1999年2月12日金曜日

第16回 どんな環境でも、前を向いて

 今週の「サッカーマガジン」では、高校や大学を卒業した新加入選手や新しいチームに移籍した選手たちが表紙やグラビアを飾っている。慣れないユニホームを着て、ちょっと照れながら、しかし希望に満ちた目をしたその姿は、Jリーグの新シーズンを大いに期待させる。

 しかしその一方で、新シーズンをよりきびしい状況で迎えなければならない選手もいる。マリノスとフリューゲルスの合併やベルマーレなどの大量放出により、例年より多くの選手が移籍し、活動の舞台をJリーグから新しいJ2へ、JFLから地域リーグへと変えざるをえなくなっている。

 L・リーグはもっときびしい状況だ。98年のL・リーグの途中で日興證券とフジタが撤退を発表した。L・リーグはリーグ終了後の理事会で99年からは外国人選手を登録しないなど、規模を縮小して8チームでやっていくことを話し合った。しかし、1月に全日本選手権が終わったとたん、シロキと鈴与清水が次つぎと撤退を発表した。

 鈴与清水は1月18日にシーズンの納会を行い、新しい監督、コーチを発表し、来季へのスタートをきっていたそうだ。撤退の発表は、そのわずか4日後の1月22日のことだった。

 L・リーグは、1989年に初の全国リーグ、日本女子サッカーリーグとして発足した。

 80年代の女子サッカー界をリードしたのは清水第八だった。唯一の全国レベルの大会であった全日本選手権では81年から87年まで7連覇を達成していた。そして80年代後半には、東京の読売ベレーザが急速に力をつけていた。しかし年にいちどの大会ではレベルアップも限りがある。だれもが全国リーグが必要だと感じていた。

 1988年わたしのチームは東京都1部の上位リーグを戦っていた。東京都1部リーグは8チームのうち上位4チーム、下位4チームに分かれて2回戦総当たりを行っていた。そして89年のある日突然、上位リーグ4チームのうち読売ベレーザ、日産レディース、FC小平の3チームが日本リーグへ行ってしまった。当時の混乱ぶりは、その3チームが89年には東京都リーグと日本リーグの両方に参加していたこと、いっしょに戦っていたわたしのチームには日本リーグから何の話もなかったことなどに表れている。

 清水においては、圧倒的な強さを誇っていた清水第八の主力選手がごっそりと清水FCに移籍、後日の清水エスパルスとまったく同じ経過で清水FCが日本リーグに参加することになった。

 関西では全日本選手権で89年準優勝、90年優勝の強豪・高槻女子は結局日本リーグにははいらず解散し、歴史と実力を兼ねそろえた神戸FCと、歴史はあるが全国的にはまったく無名の伊賀上野くノ一が参加した。

 強権を発動したり、かなりの無理をして6チームで始まった日本リーグだが、各チームがスポンサーのバックアップのもと、ワールドクラスの外国人選手を補強し、チームも10まで増え、この10年間で世界でもトップレベルのリーグになった。個々の選手が世界の名だたる選手と練習したり、対戦したりすることによって、急速にレベルアップし、日本代表の強化に果たした役割はいうまでもない。

 リーグのレベルが上がり、規模が大きくなるとともに膨れ上がった経費は1チームあたり年間数億ともいわれ、それが今回の4チーム撤退につながることになった。来季もリーグを存続させるためには、大幅な規模の縮小を余儀なくされ、そのひとつとして各チームが外国人選手を登録しないことを申し合わせたのだ。

 「これは日本代表強化の危機だ」
 日本代表の宮内監督はテレビでこう語った。
 しかし、わたしは必ずしもそうは思わない。

 何人かの選手はより高いレベルを求めて外国へ飛び出すかもしれない。外国リーグでプレーが経験できれば、単に技術の向上だけでなく、サッカー選手としての幅を広げることになると思う。

 たしかに、多くの選手はいままでより悪い環境でサッカーをしなければならなくなる。しかしそれはマイナス面ばかりではない。いままで当然のように与えられていたサッカーへの時間と好環境。しかし、これからそれを苦労してつくり出さなければならなくなったとき、その時間がいとおしく大切に思えるはずだ。いままで以上に集中してサッカーに取り組むようになるのではないだろうか。

 そうできるかどうかで、サッカー選手としての本当の価値が決まる。ここでしっかり踏みとどまって根づいくことができれば、日本代表はいままでにない強さをもつことになるはずだ。

 ことしは日本サッカー変革の年といわれる。凋落の一歩になるか、飛躍の一歩になるか。それはわたしたち選手一人ひとりにかかっていると思う。

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