1999年12月17日金曜日

第37回 世界デビュー




 12月にはいると、ドミノ倒しのように一日一日が過ぎていく。毎年のことなのだが、ことしはなかなか寒くならなかったせいか、気がつくともうこんな時期になっていた。

 「2000年まであと××日」。世間は毎日が2000年へのカウントダウンだ。

 しかし、わたしたちはすでに2002年への幕開けをしてしまった。
12
月7日、2002 FIFA World Cup Korea/Japan予選抽選会が東京国際フォーラムで行われた。予選に参加するのは195カ国。2年間にわたって本大会への29の切符をかけて戦う。その第一歩が始まったのだ。

 会場には海外から約100人、国内から約200人の記者と約100人のカメラマンが取材に訪れ、ペレ、ボビー・チャールトン、ベッケンバウアー、プラティニらビッグネームがゲストとして顔をそろえた。ワールドカップならではの雰囲気だ。

 この華やかな序章を日本のどれだけの人たちが楽しむことができただろうか。テレビの生中継はあったものの、地上波ではなくNHK衛星放送だった。多くの人たちの関心を集めているとはいいがたい。わたしたち日本人は開催国なので、予選を戦う必要がない。抽選会のなかに日本は登場しない。しかし、わたしたちの2002年ワールドカップはここから始まっている。

 これだけ多くの国が日本と韓国をめざして、これから戦っていくのだ。思い出してみよう。98年フランス大会の予選のとき、わたしたちはずっと「フランスへ行こう!」と歌い続けた。これから195の国で、195の国の言葉で「日本へ行こう! 韓国へ行こう!」と歌われるのだ。考えただけでもぞくぞくとしてくる。

 この地域のこのグループからはどの国が勝ち上がってくるのだろうか。地図帳をめくり、地球儀をまわし、どんな言語が使われているのか調べたりするのだろう。そうすれば、地球上のほとんどの国が日本をめざして予選を戦うということがわかるはずだ。そして、どの国もいままでよりずっと近く感じられるのだろう。

 年末にはやらなければならないことがある。開催都市に住む遠い親戚や遠い友人を探して、年賀状を書こう。ご無沙汰をわびて、ワールドカップへの思いを一言添えよう。きっと2年後にはお世話になるのだろうから。いや、開催都市だけではない。キャンプ候補地も要チェックだ。2002年に向けてやることは山ほどあるのだ。

 さて、今回の抽選会で日本の若きスターが世界にデビューした。正確にいうと小野伸二は98年フランス大会のジャマイカ戦に18歳でデビューした。しかし、15分間というあまりにも短いものだった。小野が本当に世界に強い印象を与えるのはこれからだろう。2002年のピッチには、押しも押されもせぬワールドクラスの選手として立っているに違いない。

「J2落ちが決まっても温かい声援を送ってくれたファンに応えるように、レッズは天皇杯を勝ち進んだ。2000年1月1日、国立競技場は真っ赤に染まった。試合後、ロイヤルボックスの中央で、天皇杯を頭上にかかげる小野がいた。翌日、小野はイングランドに旅立った」

 わたしはこんな初夢を見たい。ドミノ倒しのような年末の日々のなか、天皇杯からも目が離せない。

1999年11月26日金曜日

第36回 落ちそうで落ちない

 Jリーグもいよいよ大詰めだ。

 J1第2ステージはあと1節を残して、清水エスパルスが優勝した。チャンピオンシップをジュビロ磐田と戦って、99Jリーグ優勝を決める。J2は21日(日)に行われた最終節まで2位争いがもつれこみ、結局、優勝が川崎フロンターレ、2位がFC東京となり、この2チームがJ1への昇格を決めた。

 そしてことしから、シーズン総合順位でJ1の15位と16位が自動的にJ2に降格するために、熾烈な残留争いが最後まで繰り広げられている。ベルマーレ平塚は最下位が決まってしまったが、残るひとつにならないようにアビスパ福岡、浦和レッズ、ジェフ市原の3チームがしのぎを削っている。

