1998年9月11日金曜日

第8回 女子サッカー、いまむかし


第8回
女子サッカー、いまむかし


 日本サッカー協会女子委員会から一通の封書が届いた。 
 1981年香港で行われた第4回アジアカップに出場した最初の女子の日本代表から現在に至るまでの、キャップ数(国際Aマッチ出場数)が1以上の日本代表選手の名簿だった。総勢81人の名簿には氏名、当時の所属クラブ、出場数、得点数、初代表試合が記され、同封の調査票に、生年月日、現住所、近況などを記入して送り返すようになっている。

 1970年代から80年代前半にかけての女子サッカーの記録や資料はほとんど残っていない。79年に日本女子サッカー連盟が設立されたが、その後日本サッカー協会の中に組み込まれ、女子委員会、五種委員会、女子委員会と名称が変更になるとともに、事務所も移転し、失われたものも多いようだ。

 日本の女子サッカーは、1989年に初の全国リーグである日本女子サッカーリーグ(94年から愛称「L・リーグ」)をスタートさせた。また日本代表は、91年の第1回FIFA世界選手権(中国)、95年の第2回FIFA世界選手権(スウェーデン)、96年アトランタ・オリンピック(アメリカ)に出場し、その実力が世界レベルにあることを証明してきた。

 しかし、歴史がここから始まったわけではない。
 東京のFCジンナンは78年第2回アジアカップ(チャイニーズ・タイペイ)に日本を代表して参加していたし、関西の神戸FCは80年に香港、82年には中国の上海に遠征していた。クラブチーム単位でアジアとの交流はこの時代に始まっていたのだ。
 神戸FCの清水万帆は小さい体でボールを軽々とけった。右サイドからのセンタリングは正確そのものだった。FCジンナンの石川通子は「女釜本」と呼ばれるほどのスターで、スケールの大きい選手だった。

 80年代前半は日本代表として胸に日の丸をつけて国際大会に出ても、A代表で参加する国が少なかったために、キャップとして数えられずに名前の残らない選手もたくさんいた。

 初期のころの日本代表は、東京、清水、関西の限られた3つの地域から選手を選んでいた。東京はほとんどが社会人、清水は全員が高校生、関西は高校生と大学生という、地域によってサッカーの環境がまったく違うものだった。

 当時、東京の選手は20代なかばだったが、完全に年寄り扱いされていた。同等の力ならば将来性のある若い選手を使うという雰囲気がはっきりとあった。しかし、将来性のあるはずの若い選手たちのほとんどは高校を卒業して社会人になると次々とサッカーをやめていった。残ったのは大学に進学した選手と、一握りの社会人選手だけだった。働きながらサッカーを続けられる環境がなかったのだ。当時の女子サッカー界の未成熟さだった。

 現在はL・リーグがあり、サッカー選手を仕事とすることができたり、サッカーと仕事が両立できるような環境が整えられている。トップレベルの選手はそういう環境を手にすることができる。

 しかし、まだまだ問題はある。選手を終えたあと、どれくらいの人がサッカーに関わっているのだろう。L・リーグを引退した選手のどれくらいがコーチやスタッフとしてチームに残っているのだろう。地域のチームの指導者としてどれくらいの人が活躍しているのだろう。いまきちんと歴史をたどって、記録を残し、これからの課題を見極めなければならないのではないか。

 返送するための調査票に自分の近況を書き込みながら、名簿に書かれている選手たち、名簿以前の選手たちの当時といまに思いをめぐらせた。

1998年8月28日金曜日

第6回 夏がくれば思い出す


 合宿所のメッカといえば千葉県にある東京大学検見川(けみがわ)グラウンドだった。サッカーグラウンドが5、6面あり、お世辞にもきれいとはいえない宿泊施設がついている。テレビもない、もちろんクーラーなんかない、ざこ寝の部屋だ。本来は東京大学の学生のための施設だが、一般にも貸し出されている。なんといっても当時は、日本代表をはじめとする各年代の代表も、合宿といえば検見川だった。

 代表など特別なチームが使用する芝生のグラウンドが1面あったが、わたしたちが使えるのは固い土のグラウンド。クロスカントリーの練習場にもなる、だだっぴろい敷地にグラウンドが点在し、夏の照りつける日差しをさえぎる木陰もほとんどなく、飲料用の水道もない。練習前に、食堂で大きなやかんを1個借りて、冷水機の水を入れてグラウンドに出た。

