ワールドカップ・ブラジル大会の開幕が9日後に迫ってきた。
最後の調整試合のひとつであるコスタリカ戦も3−1と勝利した。ホントに、ホントに、すぐそこまで近づいている。
日本代表は、ブラジルの地でどんな戦いを見せてくれるのだろう。その期待は日に日にふくらんでいく。
本当にブラジルでワールドカップが開催されるんだ。日本からは1万人もの人が地球の裏側にある国に足を運ぶという。あの広大な地で転々と散在する都市に、それだけの人たちが訪れるのだ。
私がはじめてワールドカップに行ったのは、1982年スペイン大会のことだ。
1976年、大学入学と同時にサッカーを始めた。まだまだサッカーを競技としてプレーする女子選手があまりいなかった時代。サッカーという競技はもちろん知っていたけれど、それが世界中の人たちを熱狂させるものだということはよく知らなかった。
同年代の男性のサッカー仲間たちの(テレビ観戦での)ワールドカップデビューは、1974年の西ドイツ大会の場合が多い。クライフやオランダのトータルフットボール、ベッケンバウアーなど、後年、そのプレーに夢中になったが、当時はまったく知らなかった。陸上競技の選手として高校時代を過ごした伊勢の地で、毎日毎日トラックを走っていた。
私がワールドカップというものを知ったのは78年のアルゼンチン大会。テレビに映るスタジアムがうねるように揺れて、スタジアム全体が紙吹雪で覆い尽くされている画面に鳥肌がたった。
大学の先輩が「あれがワールドカップというものなんだ。『ワールドカップ』っていえばサッカーのこと。オリンピックなんかよりすごい大会なんだよ」と教えてくれた。
そして、先輩たちが「次の大会は行くからね」と言った。
そして、先輩たちが「次の大会は行くからね」と言った。
「えっ!? 先輩たち行くんですか? 次はどこであるんですか?」
「スペインだよ」
4年後のことを、目を輝かせながら先輩たちは語った。すでに就職していた先輩たちは、4年後にどうやって1カ月間休みを取るかも考えているようだった。
「私も行きたい!」
そのときは、ただ漠然とそう思った。
サッカーのしろうとだった私は、プレーをひとつひとつ覚えていくのと同じように、国立競技場で行われる国際試合に胸をときめかせるだけでなく、日本リーグだろうが、大学リーグだろうが、河川敷でやっている草サッカーであろうが、時間があればどんな試合でも見に行った。サッカー雑誌を読みあさった。テレビ番組に「サッカー」の文字を見つけるとマークをつけて必ず見た。数少ない情報をひとつ残らず漏らさないようにとしていたように思う。
そのなかで、サッカーがどれだけ魅力のあるものなのか、世界の人々をどれだけ惹き付けるものなのかを知るようになっていった。
「次は行く。スペインに行く!!」と呪文のように唱えるようになったのだ。
大学を卒業してもサッカーから離れたくないために東京に残ったはいいが、定職につけずアルバイトで生活していた私が、経済的な根拠もまったくない中で、「82年はスペインに行く!」と言い続けた。
ことあるごとに「サッカー、サッカー!!」と言い続けていたら、サッカー専門誌の編集部の方の目に止まり、編集部への出入りが許されるようになった。
ことあるごとに「サッカー、サッカー!!」と言い続けていたら、サッカー専門誌の編集部の方の目に止まり、編集部への出入りが許されるようになった。
私のサッカー人生の幸運は、節目節目で大きな出会いに恵まれてきたことだ。
あれよあれよという間に、スペイン行きが目の前に現実のものとして現れた。資金は兄に頼み込んで借金した。
当時は、まだワールドカップへ行く人は少なかった。サッカー専門誌2誌がツアーを企画していて、それがほとんどだったのではないか。
そのなかに、4年前に夢のように語っていた先輩2人、私と同期が1人、後輩1人がいたのだ。
そこで見たものは、まだ若く精神的に未熟だったマラドーナ、プラティニ率いるフランスのシャンパンサッカー、ジーコ、ソクラテス、トニーニョ・セレーゾ、ファルカンの織りなすブラジルサッカーだけではなかった。
世界のあらゆる国から、この祭典を見るために集まった人びとが、ひとつひとつのプレーに歓声をあげ、スタジアムを揺らし、そこで出会った人たちがサッカーで大きく繋がっていった。そして、そのまっただ中に自分がいた。
もうそこからは逃れられなかった。
もうそこからは逃れられなかった。
スペイン、メキシコ、イタリア、アメリカ、フランス、日本/韓国、ドイツ、南アフリカと何かに誘われるように出かけて行った。
どこの国で開催されるワールドカップに行っても、そこでの主役はブラジルだった。黄色いユニホームを着たファンやサポーターたちが、その国を埋め尽くしていた。
今度は、そのブラジルへ乗り込んで行くのだ。
ワールドカップへ行くことが夢だった。日本代表がその地で戦い、それを応援することが夢だった。ひとつひとつ夢が現実になっていった。
夢にまで見たサッカーの王国ブラジルに行く。
そして、そこで日本代表がワールドカップを掲げる姿を見るのも、もはや夢ではなくなるのかもしれない。
プロフィール
大原智子(おおはら・ともこ)
三重県伊勢市出身。1976年大学入学と同時にサッカーを始め、卒業後はクラブチームFCPAFを創設した。76年からチキンフットボールリーグ、81年にスタートした東京都女子リーグでプレーし、現在もFCPAFで現役。81年から84年まで日本代表。ポジションはMFだが、日本代表ではDF。クラブでも、チームの必要に応じてFW、DFでもプレーした。選手活動のかたわら、ワールドカップは82年スペイン大会、86年メキシコ大会、90年イタリア大会、94年アメリカ大会、98年フランス大会、02年日本/韓国大会、06年ドイツ大会、10年南アフリカ大会、8大会を観戦している。
三重県伊勢市出身。1976年大学入学と同時にサッカーを始め、卒業後はクラブチームFCPAFを創設した。76年からチキンフットボールリーグ、81年にスタートした東京都女子リーグでプレーし、現在もFCPAFで現役。81年から84年まで日本代表。ポジションはMFだが、日本代表ではDF。クラブでも、チームの必要に応じてFW、DFでもプレーした。選手活動のかたわら、ワールドカップは82年スペイン大会、86年メキシコ大会、90年イタリア大会、94年アメリカ大会、98年フランス大会、02年日本/韓国大会、06年ドイツ大会、10年南アフリカ大会、8大会を観戦している。
著書 『がんばれ、女子サッカー』共著 岩波アクティブ新書
・フリーランス・エディター/ライター
・フリーランス・エディター/ライター
・ハーモニー体操プログラム正指導員、ハーモニー体操エンジンプログラマー
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