 土曜日に行われる最終節から目が離せないが、わたしとしてはレッズとジェフが残ってほしいと思っている。それは本当に個人的な理由なのだが、そんなわたしの心を見透かしたように、福岡に住む友人からメールが届いた。

「東京にもいよいよJ1チームが誕生おめでとう! 九州人になりつつあるわたしは土壇場で大分が昇格できずに残念です。それに、ことしは(アビスパは)ぜんぜーん大丈夫、とみんなダイエーの応援に忙しかったせいか、アビスパがまたまたピンチでどうしてくれる?」

 そうだ、アビスパが落ちると九州からJ1のチームがなくなるということなのだ。九州の人からJ1観戦の楽しみを奪ってしまうことなのだ。自分の了見の狭さを恥じた。とりあえずわたしは、FC東京の昇格を大いに喜び、残留をめざす3チームにはニュートラルな気持ちで応援しようと思う。

 それにしても、FC東京には最後にきてやきもきさせられた。J2は10チームで4回戦総当たりでリーグ戦を行っている。9試合を4回、合計36試合の長丁場だ。FC東京は3回戦までは実に安定した戦いをしていた。1回戦は5勝2分け2敗、2回戦は7勝2敗、3回戦は6勝1分け2敗。しかし、4回戦は3勝6敗という成績だ。

 9月25日から始まった4回戦は、ちょうどナビスコカップの準決勝と時期が重なった。J2の首位をキープしていたFC東京は、ナビスコカップ準決勝でもレベルの高い戦いを見せて、昨年の王者鹿島アントラーズと互角にわたりあった。それは、FC東京が来シーズンは当然J1でプレーし、しかも遜色なく戦えることを示していた。

 しかし、その過密な日程がFC東京のリズムを狂わせることになった。第4回戦の成績が表すとおりだ。最後までリズムを取り戻すことはできなかったが、あきらめない強い気持ちと運がFC東京にJ2・2位をもたらしたのだと思う。 

 一シーズン戦い抜くということはなんとむずかしいことだろうか。わたしのチームのような町のクラブではなおさらだ。

 わたしたちはいま、山あり谷ありの長いシーズンのまっただ中にいる。FC東京になれるのか、レッズなのか、ジェフなのか、アビスパなのか。シーズンが終わったときに、はっきりと結果は出るが、いまはあきらめない強い気持ちで戦い続けたい。そうすれば、運を呼び込むこともできるのだろう。

 ところで、去年ぎりぎりのところでJ1残留を決めたアビスパは、「落ちそうで落ちない」お守りとして、選手のサイン入りフラッグを受験シーズンの福岡市内の公立中学に贈った。友人の息子はそのおかげ(?)で無事高校に合格できたそうだが、ことしの受験シーズンにアビスパのフラッグは中学校ではためいていられるのだろうか。

1999年11月12日金曜日

第35回 風穴をあけたゴール

 「勝つ」というのは本当にむずかしい。
 ことしのわたしのチームはつまずきだらけだ。プレシーズンの大会は得失点差で1位リーグに進むことができなかった。5月の菅平大会では、ベスト16で敗れた。リーグ戦の前半戦では思わぬ1敗を喫した。全日本選手権の東京予選では、準々決勝敗退という最近にない悪い成績だった。どの大会も去年の成績を下回った。

 思わぬ成績の悪さから、夏のシーズンオフの期間が3カ月もあった。10月から始まる後期リーグに向けて、チームとして万全の準備をして夏を過ごしたはずだった。合宿もしたし、練習試合も数試合組んだ。しかし、練習試合でも全然勝てない。準備のための練習試合だから、勝敗はそれほど問題ではない。少しずつ修正をしながら調子が上向いてくればいいと思っていた。そして、シーズンイン。

 初戦からつまずいた。引き分けてしまったのだ。前期に負けていた相手だから、引き分けは上向きともいえるが、リーグ優勝するためには絶対に勝たなければいけない試合だった。そして、第2戦。前期はホームで4-0の勝利を収めたチームに、アウェーで2-5と大敗した。決定的に打ちのめされた。