 特別にきびしいクラブではなかったし、練習中に水を飲んではいけないということはなかったが、休憩時にコップに一杯飲むか、うがいをする程度だった。たくさん水を飲むとよけいに疲れるとか、がまんすることで精神力が鍛えられるといった暗黙の空気があったのだ。給水の重要性はなんとなくわかってはいたが、どれくらい飲めばいいのかという具体的な知識がまだなかった時代だった。

 炎天下で土ぼこりにまみれて、水もろくに飲まないで練習した。脱水症状で倒れる子もいた。それが夏合宿というものだった。つらく苦しい夏合宿を乗り切れば、秋の試合には体が動くし、うまくなっている、そう信じてがんばっていた。しかし、夏合宿を最後に練習に姿を見せなくなった子もいた。やめないまでも、合宿になるとサッカーをやめたくなるという子は何人もいた。

 わたしはけっして「練習ぎらい」ではない。むしろ「練習好き」である。単調な練習でも、きつい練習でも「サッカーがうまくなる」と思えば、先頭に立って喜んでやった。そんなわたしでさえ、夏の検見川は、練習に出る足が重かった。

 検見川で合宿することはサッカー選手である証のように思っていた。そこでやり遂げることは、すばらしい充実感もあったし、自信にもなった。でも、サッカーがきらいになってしまっては何もならない。

 いま、わたしが合宿所を選ぶときの第1の条件はきれいな芝生のグラウンドがあるということだ。芝生だと、キックなどの技術的な練習はもちろん、戦術の練習も効果的にできるし、練習の成果が表れやすい。それに、なによりグラウンドに出ることが楽しくなる。練習に意欲的に取り組めることはとても大切なことだ。

 給水の重要性はいまや常識となっている。わたしたちは1回の練習に1人あたり1リットル以上のスポーツドリンクと吸収の速い特別のお茶を非常に冷えた状態で用意している。のどが渇く前に適切なタイミングで給水することは、言うほど簡単にはいかないが、飲むことの意識づけをすることによって、かなりコンディションよく練習ができていると思う。

 いま、わたしのチームでは合宿は楽しいものになった。短い期間だが、仲間といっしょに寝食を共にし、一日中サッカーできることが純粋にうれしいのだ。しかし、いちばんの理由は「真夏に合宿をやらない」ことにあるのかもしれない。

1998年8月14日金曜日

第5回 ボールにはちょっとうるさい


第5回
ボールにはちょっとうるさい


 ワールドカップの楽しみのひとつにボールがある。最近の大会では毎回新しく改良されたボールがデビューするのだ。

 最初の衝撃は78年のアルゼンチン大会で使用された「タンゴ」というボールだ。アルゼンチンだから「タンゴ」と、ネーミングもインパクトが強かった。デザインが画期的で、その後の86年「アステカ」、90年「エトルスコ」、94年「クエストラ」、98年「トリコロール」の基本となっている。

 毎回、新しく出たボールを初めてけるときは期待に胸をふくらませるが、98年版「トリコロール」は驚くほど軽かった。

 わたしがサッカーを始めたころ、女子の公式球は4号サイズの貼りボールと決められていた。わたしのチームは大学にはいって初めてボールをけるという者ばかりだったので、4号球でさえ思うようにけることができなかった。足の指の爪を血豆で真っ黒にしてしまうこともめずらしくなかった。

 当時の東京のリーグは20歳前後の選手がほとんどで、それはその年齢からサッカーを始めたことを意味していた。グラウンドの広さも正規の半分、人数も8人、試合時間も40分(20分ハーフ)。わたしに与えられたサッカーというものは、「ひとまわり小さい世界」だった。

 同じころ、静岡県清水市に驚異の小学生がいた。後に長い間日本代表としてプレーし、日本の女子サッカーをひっぱってきた本田美登里、木岡二葉、半田悦子たちだ。体は細くて小さくて小学生そのものだが、ボールをける姿は一人前のサッカー選手なのだ。大人の体をもつわたしたちが満足にけれないボールを、いとも簡単にける彼女たちを見てショックを受けた。「ボールをけることは力ではない。技術である」。

 初めて5号球をけったのは、1981年。西が丘サッカー場でのイタリア代表との国際親善試合だった。初めての5号球、初めての80分(40分ハーフ)ゲーム。力の差は歴然としており、結果は0-9と惨敗だったけれど、ようやく本当のサッカーの世界へ足を踏み入れた気がした。85年には、東京都リーグでも4号球から5号球に切り替えられた。

