2000年8月25日金曜日

第50回 20年の歩み


 8月のお盆明けの土曜日、東京近郊にある芝生のグラウンドに60人以上が集まった。クラブ創立20周年を祝うためだ。わたしの所属クラブであるFC PAFは、1980年4月に実践女子大学サッカー同好会の卒業生によってつくられた。わたしは、創立メンバーのひとりである。

 全国的にみても、20年以上の歴史をもつ女子チームは多くない。FC PAFは女子サッカーの歴史とともに歩んできたといっても過言ではないだろう。

 唯一の創立メンバーの生き残りであるわたしは、ことしの春先にこの20周年イベントを提案し、徐々に準備をしてきた。チームに在籍した全員に案内状を送りたいと思い、昔の資料を探し始めたが、簡単な作業ではなかった。記憶だけが頼りだった。

 最初の3年間は大学の卒業生だけだったので、大学の資料を参考にした。しかし、そのあとがたいへんだった。それは、チームとしての危機の時期でもあった。

 毎年、仕事の都合や結婚、出産などでチームを離れるメンバーがつぎつぎと出るなか、4年目からは大学の卒業生がほとんどはいってこなくなった。最初からぎりぎりの人数で活動していたので、あっという間にメンバー不足になった。

 卒業生に限らず、広くメンバーを募ったが、グラウンドもなく、監督、コーチもいないようなチームになど、なかなかはいってくる人はいなかった。当時、わたしは活発な女性とみるとだれかれかまわず「サッカーやりませんか」と声をかけた。「自衛隊の勧誘じゃないんだから」と、いわれたこともあったが、なりふりかまっている場合ではなかった。

 公式戦に11人そろわないこともあった。試合の前日に電話をかけまくって、とにかく人数を集めることがいちばん大切な仕事だった。同じ大学の卒業生という仲良しグループから、練習や試合のときだけに会うチームメートへ変化していく時期だった。

 そんななかでチームをやっていくことのむずかしさを痛感するとともに、このままではいけないと強く思っていた。「ただいっしょにボールをける場所」ではなく、「自分のチーム」と思えることが必要だった。

 わたしは、毎月のニュースをつくって、一人ひとりに送ることにした。その月の予定と前月の活動状況や試合結果を中心に、チームの具体的な目標「全日本選手権出場をめざす」をつねに掲げ、そのために何が必要か、一人ひとりの役割やチームの規律を伝えようとしてきた。

 徐々にではあるが、住む場所も生活の環境も年齢もまったく違うチームメート同士がお互いを理解し合うようになり、自分はチームの一員であるという意識が生まれた。

 わたしのチームが最初の10年間でようやくクラブの土台を築いていたころ、女子サッカー界は劇的な変化をとげていた。チーム数は飛躍的に伸び、1989年には全国リーグである日本女子サッカーリーグ(Lリーグ)が始まった。Lリーグは世界中から一流選手が来てプレーし、世界最強リーグともいわれた。そのなかでレベルアップした日本選手は、91年、95年、99年ワールドカップ、96年アトランタ・オリンピックの出場を果たした。

 しかし、ここ数年は登録チーム数も減少の傾向がみられる。そして、企業の撤退によりLリーグの存続が危ぶまれ、大幅に縮小したかたちでようやく2000年のLリーグが開催されている。

 11年前、東京都リーグでともに戦いライバルだった3チームが、突然できた日本リーグに何の説明もなしに移っていってしまった。そのときの驚きと、置いてきぼりをくったという落胆の気持ちはいまも忘れない。しかしその後、そのうちの2チームが親会社の都合によってつぶされてしまった。

 わたしたちは、20年間だれの援助も受けず自分たちの力でチームを運営してきた。シーズンのはじめに「全日本選手権出場と東京都リーグ優勝(1999/2000シーズンは関東リーグ)」を目標として掲げ、毎試合の結果に一喜一憂しながら、シーズンを終える。一見、何の進歩もない毎年の繰り返しにように思えるが、それが実はかけがえのないことなのだ。