 目標をもって練習してきた。コンディションも悪くない。わたしにはなにが悪いのかよくわからない。ちょっとずつ歯車がずれているのだ。「なにか」のきっかけでかみあうようになるはずだ。そう信じたかった。わたしは髪を極端に短く切った。

 113日はめずらしく公式戦も練習試合もないオフ日だったので、国立競技場に出かけた。ナビスコカップ決勝、柏レイソル対鹿島アントラーズだ。ナビスコカップは4月に1回戦が始まり、半年以上もかけてJリーグの合間に行われるので盛り上がりに欠ける。ひとつでもいいプレーが見られればと思っていたが、予想以上にエキサイティングな試合だった。

 前半、レイソルはすばらしい攻撃を見せた。前半5分、右サイドからの酒井の完璧なセンタリングに大野が合わせて先制ゴール。その後も多彩な攻撃で何度もチャンスをつくり攻め続けた。しかし、追加点は奪えなかった。後半は一転してアントラーズのペース。後半17分に柳沢からビスマルクに渡り同点ゴール。2分後にはいい位置でのFKを阿部が決めて逆転した。だれもがアントラーズの優勝だと思ったとき、ロスタイムもほとんど残っていないそのとき、レイソルの渡辺毅の矢のようなシュートがゴールにつきささった。このままでは終わらせないという気持ちがそのままボールに伝わったゴールだった。

 試合はPK戦でレイソルが勝った。120分間と6人ずつがけったPK戦の間中、どきどきワクワクのしどうしだった。両チームが最後まであきらめずに必死で戦う姿に大きく勇気づけられた。そして試合後、敗れたアントラーズのサポーターが選手たちの健闘を大きな拍手でたたえただけでなく、最後のPKをはずした小笠原に対して、何度も何度も小笠原コールを繰り返して励ますのを見て心を打たれた。サッカーの美しさを堪能した試合だった。頭だけでなく、心も晴ればれとして軽くなった。

 先週の日曜日は後期リーグ第3戦。前期はアウェーで7-0で勝った相手とのホームゲームだった。前半からほとんどボールをキープして攻め続けたが、なかなか点がはいらない。相手チームも前期のようには点を入れさせない、と必死だったのだろう。

 わたしたちは辛抱した。ボールのあるところで一人ひとりが戦った。あきることなく何度も攻めた。右から左から攻撃し続けた。後半12分、ようやく攻撃が実った。風穴があいたようなゴールだった。終了間際にも得点し、2-0で勝った。

 久しぶりの勝利だった。会心の勝利とはいえないが、みんなの心のつかえが取れたような勝利だった。

 いままでわたしたちは強いチームに勝つことにターゲットをしぼって、それを目標にリーグ戦を戦おうとしてきた気がする。それはわたしたちのおごりだったかもしれない。どんな相手にも「勝つ」ということは簡単なことではない。それがわかっただけでも今シーズンの意味があるのかもしれない。

 残りの試合、1試合1試合を必死に戦っていこう。最後まであきらめず辛抱強く戦えば、結果がどうあれ、すがすがしい気持ちでシーズンを終われるに違いない。

1999年10月22日金曜日

第34回 大きな声を出そう


 自転車通勤は楽しい。世田谷にある自宅から渋谷の仕事場まで、わずか20分弱の道のりだが、坂道がトレーニングにもなるし、季節の移り変わりを肌で感じられる。秋のおとずれはキンモクセイの香りが知らせてくれたというのに、ことしは夏が長かったせいだろうか、もう11月になろうというのにトランペットフラワーの木にたわわに花が咲いている。

 しかし、東京の道は自転車乗りにとってはつらいことも多い。東京では自転車は歩道を走らなければならないことになっている。ほとんどの歩道は狭く、人ひとりがやっと通れるといったところも少なくない。そこを歩行者と自転車が共存しなければならないのだ。

