってしまった。

電話の声の主は望月三起也という男性だった。

望月三起也という人は、一般的には「ワイルド7」という超人気漫画の作者で大家と呼ばれるような人だったが、サッカー界では無類のサッカー好きとして知られ、サッカー・マガジンには『絵故ひい記(えこひいき)』のちに『図々SEE(ずうずうしい)』という絵コラムを連載していた。

寮の館内放送で呼び出されたサッカー同好会のメンバー数人が、受話器に耳を近づけ「望月三起也」という名前を聞いて色めきたった。あの大家が直々に、できたばかりのサッカー同好会あてに、どこで調べたのか寮に電話をかけてきたのだ。「えっ? あの望月三起也先生がなんで?」。

望月先生は、自身は「ワイルド11(イレブン)」というチームを作ってプレーしていたが、女子チーム「ワイルド11レディース」の監督もしていた。そのチームとの練習試合の申込みだった。

実践はできたばかりのチームで、活動といえば、小学生の男子と練習試合をしたり、小さなミニサッカー大会に出場したくらいだった。

望月先生にしてみれば、自分のチームの選手に試合をさせてやりたい一心であらゆる情報を集めて自ら電話をして練習試合のアレンジをしていたのだろう。それほど、女子のチームがなかった時代だ。

そうした縁で他のチームも加えて練習試合を重ねていく上で、望月先生はある決心をした。

「女子サッカーリーグをつくる」

望月先生は当時、日本リーグの三菱重工サッカー部のファンとして有名で、三菱グループの関係者とは強いつながりがあった。思い立った先生は、巣鴨に人工芝のグラウンドをもつ三菱養和会のトップに話をつけに行った。先生の純粋な女子サッカーへの愛情が大企業の上部を動かしたのだ。

実践にかかってきた電話から約半年で、三菱養和会の全面的なバックアップを得て、東京に女子サッカーリーグが誕生した。

女子のサッカーはまだまだ未熟で、えさに群がるにわとりのようにボールに集まってしまう様子を「チキンフットボールリーグ」と先生自ら名付け親になった。

チキンリーグは1976年から1980年の5年間でその使命を終え発展的に解消するが、その間に女子サッカーは日本サッカー協会の傘下に入り、日本女子サッカー連盟を設立する。当時まったく資金源がなかった女子サッカー界にあって、連盟そのものだけでなくリーグ、大会のロゴマークやプログラム、ポスターのすべてに望月先生がイラストを書いた。




先生の功績はそういう組織の礎を築く力を貸してくれただけでなく、女子サッカーがメディアにほとんど取り上げられることなどなかった時代に、折に触れてサッカー・マガジンのコラムで女子サッカーを真っ当に扱い、温かく、ときにきびしい批評をしてくれたことにあると思う。




これはサッカー・マガジン198111月号。9月に行われた「ポートピアサッカー’81」のことを扱ったコラム。女子日本代表として、はじめてヨーロッパの代表チームと対戦した大会。0-9のスコアでイタリア代表にこてんぱんにやられた。ちなみに、中央でイタリア代表のビニョット選手を相手に鎧を身にまとい真剣で挑んでいるのは私だ。ぶざまにやられ続けたこの試合を今後につながる試合として愛情深く描いてくれている。





そしてこちらは198211月号。チキンリーグ設立から7年。「この名前(チキン)がとれたときが本モノのサッカーと合言葉に昨年めでたくとりはずしましたが、プレーの方はいまひとつ脱皮できてない。そろそろ飛ぶための羽を持ってほしい」ときびしい言葉をかけてくれている。