説明: C:\Users\Tsuyoshi\Documents\user\智子\ボールと昼寝\No50.files\b50-2.jpg 20周年はひとつの通過点にすぎない。しかし、わたしたちは20年というクラブ歴史を手にしているのだ。これは、だれもが突然に手に入れることができるものではない。

 94年から97年までPAFでプレーし、3年前にアメリカに帰国したケイが、この日のためにわざわざ休暇をとって日本を訪れるなんて、だれが想像しただろう。

 当日集まった60数人が多いのか少ないのか、わたしにはわからない。ただ、現役選手、OG、その夫や子どもたち、そして監督、コーチ、参加したそれぞれが、FC PAFという大きな家族の一員であるということを実感できたしあわせな一日だった。

2000年8月18日金曜日

第49回 貧血は克服できる


 お盆休みを利用して三重県伊勢市にある実家に帰った。伊勢市は伊勢神宮と赤福で有名な地方観光都市だ。と思っているのは、地元出身者だけのようで、東京では「どこ、それ?」、「赤福って、大阪の名物だよね」である。大学時代には「田舎に帰るの?」といわれて、ムッとしたものだ。東京の人には、東京以外はみんな田舎らしい。わたしにとって、田舎とは田園風景が広がる場所なのだが。

 しかし久しぶりに夏に帰ると、昼間の気温は東京と変わらないのに朝晩は気温が下がり過ごしやすい。虫の声を聞きながら眠り、せみの鳴き声で目覚める生活は、やはり「田舎」なのかもしれない。

「おっ、拒食児童がめし食ってる」
 朝からもりもり食べるわたしを見て、やはり横浜から来ていた20数年ぶりに会う従兄が不思議そうに言った。高校時代のわたしは、夏になるととたんに食欲が落ち、ごはんをひと粒ずつ口に運ぶような状態だったらしい。そういえば陸上部の練習の最中に倒れて病院に運ばれたこともあったっけ。

 考えてみると、夏に体重が落ちなくなったのは、ここ数年のことだ。それは、わたしの貧血とのつきあいの歴史と大きくかかわっていることに気づかされる。

 長い間、わたしは貧血を病気とは思っていなかった。一種のよくある体質くらいに考えていた。年に数回、練習のあと過呼吸になったり、帰りの駅のホームでめまいと過呼吸でうずくまったりしたが、どれも10数分でおさまった。帰って寝たら、翌日には何事もなかったように元気になっていた。

 10年ほど前、体調が徐々に悪くなるのを感じていた。最初は疲れがとれにくくなったと感じ、だんだん動悸や息切れがひどくなっていた。ちょうど30歳を過ぎたころだったので、まず年齢のせいだと思った。しかし、駅の階段を昇るのに肩で息をしているのはわたしだけで、お年寄りが平気な顔でわたしの横を昇っていく。さすがに変だと思い、これは深刻な循環器系の病気だと、ようやく病院に出かけた。

「いちどにこの数値になったら、意識を失っていますよ」
 極度の鉄欠乏性貧血でヘモグロビンの量がふつうの人の半分以下しかなかった。長い時間をかけて失われていったので、体が徐々に慣れてかろうじて生活ができていたのだろう。練習も試合もふつうにやっていたなんて、いま考えると信じられない。

 近所の医者に紹介されて、総合病院の「貧血の権威」といわれる医者の診察を受けた。原因を探るために、胃や腸の検査もした。わたしがスポーツとの因果関係を聞くと、「それはない」と断言した。原因はわからないまま、薬を3カ月も飲み続けると、もとどおり元気になった。

 しかし、4年前にまた兆候が表れた。こんどは年齢とも循環器系の病気とも思わなかった。当時、「スポーツ選手に多い貧血」というテーマの雑誌の記事(*)を読み、強く感じるものがあった。それには、トップアスリートの多くに貧血が認められること、そしてその原因について詳しく書かれていた。それは、ずっとわたしが知りたいと思っていたことだった。わたしは迷わずその記事を書いた医師を訪ねた。