 最近の道ゆく人たちは、ひとりの場合はヘッドホンステレオを聞きながらとか、携帯電話で話しをしながら歩く人が多い。おまけに前を向かず伏し目がちに歩く。複数の場合は、道いっぱいに広がって歩き、おしゃべりに夢中になっている。自分たちの世界にはいっていて、自転車が近づいてもいっこうに気配を感じとってくれない。仕方がないので「すみません、通してください」と声をかける。声が小さいと聞こえないし、かといって近くに寄りすぎて大きな声を出すとびっくりされる。声をかけるタイミングはけっこうむずかしい。

 先週の日曜日、わたしのチームは練習試合をした。圧倒的にボールを支配し攻めていたが、DFとGKのちょっとした連係ミスから相手FWにボールを奪われ、思わぬ失点を喫した。GKがはっきり声を出してボールをけっていれば何の問題もない場面だった。この日、わたしたちは「声を出す」ことをテーマに試合に臨んでいた。練習試合の勝敗や失点はチャレンジした結果ならばいちいち気に病む必要はないが、テーマとしていたことができずに失点につながったことは大きな問題だった。

 夏以来ずっと、わたしのチームは「声を出す」ことをテーマに練習してきた。一言で「声を出す」といっても簡単なことではない。まず、パスを交換する練習のときに受け手が出し手の名前を大きな声で呼ぶことから始めた。「大きな声」という点で最初は半数の選手が不合格だった。声を出すこと自体に意味はない、相手に聞こえてはじめて意思が伝わる。そのために「大きな声」が必要なのだ。

 つぎは、「いつ声を出すか」だ。センタリングを受けるときやオーバーラップをかけるときはタイミングを合わせるための声が必要だ。逆を向かせたいときは、はやめに声を出さなければならない。受け手に余裕があれば「フリー」という声をかけてやる。いろいろな状況を想定した練習を重ねることで、どのタイミングで声を出すかを知ることができる。

 しかし、もっとも大事なのは一人ひとりの判断だ。試合のなかでは百の場面で百通りの判断をしなければならない。サッカーは一瞬の判断の積み重ねのスポーツだ。目で見えるもの、耳からはいってくるチームメートの声や足音、それらすべての情報から的確な判断が生まれるのだ。そして、ひとつひとつの判断がまた意思をもった声を出させるのだ。

 ピッチのなかで孤独になってはいけない。自分の世界にはいりこんではいけない。一人ひとりが意思のある声を出し続け、一部のリーダーシップに導かれるのでなく、11人の声がひとつのチームの意志となってゴールに向かうことになれば、こんなすばらしいことはない。

 チャレンジしなかった練習試合を反省しよう。やろうとしなければ何も始まらない。つぎは大事な公式戦だが、失敗を恐れず勇気をもって、11人のなかのひとりとして「声」を出し続け、チームを勝利へと導きたいと思う。

 「すみませ~ん、通りま~す」
 思いっきり感じのいい声を出しながら、秋晴れの旧山手通りのせまい歩道を、自慢のマウンテンバイクで走っている。

1999年10月8日金曜日

第33回 ドリームマッチが見たい


 1011日、体育の日の振替休日となったその日、東京は真っ青な空が広がった。国立競技場は5万以上の人で埋まり、ドリームマッチと呼ぶにふさわしい舞台となった。

 5年目を迎えたJOMO CUP99 Jリーグドリームマッチは、Jリーグ外国籍選手選抜チームにバッジオ(インテル・ミラノ=イタリア)とレオナルド(ACミラン=イタリア)をゲストプレーヤーとして招いた。

 バッジオとレオナルドのプレーは、そのひとつひとつがバッジオのプレーであり、レオナルドのプレーだった。彼らは試合の最初から最後まで自分たちのプレーを見せ続けた。そして、外国籍選手選抜チームは、ふたりに引っ張られるように伸び伸びとダイナミックにプレーし、試合を楽しんでいるようだった。

 バッジオは風のように軽やかでエレガントだ。プレー中に見せる心からサッカーを楽しんでいる様子、相手選手に表す敬意、それはファンだけでなく、味方選手、ひいては相手選手をも魅了してしまう。