望月先生がどれだけの大家だったのか、漫画を読まない私は失礼ながらよく知らない。ただ、私がサッカー・マガジンでアルバイトとして働いていたときに、先生のところに原稿を取りに行くことがあった。ふつう、原稿取りの編集者は階下に部屋があって、そこで原稿ができるのを待つものだった。先生に直に会うことなどない。私もその例にならい下の部屋で待っていると、「トモが来てるのかい? あがってきなさい」と上の仕事場に呼び入れてくれた。締切前、睡眠不足で疲れきっているはずなのに、満面の笑顔で迎えてくれて、原稿に最後のペンを入れながら「最近、調子はどうだい?」とか、たわいないサッカーの話を本当に楽しそうにしてくれる、そんな人だった。

最後に先生に会ったのはいつのことだっただろう。

去年、実践女子大学サッカー同好会は40周年を迎えた。40周年の節目に、私は創設メンバーの先輩たちひとりひとりから当時の話を聞いた。

そのときに、日野寮に望月先生から電話がかかってきたときの話を聞いたのだ。

私は、先輩たちがサッカー同好会をつくってから1年経たないうちに大学に入学し、同好会に入った。チキンリーグには初年度から出場し、ベスト8にも選ばれた(当時は8人制サッカーだった)。草創期の苦労も知っている。だから、自分も創設メンバーのひとりだと考えていた。でも、それはまったく違う。

先月の最終日曜日3月27日に、41年前に望月先生からの電話を受けた先輩のひとりからメールがきた。

「今日は池袋東武での望月三起也原画展に行って来ました。今日は先生来場予定とのことでした。今年はじめ、先生は肺癌で余命宣告を受けました。会えそうなら、迷わず会いに行く!と心に決めて行きました。直接言葉を交わすことはできませんでしたが、手紙を渡して黙礼してきました。行く前に、昔のマガジンやプログラムをたくさん読んでから行ったので、懐かしさで胸が苦しくなりました

そのメールを読んで「私も会いに行かなくちゃ!」と思った。だけど行けなかった。

そのメールからちょうど1週間後、4月3日の夜、望月三起也先生の訃報をネットのニュースで知った。先生の声、先生の顔が次々に浮かんできた。

そのとき、また先輩からメールがきた。
「あの日、日野寮に突然かかってきた望月先生からの電話が、同好会が日野のグラウンドから外の世界へ飛び出して行くきっかけになったんだよね。先生が私たちの活動を知ってくれていなかったら、いま、私たちはどんな人生になっていたんだろう」

望月先生は、私たち実践女子大学サッカー同好会が、その後41年間絶えることなく続いていく道しるべをつくってくれた。それは、私たち卒業生がその後の人生においてサッカーを大きな支えとして生きて行くことを可能にしてくれたということだ。

女子サッカーの世界は、この41年間で大きく変わった。

望月先生は、私たちのような小さな集団に手をさしのべ、サッカーという世界に引き入れてくれた。そんな小さなことの積み重ねが、いまの女子サッカーへとつながっているのだ。

私は、なにもないところから小さな一歩を踏み出した先輩たちを誇りに思う。

そして、私たちの手をひっぱって女子サッカーに大きな一歩をもたらしてくれた望月三起也先生に、先輩たちと共に心から感謝したい。





プロフィール

大原智子(おおはら・ともこ)
三重県伊勢市出身。1976年大学入学と同時にサッカーを始め、卒業後はクラブチームFCPAFを創設した。76年からチキンフットボールリーグ、81年にスタートした東京都女子リーグでプレーし、現在もFCPAFで現役。81年から84年まで日本代表。ポジションはMFだが、日本代表ではDF。クラブでも、チームの必要に応じてFW、DFでもプレーした。選手活動のかたわら、ワールドカップは82年スペイン大会、86年メキシコ大会、90年イタリア大会、94年アメリカ大会、98年フランス大会、02年日本/韓国大会、06年ドイツ大会、10年南アフリカ大会、14年ブラジル大会、9大会を観戦している。
著書 『がんばれ、女子サッカー』共著 岩波アクティブ新書
・フリーランス・エディター/ライター

・ハーモニー体操プログラム正指導員、ハーモニー体操エンジンプログラマー