「わたしはサッカー選手であるあなたをサポートします。いつでも相談にいらっしゃい」
 Jリーグのクラブをはじめ、大学のラグビー部、野球部、陸上部など多くのチームのドクターであり、有名なプロスポーツ選手のアドバイザーでもあるその先生は、最初の診察に訪れたわたしにそう言った。この出会いがわたしのなかに大きな変革をもたらした。

 検査の数値が低ければ、薬の力を借りるしかない。しかし、薬で正常値に戻した体を維持するのは、食事であり栄養だ。わたしは食事に対する態度をがらりと変えた。

 うちでとる唯一の食事である朝食に重きを置くようになった。ごはんを炊き、みそ汁の具になるべく多くの野菜を入れ、海苔、しらす、納豆を食べる。それにオレンジジュースだ。昼食、夕食は弁当や外食だが、かぼちゃやブロッコリーを意識的にとるようにし、ビタミン剤なども補給する。練習後はすぐにオレンジジュースやアミノ酸をとり、疲れをなるべく残さないように気をつけている。

 気がついてみると、ここ数年体重は安定し、夏バテ知らずだ。定期的に貧血の検査も受けているが、数値に変化はない。この7月に行われた大会でも、真昼の炎天下の試合が続いたが、暑さでまいるということはなかった。

 わたしは気がつくのが遅かったので、長い間貧血とつきあわなければならなかった。その間にもっとサッカーがうまくなれたのにと思うとくやしい。貧血はつきあうものではなく、克服すべきものだ。しっかり取り組めば、必ず克服できる。そして、克服してしまえばサッカーがより楽しくできるのだ。

 若い選手には、できるだけ早く医者に行って検査することを勧めている。そして食事がいかに大事であるかということも、ことあるごとに伝えている。なかなか、みんながみんな自分のこととして受け入れてくれないのが残念でならないのだが。

 東京は残暑がきびしい。虫の声を聞きながら眠ることもかなわない。しかし、わたしはきょうも気持ちよく目覚め、汗をかきながら納豆をねり、元気のみなもとである朝食の準備をするのだ。


*ベースボール・マガジン社「サッカークリニック」1994年11月号から1996年6月号まで連載された「勝つためのスポーツ医学・栄養学」より、1996年4月号連載18「スポーツ選手に多い貧血」。

2000年7月14日金曜日

第48回 「階段」をのぼろう


 梅雨は明けたのだろうか。7月にはいってからの東京は、連日30度を超す猛暑、連夜の雷をともなう嵐のような夕立、大きな台風が上陸寸前まで近づくなど、完全に梅雨の末期を思わせる。

 この時期の体調管理はとてもむずかしい。急激な気温の上昇、高い湿度、寝苦しい夜、体がこの気候に順応する前に、大切な試合を戦わなければならない。

 わたしのチームはいま、東京都リーグと並行して全日本選手権の東京都予選の真っ最中だ。年間の最大の目標である全日本選手権出場の第一歩の大会をこの時期に戦わなければならないのは、とてもつらい。

 しかし、日本のサッカー界はまさにいまがサッカーシーズンらしい。Jリーグは第2ステージが始まり、動向が心配されていたLリーグも7月1日に開幕した。

 企業のあいつぐ撤退でリーグ自体の存続が危ぶまれていたLリーグは、今シーズンは東日本4チーム、西日本5チームで東西別々に1次リーグを行い、後半戦を上位リーグと下位リーグに分けて順位を決するという試合方式で開催することに落ち着いた。東と西に分けることによって、遠征費を大幅に軽減し負担を軽くしようという狙いだ。

 東日本リーグが東北のYKK(新加入)、千葉のジェフ市原(新加入)、浦和レイナス(2年目)と東京の日テレ・ベレーザの4チーム、西日本リーグが伊賀(元プリマハム)、スペランツァ高槻(元松下電器)、宝塚(元旭国際)、熊本のルネサンス(新加入)と神戸の田崎ペルーレの5チームだ。