 レオナルドとファンの交流には心を打たれた。鹿島のサポーターは、アウェーのゴール裏の一角を陣取り、3年ぶりで帰ってきた鹿島の選手「レオナルド」を応援し続けた。レオナルドは試合前と後にサポーターにあいさつに行き、とくに試合後には、広告看板を飛び越えて、サポーターの元へ駆け寄り、はいていたスパイクをスタンドに投げ入れ、感謝の気持ちを表した。そして、サポーターから投げ込まれたおそろいの赤いシャツをすぐさま身につけ、愛情を示した。そこには、選手とファンの美しい姿があった。

 わたしは、バッジオやレオナルドのプレーを堪能していたが、もちろん日本選手選抜チームを応援していた。ファンが選んだ日本代表なのだ。当然、いいプレーを期待するし、勝ってほしいと思う。

 相馬の左サイドの突破も、伊東の中央を切り裂くドリブルも、最後のところで跳ね返されてしまう。全体的に攻めにスピードがなく、積極性もないように感じられた。唯一、城の豪快なシュートがネットを突き刺したとき、席を立ちあがって喜んだ。城も得意の宙返りで喜びを表し、試合後のコメントでは「ゴールを決めたとき、もっと観客に沸いてほしいと思って宙返りをしました」と言っていた。しかし、わかってほしい。わたしたちは宙返りが見たいわけじゃないってことを。

 一試合を通じて、城のプレー、伊東のプレーをもっと見せ続けてほしい。わたしたちはゴールシーンだけに目を奪われているわけじゃない。そこに至るまでのひとつひとつのプレーを、ワクワクしながら期待し見つめているのだ。チーム全体に影響を与え、チームを躍動させるようなプレーを。

 今回の大会の概要が発表されたとき、バッジオとレオナルドをゲストとして招く意味が理解できなかった。Jリーグ選抜の試合に、なぜセリエAの選手が必要なのか。観客動員のために必要ならば、もはやJリーグの選手だけではドリームマッチはできないということになる。

 そんな難しいことを考えながら当日競技場に足を運んだが、秋空のぬけるような青、ピッチのあざやかな緑、色とりどりの満員のスタンドに身を置きながら、わたしはサッカー観戦を心から楽しんでいた。それは、たぶん主催者側の思惑とは別のところで、バッジオやレオナルドが多くのことをわたしたちファンや選手たちに残してくれたからだと思う。

 今後、Jリーグから彼らのような選手が育ってくれることを心から願わずにはいられない。そして、来年は本当の意味でのJリーグドリームマッチを見ることができますように。

1999年9月24日金曜日

第32回 選手はプレーするしかない

 長く暑い夏を経験した体は、秋には強くたくましく、そして動きが軽くなっている。毎年この時期に感じることだ。前後がわからないほど日焼けした外観だけではない。つい2、3週間前までは、あえぐように走り回っていたグラウンドもいまは狭く感じられる。

 そして10月から始まる後期リーグに突入だ。予定どおりだ。のはずだった。しかし、ことしの夏は予想以上にわたしの体にダメージを与えていたようだ。いまになって、どっと疲れが出ている。リンパ腺が腫れ、微熱が続き、体全体に倦怠感がある。こんなことはいままで経験したことがない。

 リーグ戦再開まであと1週間というのに、どうしたことだ。こんなときはとにかく休養だ。体を休めるに限る。しっかり栄養のある食事をし、十分な睡眠をとる。そして、スポーツクラブに行ってストレッチを中心に体をほぐす。熱が下がれば、プールに行ってリフレッシュするのもいいだろう。やらなければならないことが、きちんと整理されてつぎつぎと頭に浮かんでくる。

 しかし、実際の生活とはあまりにかけ離れている。現実はというと、仕事に振り回されている。平日の夜の練習のあとにさえ、疲れ切った体を引きずって仕事場に戻り、締め切りに間に合わせるために仕事を片づけている。要領が悪いと朝までかかることもある。サッカー選手の風上にもおけない生活だ。

 こんなことで週末の試合にいいプレーができるわけがない。理想と現実のはざまであせり、悶々とする毎日だ。こんなときプロの選手なら、サッカーのことだけを考えて生活すればいいんだろうなあなどと考えているところに衝撃的なニュースが飛び込んできた。

