シドニー・オリンピックが閉幕した。開会式に勝るとも劣らぬ派手な演出の閉会式は、スタジアムは満員、視聴率も高かったらしい。オリンピック好きは、なにも日本人だけではないようだ。そのオリンピックで金メダルをとるようなことにでもなれば、一躍アイドルになってしまうのも仕方ないことだろう。
わたしは、どのメダルをどの国の選手がどれだけとったかなど、まったく興味がない。いろいろな競技のオリンピックならではの高いレベルのプレー、ふだんはマイナーでオリンピックでしか見ることのできない競技などがわたしの興味の対象だ。しかし、メダルの期待の高い競技がテレビ放送も多く、そうでない競技はあまり放送されない。おのずと期待の日本選手を応援することになる。結局は、典型的なオリンピック好き日本人になってしまうのだ。
なかでも、女子マラソンの高橋尚子選手の優勝には圧倒された。オリンピック前から金メダル最有力と目され、合宿地にもマスコミが押し寄せた。プレッシャーはいかほどだっただろう。しかし、レースが始まると最初から最後まで、見るものに不安を感じさせることなくゴールのテープを切った。いままで国際舞台でこんなに安定感のある強さを見せた日本人がいただろうか。
マラソン競技というのは過酷なスポーツだ。市民ランナーならともかく、1年に何度も競技会に出られるものではない。オリンピックに出るような選手、たとえば有森裕子選手などは4年間で2度しかマラソンを走らないのではないかとさえ思えた。いちどはオリンピックに出るための選考レース、もういちどはオリンピックという具合だ。
それはマラソン競技というより「オリンピック」という競技があるのではないかと思えるほどだ。それほどオリンピックという大会には意味があるのだろう。そのオリンピックで勝つためには、多くのスタッフのもと科学的なトレーニングを受け、最新の用具を身につけ、万全の準備に時間を費やす。そしてレースですべてを使い切るのだ。すべてを使い切ったあとに残るのは、達成感かもしれないし喪失感かもしれない。とにかくしばらくは何も考えられないように見えたものだ。
「42キロを楽しむことができました」
高橋選手がレース直後のインタビューに答えた言葉だ。走り終わったあと、しかも勝ったレースのあとには、どんなかっこいい言葉もいえる。あまのじゃくなわたしは、過酷な42.195キロのレースはつらいに決まっているじゃないかと思っていた。
「次のオリンピックのことはわかりませんが、次に出るレースでは世界最高タイムをねらいたいと思います」
レースの翌日のインタビューでは、はっきりと次の目標を口にした。
「あんなに走るのが好きな子はいままで見たことがない」
「とにかく走るのが好きなんですね」
監督や専属のコーチたちが口ぐちに高橋選手のことをこう評した。高橋選手の強さの本質を見た思いがした。きれいごとでもなんでもなく、レースを心から楽しみ、走ることが本当に好きなのだ。
だれでも最初は「おもしろく」、「楽しく」、「好き」だからスポーツを始める。しかし、強くなればなるほど、それを見失ってしまうことも多い。
日本の女子サッカーはアトランタ・オリンピックには参加したが、シドニーには出場することができなかった。それは、この4年間で女子サッカーを取り巻く環境が大きく変化したからだといわれている。企業のLリーグからの撤退、外国人選手の登録禁止などで、トップレベルの選手が大量にやめてしまい、リーグのレベルが落ちてしまったのだ。
これからの女子サッカーはどうしていくべきなのか。どうあるべきなのか。そのヒントは、高橋尚子選手が教えてくれているような気がしてならない。
わたしは、どのメダルをどの国の選手がどれだけとったかなど、まったく興味がない。いろいろな競技のオリンピックならではの高いレベルのプレー、ふだんはマイナーでオリンピックでしか見ることのできない競技などがわたしの興味の対象だ。しかし、メダルの期待の高い競技がテレビ放送も多く、そうでない競技はあまり放送されない。おのずと期待の日本選手を応援することになる。結局は、典型的なオリンピック好き日本人になってしまうのだ。
なかでも、女子マラソンの高橋尚子選手の優勝には圧倒された。オリンピック前から金メダル最有力と目され、合宿地にもマスコミが押し寄せた。プレッシャーはいかほどだっただろう。しかし、レースが始まると最初から最後まで、見るものに不安を感じさせることなくゴールのテープを切った。いままで国際舞台でこんなに安定感のある強さを見せた日本人がいただろうか。
マラソン競技というのは過酷なスポーツだ。市民ランナーならともかく、1年に何度も競技会に出られるものではない。オリンピックに出るような選手、たとえば有森裕子選手などは4年間で2度しかマラソンを走らないのではないかとさえ思えた。いちどはオリンピックに出るための選考レース、もういちどはオリンピックという具合だ。
それはマラソン競技というより「オリンピック」という競技があるのではないかと思えるほどだ。それほどオリンピックという大会には意味があるのだろう。そのオリンピックで勝つためには、多くのスタッフのもと科学的なトレーニングを受け、最新の用具を身につけ、万全の準備に時間を費やす。そしてレースですべてを使い切るのだ。すべてを使い切ったあとに残るのは、達成感かもしれないし喪失感かもしれない。とにかくしばらくは何も考えられないように見えたものだ。
「42キロを楽しむことができました」
高橋選手がレース直後のインタビューに答えた言葉だ。走り終わったあと、しかも勝ったレースのあとには、どんなかっこいい言葉もいえる。あまのじゃくなわたしは、過酷な42.195キロのレースはつらいに決まっているじゃないかと思っていた。
「次のオリンピックのことはわかりませんが、次に出るレースでは世界最高タイムをねらいたいと思います」
レースの翌日のインタビューでは、はっきりと次の目標を口にした。
「あんなに走るのが好きな子はいままで見たことがない」
「とにかく走るのが好きなんですね」
監督や専属のコーチたちが口ぐちに高橋選手のことをこう評した。高橋選手の強さの本質を見た思いがした。きれいごとでもなんでもなく、レースを心から楽しみ、走ることが本当に好きなのだ。
だれでも最初は「おもしろく」、「楽しく」、「好き」だからスポーツを始める。しかし、強くなればなるほど、それを見失ってしまうことも多い。
日本の女子サッカーはアトランタ・オリンピックには参加したが、シドニーには出場することができなかった。それは、この4年間で女子サッカーを取り巻く環境が大きく変化したからだといわれている。企業のLリーグからの撤退、外国人選手の登録禁止などで、トップレベルの選手が大量にやめてしまい、リーグのレベルが落ちてしまったのだ。
これからの女子サッカーはどうしていくべきなのか。どうあるべきなのか。そのヒントは、高橋尚子選手が教えてくれているような気がしてならない。
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