 企業の資金援助を受けられなくなったチームは主力選手の多くがチームを去り、戦力ダウンは免れない。そんななかにあって、地域の代表として新加入したチーム、とくにジェフ市原に注目している。昨シーズン関東リーグをともに戦い、対戦成績はわたしのチームが1分け1敗でリーグ3位、ジェフ市原が優勝という結果ではあったが、ほぼ互角に戦ったという印象をもっている。彼女たちの戦いが、わたしたちの力のバロメーターになると思うのだ。

 しかし、ジェフ市原はLリーグのきびしい洗礼を受けている。初戦は戦力に差はないと思われた浦和に0-2、2戦目は昨シーズンの後期リーグに優勝した日テレ・ベレーザに0-10で敗れている。
 西日本リーグでも、新加入のルネサンスが初戦で伊賀に0-13と大敗を喫している。

「Lリーグのレベルが、がくんと落ちた気がします。せっかく世界レベルの選手を迎えて、日本の女子サッカーのレベルもあがってきたのに。いままでのように緊張感をもって試合に臨めるか不安です。でも、試合の意味を理解し、若い選手を引っ張っていくのがわたしの役目だとは思っています」。長い間日本代表として活躍し、昨シーズンは国体と全日本選手権で優勝した田崎ペルーレの山口小百合は、日本の女子サッカー全体のレベルダウンを懸念する。

 日興證券をはじめとして次つぎと企業の撤退が決まったとき、わたしは「心配はいらない。いまこそ日本の女子サッカーが、精神的に強く生まれ変わるときなのだ」と書いた。しかし、状況はそう甘くないらしい。この時期にサッカーをやめてしまった選手のなんと多いことか。

 しかし、嘆いてばかりでは何も始まらない。いまさらあせっても仕方がない。地に足をつけた組織づくり、いわゆる「ピラミッド型」の形成にいまこそまじめに取り組まなければならない。

 10年前、高い雲の上に突然Lリーグをつくった。上から引っ張られるように高く高く上がっていった。しかし、ある日突然、引っ張っていた糸が切れて、急降下してしまった。

 いま、ずいぶん低いところまで落ちてしまったが、階段をとりつけた。だれでも一歩ずつ昇っていけば上にたどり着ける。全国の地域リーグを戦っている選手たちは、その階段を意識し始めたはずだ。そして、10年後には階段は強く頑丈になり、少しずつ上に積み上げられていくことだろう。

 ジェフ市原は1次リーグの最初の3試合を終えたら、初めての90分ゲームにも慣れ(関東リーグは70分)、激しい当たりにもびっくりしなくなるはずだ。徐々に自分たちのサッカーができてくるに違いない。シーズンが終わるころには、大きな成長を見せてくれることだろう。

 わたしたちはまず、暑さなんかに負けずに東京都予選を勝ち抜かなければならない。東京都リーグに優勝しなければならない。そして、関東予選に勝ち、全日本選手権に進まなければならない。来シーズンは関東リーグを戦って、優勝しなければならない。その一歩一歩がLリーグへの階段なのだ。

2000年6月23日金曜日

第47回 放送する権利には「義務」も伴う


 東京は、先週梅雨入りしてからというものずっと雨が続いている。雨に濡れたあじさいの花は日本のこの季節をよく表している。それとくらべて毎夜テレビで見るヨーロッパはからっと乾いた晴天で、それだけで別世界のように感じられる。

 いま、ヨーロッパ選手権のまっただ中。完全な寝不足状態だ。現地時間で午後6時と午後8時45分のキックオフは、日本では午前1時と午前3時45分。これが毎日続く。昼間仕事をもつ身としては、ビデオに録画しておいて翌日の夜に見る、というのが見識ある行動かもしれない。しかし、夕刊に結果が出てから見るのでは、やはりつまらない。結局、どちらかのカードを選んで、1試合を生中継で、1試合をビデオで、ということになる。これが最大限の譲歩なのだ。

「寝不足だよね」ではじまる会話は、「ひとまわり見たけれど、予想以上にフランスがいいんじゃない? ジダンが絶好調だもの」「うれしいことにポルトガルがいいよね。このサッカーで勝ち上がってくれると楽しいよね」「ベッカムのキック見た?!」「スペインはまた期待はずれで終わっちゃうのかな」と、とどまることを知らない。ワールドカップに次ぐ、至福の1カ月間になるのだ。