 5号球で練習してみると、インステップにちゃんと当たれば4号球よりはるかに強く、遠くにキックできる。トラップもドリブルもボールが大きいほうがやりやすい。慣れるのに時間はかからなかった。きちんとした技術を身につけるには、はじめから5号球を使ったほうがよかったと思う。

 わたしはボールにはちょっとうるさい。練習のときにもボールの空気がちゃんとはいっていないと気がすまない。ボールが柔らかいと、適当にけってもボールはある程度飛んでしまうし、固すぎると足にインパクトする感じが得られない。正しい空気圧が、正しいインパクトを教えてくれると思うのだ。

 「トリコロール」は評判どおりとても軽くて、けりやすい。ワールドカップでジダンやロベルトカルロスが同じボールをけっていたなんて、不思議な気持ちだ。
 もしかしたら、最新技術を駆使したこのボールは、だれでもジダンやロベルトカルロスにしてしまうのかも。なんて。

1998年7月24日金曜日

第4回 ワールドカップが終わった


 82年スペイン、86年メキシコ、90年イタリア、94年アメリカに続いて今回のフランス。わたしにとって5回目のワールドカップが終わった。

 スペインは旅行費用全額を兄から借金して出かけた貧乏旅行だった。メキシコでは開幕戦から決勝戦まで30日間で23試合を見た。イタリアへは仕事をやめて行った。アメリカは仕事をやりくりして、自分の公式戦の日程の合間をぬってなんとか行くことができた。

 ワールドカップというものはよその国を応援することにほかならなかった。
 アイドルはミシェル・プラティニ。82年、86年はフランス代表のユニホームを身につけ、フランスを応援した。82年の準決勝、西ドイツ-フランス戦、86年の準々決勝、ブラジル-フランス戦は強烈な印象として残っている。プラティニがいなくなってからは、わたしにとっての特別な選手が現れず、イタリアではアズーリのユニホームを着て、アメリカでは星条旗をイメージした赤と白のユニホームで開催国を応援した。

 まわりの観客といっしょに「トト・スキラッチ!」と声を合わせたイタリア大会準決勝、アルゼンチン-イタリア戦。アメリカ大会決勝トーナメント1回戦、ブラジル-アメリカ戦では、強豪ブラジルに対して「USA! USA!」と8万人以上の観客が大合唱し、選手と一体となって戦ったサンフランシスコ・スタンフォードスタジアム。世界のトップレベルの試合を見れることはもちろんだが、これがワールドカップの楽しさだとずっと思っていた。

今回のフランス大会はいままで4回とはまったく違うワールドカップだった。自分たちの代表といっしょに来ることがこんなに誇らしくうれしいこととは・・・。想像をはるかに超えていた。自分たちの代表のユニホームを着て、自分たちの国歌を聞ける喜び。それだけではない。世界の舞台で日本が認知されたという実感が得られたことがなによりうれしかった。

 フランス人の観客が日本人のサポーターに合わせて「ソーマ! ソーマ!」と声援を送ったり、アルゼンチンやクロアチアのサポーターたちは試合のあと、あきらかにわたしたちを見る目が変わっており、がっちりとかわした握手に「お互いよくやったな」という気持ちが感じられた。

 日本戦以外の試合の会場で、声をかけられることも少なくなかった。「日本人か?」と聞かれて「そうだ」と答えると、親指を立てて「いいチームだ」といってくれたりする。「ナカタ」といって肩をたたいていく人もいた。

 結果は日本は3試合で1勝もできなかった。勝ち点をあげることもできなかった。実際、ジャマイカ戦の試合終了後、わたしは力が抜けてしばらく立ち上がれないほど残念だった。しかし、結果として、数字として表れないものをわたしたちは見た。一人ひとりの選手がどのように戦っていたかを自分たちの目で見た。誰がなんと言おうと日本代表は立派に世界デビューを果たしたのだ。

 大会の終盤に日本代表のことを話題にした人はいなかったかもしれない。しかし、イタリアのセリエAでプレーする中田を見て、これからヨーロッパや南米に遠征する日本代表を見て、世界の人々はきっと思い出すだろう。フランスで戦っていた彼らの姿を。

 7月13日、午前4時。わたしは自宅のテレビの前に座っていた。正直にいうとフランス代表のユニホームを着て見ていた。かつてのアイドルがもう似合わなくなってしまったユニホームを着ているのを、なつかしく眺めながら、ともに優勝を喜んだ。

 4年後、わたしの6回目のワールドカップは、世界中のサッカーファンを迎えるというまた違ったワールドカップになりそうだ。
 こんどは大会の最後の日まで日本代表のユニホームを着ていられるような大会であってほしい。