 「松下電器女子サッカー部、今季限りで廃部」

 高倉麻子が、今シーズンのLリーグ開幕直前の7月に読売ベレーザ(現・NTVベレーザ)から松下電器に移籍したばかりだった。

 わたしが日本代表でいっしょにプレーしたのは、1980年代の前半、高倉が中学から高校のころだ。当時高倉は東京都リーグのFCジンナンに所属していたが(のちに読売ベレーザに移籍)、実家は福島県にあり、サッカーのために週末だけ東京に出てきていた。そんな生活は東京の大学に進学するまで続いた。抜群のテクニックとセンスをもち、その華麗なプレーはまぎれもなく、日本のトッププレーヤーだった。

 1989年、高倉が大学3年生のとき、日本リーグ(Lリーグ)が始まる。強豪読売ベレーザの主力選手として、つねにチームをひっぱった。大学卒業後はスポーツクラブで働きながらプレーを続けた。

 1994年、26歳のときプロ選手となる。
 「べつにプロになるためにサッカーをやってきたわけではないし、プロになったという感慨はとくにありませんでした。ただ、26歳という年齢もあったと思いますが、スポーツクラブで仕事をしながら、トップリーグでサッカーを続けていくのは身体的にきついなと思い始めていたころだったので、生活の心配なくサッカーに打ちこめるようになったのはありがたかったですね」

 昨シーズン末に4チームが撤退したことで、Lリーグは大きく揺れた。残ったほかのどのチームも同じように状況はきびしいものだったからだ。今シーズンから、外国人選手登録禁止を申し合わせるなど、リーグ存続とチームの生き残りをかけて、各チームは運営に大きくメスをいれた。そのひとつとして、読売ベレーザはプロ選手をもつことをあきらめた。

 6月いっぱいで読売との契約が切れた高倉は、いままでと同様の条件を提示してくれた松下電器に移籍することにした。シーズン開幕のわずか5日前のことだった。長年過ごした読売ベレーザに愛着はあったが、松下電器が高倉の力を必要としているのを感じたし、新しい環境でもう一度やってみようと思い、決心した。

 「(廃部のニュースは)もちろん、びっくりしました。2カ月半前に移籍し、あっという間に前期リーグが終わり、これからだと思っていましたから・・・。わたしたちは、新聞でニュースを読んだ人と同じです。ただ通達を受け入れるしかないんです。選手としてできることはプレーすることです。残りの試合を一生懸命やります」

 「来年のことは、まったく考えていません。Lリーグがどうなるかもわからないし、国内で移籍することはまずできないでしょうね。ただ、このままこういう状況で、なし崩し的にサッカーをやめさせられてしまうのはくやしい。漠然と、外国でプレーしたいという気持ちはあります。プロとかお金とかはどうでもいいんです。レベルの高い、しっかりと組織されたリーグの、きちんとしたチームでサッカーがやりたい」

 いま女子のプロと呼べる選手が何人いるかはわからない。そもそも女子のプロなんて早すぎたという考えもあるだろう。しかし、女子サッカーの普及と強化という点で、Lリーグの果たしてきた役割は大きいし、高倉をはじめとする何人かの選手が先頭に立って、日本の女子サッカーを引き上げてきたことは疑いのない事実だ。

 「わたしたちはいまのこの状況をどうすることもできない。選手はただプレーするしかないんです」
 高倉の言葉が胸にひびいた。
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月2日から始まるLリーグ・後期リーグの松下電器の高倉からは目が離せない。その心意気がチームメートに伝わり、Lリーグ全体に広がることを期待している。

 わたしのような選手も環境に流されることなく、きびしく自分を律していきたいと強く思う。さあ、早く仕事を終わらせよう。

1999年9月10日金曜日

第31回 どうしても、見たいっ!