 それもこれも、毎日ほとんどの試合を生中継してくれるWOWOWのおかげだ。しかし、いろいろな事情でWOWOWが見られないサッカーファンの人たちはどんなに悔しい思いで1カ月を過ごすことだろう。WOWOWはだれもが見られる地上波ではないからだ。

 わたしは先日、その悔しさを味わった。日本代表がモロッコで戦ったハッサン世国王杯だ。放送権はフジテレビとスカイパーフェクTV(スカパー)がもっていた。

 民放放送と衛星放送が同じ試合を放送するなら、わたしは迷わずCMのはいらない衛星放送を選んできた。BS、WOWOW、ケーブルTVとどん欲にアンテナを引き、契約をしてきたが、スカパーだけはどうしても方角の問題で、アンテナをつけることができず契約できないでいた。それでもフジテレビが放送してくれるのなら、この際CMは目をつぶり、生中継でなくて1時間遅れの放送でも、自分に生中継だと言い聞かせて見た。

 試合は予想以上に日本代表がすばらしく、先手先手をいく攻めでフランス代表を大いにあわてさせた。結局2-2の引き分けで、PK戦で決勝進出は逃したものの、わたしは試合の最初から最後まで興奮して見続けた。

 3位決定戦はジャマイカとの対戦になった。98年ワールドカップ・フランス大会のときの悔しい記憶をだぶらせて、これも見逃せない一戦だとだれもが思っていたに違いない。しかし、その日の朝刊のテレビ欄を見てわたしは愕然とした。深夜2時半のキックオフの時間にフジテレビは映画を放送するというのだ。目をずっと下に移してもサッカーの文字は出てこなかった。

 その日の新聞にはフランス戦のフジテレビの視聴率が、深夜から未明の放送としては異例の6.7%(瞬間最高視聴率は8.1%)、視聴占拠率は平均70.7%(PK戦にはいった4時前には82.2%)であったことが大きく報道されていた。「ワールドカップ・チャンピオンとの対戦であり、大きな関心を集めることは予想していました。だから放送権をとったのです」と、フジテレビの担当者のコメントも載せられていた。

 わたしはフジテレビに電話した。
「きょうのジャマイカ戦の放送は?」
「きょうはスカパーだけです。フジテレビではあすの深夜に放送します」
「あすって、きょうの深夜、日付が変わったあすじゃないんですか?」
 わたしは精いっぱいの皮肉を込めて言ったつもりだったが、
「いいえ違います」のひとことで片づけられた。
 最後まで「きょう放送できなくて申し訳ない」という言葉は聞かれなかった。

 その日わたしは人の迷惑もかえりみず、スカパーと契約している友人に電話をかけまくり、メールを送りまくった。録画してもらったビデオを朝6時に借りに行く約束をとりつけたりしたが、結局は深夜に車を走らせて、生中継で見ることになった。

 前半はやきもきしながら見たが、後半開始直後に城のすばらしいゴールが決まり、そのあとは多彩な攻めのオンパレードだった。結局4-0の勝利に大満足してうちに帰った。前日の朝のいやな気持ちも吹っ飛んでいた。

 いま、2002年のワールドカップの放送権の問題がいろいろ言われている。そして先日、2001年から8年間のワールドカップ・アジア最終予選の放送権をテレビ朝日が獲得したと大きく報道されていた。

 放送関係者の方々はぜひ知っていただきたい。サッカーファンはできるだけリアルタイムで、できるだけ試合に忠実な放送を見たいと思っている。そして、サッカー放送はほかのだれのものでもない、ファンのものだということを。自分のところの都合でもし放送ができないときは、ほかの放送局にゆずって放送してもらうくらいのことをしてもらいたいのだ。放送する権利を得るということは、放送する義務をも負うことなのだ。

