ことしのお正月は、三重県伊勢市にある実家で迎えた。東京のマンションのベランダから見える小さな空とは違って、実家の屋上にのぼると周囲360度に視野が開ける。東の方角にある伊勢神宮の森が赤く色づき、やがて太陽が現れた。静かに、おだやかに2000年が明けた。
「一年の計は元旦にあり」
ここ4、5年、考えることはひとつだった。ことしもサッカーを続けることができるだろうか。無事一シーズンを戦い抜くことができるだろうか。そのためにはこうしなければ、ああしなければと、自分にいろいろな課題を与えてきた。そして、「ことしもがんばるぞ」と自分をふるいたたせてきたのだ。
サッカーを始めたのは大学1年生のとき、いまから24年前のことだ。最初の4年間は大学のチームでプレーした。1980年、大学卒業と同時にいまのチームをつくった。
ことし、わたしのチームは創立20周年を迎える。
最初は、クラブチームでありながら、大学のチームそのままだった。毎年、卒業生がはいってくれば、延々とチームは続いていく。そう思っていた。しかし、4年で破綻した。卒業したらサッカーをやめてしまう。サッカーを続けてはみたものの、仕事との両立ができずにやめてしまう。あっという間に人数が足りなくなった。
クラブチームとして広く一般に部員を求めたが、グラウンドもなく、監督もコーチもいないようなチームにはいってくる人はいなかった。
サッカーは11人いなければできない。わたしはどうしてもサッカーがやりたかった。そのためにはチームを存続させなければならない。そのころのわたしにとって、サッカーをするための命題は「チームを運営すること」だった。
まず監督探しから始めた。「仕事が忙しいから無理」といわれたのを「アドバイザーとしてでいいから」と強引に頼み込んだ。選手は、ライバルチームを何年も前にやめた人を次つぎと引きずり込んだ。当時は仕事をしながらトップチームでプレーすることはできないという風潮だったのだ。20歳そこそこで選手をやめてしまう人のなんと多かったことか。
わたしは自分の勝手でとにかく選手を集めたかったのだが、一方で、だれでもがサッカーを続けられる環境をつくりたかった。
そんなチームだから、練習は多くて数人、少ないときはひとりということもめずらしくはなかった。試合だけしか来れない人がチームの半数以上だったときもある。それでもチームの目標は一環して「リーグ優勝と全日本選手権出場」を掲げてきた。わたしは少ない人数のときも、よそのチームの練習に参加させてもらいながらも、その目標を励みに意識を高くもち続けた。
10年くらい前から、グラウンドを確保するノウハウを身につけ、週3、4回練習できる環境を整えてきた。それにともなって新しい若い選手がはいってくるようになった。
チームの力も徐々に高くなり、昨年は初めて関東リーグにも参加した。
かつてはわたしのチームを「象の墓場(全盛期を過ぎた選手が終わる場所として選んだ)」と呼ぶ人もいた。しかしいまは、「ゆりかご」であり、「才能を花開かせるところ」でもある。
20年の間には頂点があり、どん底があり、でこぼこ道があり、なだらかなのぼり道があった。わたしはそのすべてを経験できたことをとても幸運に思っている。そのひとつひとつがわたしを「サッカー選手」にしてくれたのだと思う。
ことしの元旦はいろいろな課題を自分に与えるのをやめた。「2000年」「20周年」というだけで新しい命の息吹を感じるからだ。わたしはことしもただひたすらボールを追っていく。中学生や高校生のチームメートと同じボールを。それがわたしのもっている20年間を伝えていく唯一の方法だと信じているからだ。
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