 朝晩はめっきり涼しくなってきた。これでようやく、夜ぐっすり眠れる日々が返ってくる。

 わたしが住んでいる部屋は集合住宅、いわゆるマンションの一室だ。東側だけに窓があり、西側は玄関。玄関を開けると通路があり、向かいには別の人が住む部屋がある。ようするに外とつながっているのは東側の窓だけなのだ。

 窓を開けてもほとんど空気は動かず、夏の夜は寝苦しいことこの上ない。しかも真夏には、午前4時すぎから太陽の光が差し込み、部屋の気温はぐんぐん上がり、7時すぎまではとても寝ていられない。

 この部屋との戦いは、なにも夏だけではない。あれは9年前のことだ。
 1990年、ワールドカップ・イタリア大会の全52試合をNHKが基本的に生放送で放映することを発表した。画期的な出来事だった。一瞬飛び上がって喜んだあと、地面にたたきつけられた気分になった。それは衛星放送でのことだったのだ。

 衛星放送を見るためには、そのためのアンテナとチューナーを購入し、しかもアンテナは西向きに立てなければならない。うちには西向きの窓はない。絶望的な気持ちになって、まずはじめにしたことは、NHKに電話をかけることだった。「なぜ、だれでも見れる総合と教育というふたつのチャンネルをもっているのに、そこで放送しないのか。わたしのマンションは150世帯が住んでいるが、その半分は東向きの部屋なので衛星放送を見ることができない。世の中の半分の人が見れないようなことを、あなたたちは平気でやるのか」と、いささか無理のある理屈で抗議した。しかし、同様の電話はかなりあったらしく、冷静な答えが返ってきた。「総合や教育でも何試合かは録画で放送します。集合住宅でも共同のアンテナをつければ、衛星放送を見ることができます」

 やむをえずわたしは強硬手段に出ることにした。屋上に勝手にアンテナをつけてしまおうと考えたのだ。近所の電機屋さんと組んで計画を立てた。計画を成功させるためには、屋上の鍵を持つ管理人さんも巻き込んだ。そして、最後は上の階に住む人たちの許しが必要だった。わたしの部屋は5階建ての2階にある。屋上のアンテナから引いたケーブルは、わたしの部屋にくるまでに5階から3階の部屋のベランダを通過しなければならない。それはけっして見栄えのいいものではなかった。

 わたしは、いかにワールドカップがすばらしいものであるか、4年にいちどの大会をどれほど楽しみにしているかなどなど、一人ひとりに熱心に訴えた。そして、ワールドカップが終わったらただちに撤去することを約束して、許可を得たのだった。
 夢のような寝不足の1カ月はあっという間に過ぎ、アンテナとチューナーは押し入れにしまわれた。

 まもなく、大々的な工事が行われ、わたしのマンションに衛星放送の共同アンテナが立った。1993年Jリーグの開幕とともに圧倒的に増えたサッカー放送を、見たい番組は逃さず堪能することができた。セリエAを見るためにWOWOWにも加入した(WOWOWは同じ衛星放送のアンテナで見ることができる)。先月には、ケーブルテレビの工事が完了し、加入手続きもすませた。それによって、欧州や南米の国の国際Aマッチを見ることができるようになった。なによりケーブルテレビなので、雨などの気象条件の影響を受けない。先日のような激しい雷雨でも画面が乱れることなく楽しめた。ちなみに衛星放送は激しい雷雨の間、まったく画面が映らなかった。

 これで、わたしのテレビのサッカー観戦は鬼に金棒、完璧なはずだった。今シーズンは中田に続き名波もセリエAにデビューし、楽しみも2倍と思っていた。そんな矢先に衝撃的なニュースが飛び込んできた。セリエAすべての試合の放映権がスカイパーフェクTV(スカパー)に移ったというのだ。スカパーを見るためには、独自のアンテナを別につけなければならない。アンテナの方向は南南西だ。

 2年目の中田はどんなプレーを見せるのだろう。名波のデビューは驚きをもって歓迎されたようだが、イタリアのタフなシーズンを無事戦い抜くことができるのだろうか。ふたりにどんな成長があるだろうか。

 どの方角にも窓のある風とおしのよい部屋に引っ越すことしか、わたしの日曜日の夜の楽しみを取り戻す方法はないのだろうか。こんなことを考えて、わたしの眠れぬ日々がまた続いてしまう。