あれはもう18年も前のことだ。
1981年1月。初めての海外遠征は香港だった。チキン・フットボールリーグ(CFL)選抜の一員として、香港遠征に参加した。
1979年に日本女子サッカー連盟が発足したものの、東京都女子サッカー連盟ができたのが1981年3月、東京都女子サッカーリーグは同年5月から始まった。CFLは、三菱養和会の全面的なサポートを受け、1976年から1980年までの5年間開催された。主に東京と神奈川のチームで、最初は5チームから始まり、最後は9チームが参加していた。
CFL最後のシーズン終了後に香港遠征が行われた。もちろん遠征費は全額自己負担だったし、選手のほとんどが社会人で、それぞれが休暇をとって参加した。しかし、リーグの事務局長でプロ・コーチでもある鈴木良平さん(86-89女子日本代表監督)の指導を受けて1カ月以上前から準備して臨んだ香港代表との2試合は、わたしたちにとっては「国際Aマッチ」だった。
とくに1月4日の第1戦はすごかった。スペイン・ワールドカップ予選アジア第4組の決勝、中国対北朝鮮戦の前座試合だったのだ。香港スタジアムには2万人の観衆がつめかけていた。人で埋まったすり鉢状のスタンドから聞こえる歓声はすごい圧迫感があった。ピッチに立つだけで、全身に鳥肌がたった。
そんなわたしたちの目の前に、数本の日の丸が振られているのが見えた。メインスタンドのまん中に陣取った十数人のグループは、明らかに日本から応援に来ている人たちだった。「ニッポン、チャ、チャ、チャ」の声は、香港代表を応援する大歓声のなかにあっても、直接わたしたちの胸にひびいた。わたしたちは1-0で勝利した。
実はそのグループは、日本のサポーターの草分け的存在である「日本サッカー狂会」の人たちだった。ワールドカップ予選を戦う日本代表の応援に来ていたのだ。残念なことに、日本代表は5日前に行われた準決勝で北朝鮮に延長の末0-1で敗れていた。
当時の日本代表は平均年齢21.5歳という若さで、中盤に風間八宏、金田喜稔、戸塚哲也という技巧派を並べ、左サイドのチャンスメーカーが木村和司という画期的なチームだった。あきらかにそれまでの日本代表とは違う雰囲気をもっていた。その攻撃の多彩さは見るものをわくわくさせた。
わたしたちが香港に滞在している間中、テレビでは繰り返しワールドカップ予選のダイジェストを放送していたが、決勝に進出した中国や北朝鮮よりもはるかに多く、日本代表のプレーが映し出されていた。木村和司のフリーキック、金田の突破、戸塚のドリブル、風間のスルーパスなど、ひとつひとつのプレーが香港の人たちを驚かせ、魅了したようだ。おかげでわたしたちも香港の人たちに温かく見守られ、いいプレーには拍手してもらった。町のレストランでは「アナタタチ、ウマイネ」と日本語で声をかけられたりもした。
それから4年半 ─── 。
このときの日本代表がベースになって、メキシコ・ワールドカップ・アジア最終予選で日本中を熱狂させた日本代表チームがつくられる。1985年10月26日、国立競技場を日の丸で埋め尽くした、あの日本対韓国戦は日本サッカー史上に残る大きな出来事になった。
先週香港で圧倒的な力の差を見せた日本オリンピック代表の選手たちは、ちょうどそのころサッカーを始めたのではないだろうか。
香港ラウンドでは登録選手20人全員が試合に出て、多くの可能性を示した。一部の才能に頼るのでなく、たくさんの才能を組み合わせてつくるサッカーはまた香港の人たちを楽しませたに違いない。
いよいよ日本ラウンドが始まる。もっともっと、若い選手たちの才能を見たい。そしてそれを、来年には世界の人たちに見せたい。
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