2015年6月1日月曜日

34年後のイタリア戦



なでしこジャパンがワールドカップの開催地カナダに出発した。

4年前にドイツで行われたワールドカップに出発するとき、なでしこジャパンはほとんど大きなニュースにはならなかった。それが、大会期間中に予想を上回る快進撃を続けると、試合毎にテレビで応援する人が増え、決勝のアメリカ戦では奇跡的なねばりで追いつき、PK戦を制し優勝すると、日本中はなでしこジャパンの話題一色になった。

あれから4年。一時期の熱狂は去ったものの、「なでしこ」は日本中のだれもが知る存在となり、女子サッカーも広く認知されるようになった。

今回のワールドカップの壮行試合は5月24日に香川県丸亀市でニュージーランド代表と28日に長野県長野市でイタリア代表と行われ、全国ネットのテレビで生中継された。

2試合とも1−0の勝利。3月にポルトガルで行われたアルガルペ杯の不振から立ち直りの兆しが見えて、ワールドカップに希望がもてる内容だったとメディアは伝えた。

そのなかで少し視点の違う記事が5月28日付日経新聞のコラムにあった。その名も「アナザービュー」。


記事を抜粋すると、
「サッカーのワールドカップに出場する女子日本代表の壮行試合となった28日のイタリア戦。今でこそ立場は逆転したが、代表草創期の1981年9月の親善試合ではイタリアが日本に9−0で勝っている。当時のイタリアは女子サッカーのトップランナーで、このスコアは、なでしこジャパンの最多得点差敗戦記録(タイ)として消えずに残っている。
 どうして当時の力を維持できなかったのか。(後略)」

これはイタリア代表に視点をおいた記事だ。


私はその試合に出場していた。いまでも、あのときのイタリアの選手の高さ、ぶつかってもびくともしない強さ、ボールのスピード、身のこなしの速さをはっきりと思い出すことができる。

なにもかもが違いすぎた。

ただ、それは当然のことだった。私たちは、前年の80年までピッチの広さは正規の半分、ボールは4号球、競技時間は50分(25分ハーフ)、人数は8人制のサッカーをしていた。81年になって、ようやく正規の広さで11人制のリーグ戦が始まった。しかし、まだボールは4号球、競技時間も50分だった。東京、静岡、関西、それぞれの地域でリーグ戦は行われていたが全国リーグはなかった。

イタリア戦に日本代表として呼ばれたが、全員で集まって練習する機会はなかった。東京で選ばれた選手は試合の数週間前から週にいちど集まって練習しただけだ。関西がどのように練習したかは知らない。静岡は清水第八の選手だけだったから、ふだんの練習のままだっただろう。私はその練習ではじめて5号球をけったのだ。

当時はまだアメリカも中国も女子の代表チームを結成していない時代。「ポートピア’81国際女子サッカーフェスティバル」と銘打って開催されたこの大会には、79年度ヨーロッパ選手権優勝のデンマーク、2位のイタリア、3位のイングランドと日本の4チームが参加した。いわば世界のトップ3とまだサッカーという競技を始めたばかりのよちよち歩きの日本の大会だったわけだ。

とりわけ、イタリア代表のエースであるエリザベッタ・ビニョット選手は7年間で200得点を記録するという飛び抜けた存在だった。



週1回の東京の練習会が始まってすぐ、監督から「ビニョットのマークをしてもらう」と言われた。私は自分のチームでのポジションはセンターフォワードだった。当時の代表のなかでは身長は高く、足も速かった。でも、守備のポジションの経験はまったくなかった。

その日から私のスライディングタックルの練習が始まった。

1981年9月9日。その日は雨だった。東京の西が丘競技場。

あこがれのピッチに立ち、未知の世界への挑戦の第一歩だった。でも、ワクワクする余裕はまったくなかった。緊張でカラダはがちがちに固まっていた。前半の40分間は永遠とも思えるほど長く感じられた。

ボールを取りに行けばかわされ、待てば打たれる。ボールを見ているとあっという間にビニョット選手は視界からいなくなった。

ハーフタイムにどんな指示が出されたのか、まったく覚えていない。ただ、肩で息をしながら気持ちは開き直っていた。

後半は、前半の半分くらいの長さに感じた。あいかわらずビニョット選手のお尻を追いかけていたけれど、シュートをみぞおちで受けた場面、シュートの瞬間にカラダごと投げ出してシュートをブロックした場面。私が働けたのは、たったそれだけの瞬間だったかもしれない。でも、世界に数ミリ近づいた瞬間だった。

しかし、翌日の新聞に使われた写真は、私がビニョット選手にタックルを仕掛けているが、ボールはとっくに私のカラダを通り過ぎているという間の抜けたものだった。




世界の中の日本の位置を知ったその日から34年。なでしこジャパンはディフェンディングチャンピオンとしてワールドカップに向けて旅立った。

4年前、世界の頂点に立った日の翌日から、世界から追われる立場になったなでしこジャパン。その日々は、ただ無心に世界のトップをめざしてきた30年間とは違うむずかしさがあったことだろう。

でも、きっといまカナダに向かう機上では、なでしこたちひとりひとりがチャレンジャーとして期待に胸を膨らませているに違いないと私は信じている。

5月28日、なでしこジャパンがイタリア代表と対戦した夜。私は毎週木曜日の夜と同じように、チームの練習に参加していた。チームメートのシュートにタックルにいったが、ボールは私のカラダを抜けてゴールに吸い込まれた。


あれから34年も経つのに、あいかわらずタックルは下手なままだ。




プロフィール


大原智子(おおはら・ともこ)
三重県伊勢市出身。1976年大学入学と同時にサッカーを始め、卒業後はクラブチームFCPAFを創設した。76年からチキンフットボールリーグ、81年にスタートした東京都女子リーグでプレーし、現在もFCPAFで現役。81年から84年まで日本代表。ポジションはMFだが、日本代表ではDF。クラブでも、チームの必要に応じてFW、DFでもプレーした。選手活動のかたわら、ワールドカップは82年スペイン大会、86年メキシコ大会、90年イタリア大会、94年アメリカ大会、98年フランス大会、02年日本/韓国大会、06年ドイツ大会、10年南アフリカ大会、14年ブラジル大会、9大会を観戦している。
著書 『がんばれ、女子サッカー』共著 岩波アクティブ新書
・フリーランス・エディター/ライター
・ハーモニー体操プログラム正指導員、ハーモニー体操エンジンプログラマー



2 件のコメント:

  1. 記念撮影からぴったりマーク!

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  2. 監督から「ひとときも離れるな!」という指示だったので・・・(^^;)

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