 テレビはイタリア-ベルギーの試合を映し出している。さあ、どんな試合を見せてくれるのだろうか。

2000年6月9日金曜日

第45回 興味本位にならないで


 青い空と海を背景に、白い砂浜で楽しそうにボールをける裸の女性たち。最近テレビで流れている歯磨きのCMだ。ヌードカレンダーで話題になったオーストラリア女子代表を起用しているものだ。

「強化費不足に悩むオーストラリア女子代表チームが、資金獲得のために全員でヌードに」 去年の暮れ、カレンダーが発売になる前に通信社が配信するや、大きな話題となって世界中に広まった。カレンダーは予想をはるかに越えて増刷され、世界各国で売られた。その後、日本でCMに起用されるなど大きな反響をよんだ。

 このニュースを最初に聞いたとき、わたしは「やれやれ」と複雑な気持ちになった。

 わたしがサッカーを始めた24年前は、まだ女子がサッカーをやることは一般に認知されておらず、ものめずらしさからか雑誌などの取材が少なくなかった。わたしは多くの人に女子サッカーの存在を知ってもらいたかったし、それがまったく特別なものでなくサッカーというスポーツそのものであるということを強く訴えたかったので、積極的に取材を受けた。

 しかし、受ける質問は「胸でトラップするのは痛くありませんか」とか「短パンをはいて足を振り上げることに抵抗はありませんか」とか「ボーイフレンドはあなたがサッカーをやることに何も言いませんか」というようなものが多く、できあがったページは下半身のアップの写真ばかりで構成され、記事の内容も興味本位のものばかりだった。

 わたしは失望を繰り返しながら、地道に取り組んでいけばいつかきっと受け入れられる日がくると信じていた。いまは多くの人の努力が実を結び、代表がワールドカップやオリンピックに出場することによって、女子のサッカーが一般に認知されたといっていいだろう。しかしそれが、オーストラリア代表のヌードの話題によって揺るがされやしないかと不安になったのだ。

 いまや世界のトップアスリートたちが裸を見せることはめずらしいことではない。スポーツ用品メーカーの広告写真などで披露されるその肢体は芸術といっても過言でない。鍛えぬかれた肉体は性別を越えて、まさにその競技を具現化している。それは見る者の息をのませ、つけいる隙を与えないように思える。

 オーストラリア代表のカレンダーやCMには、スポーツのもつ健康的な明るさはよく表現されていると思う。制作者のねらいはそこにあるのだろう。しかし、その部分だけを切り売りしてしまって、彼女たちが失ったものはないのだろうか。

 水泳の千葉すず選手がインタビューに答えた言葉をふと思い出した。最先端の技術を駆使し、水の抵抗を限りなく少なくした水着の着心地を聞かれ「(ひざや足首まで覆う)この水着なら、やっと好奇のカメラの目から開放されます」 

 5月31日からオーストラリアで女子サッカーの「パシフィックカップ」が開催される。オーストラリア、日本、アメリカ、中国、カナダ、ニュージーランドの6カ国が参加して、総当たりのリーグ戦を行う。

 オーストラリア代表は予想以上の強化費を稼いだが、その成果を見せられるだろうか。日本代表は、Lリーグが大きく変わり、ほとんどの選手の所属チームの競技環境がきびしくなっているなか、どんな戦いを見せてくれるのだろうか。

2000年5月26日金曜日

第45回 自転車で行くJリーグ

 ついに、ようやく、わたしは「わがチーム」のホームゲームに出かけた。2000Jリーグ開幕から約2カ月。ファーストステージ第11節、5月6日土曜日、FC東京対川崎フロンターレ戦は、駒沢オリンピック公園総合運動場陸上競技場で行われた。

 ふだんの土曜日なら自分の練習と重なって行けないところだが、ゴールデンウィークを利用して長野県菅平で行われた大会に前日まで遠征していたので、この日はオフだった。

 駒沢公園まではうちから距離にして3キロ強。自転車で15分、歩いて30分ほどのところだ。朝からうきうきした気分で、キックオフの午後1時に合わせて、ランチをもって自転車で出かけた。

 Jリーグが始まってから7年間、自分の町にチームをもたなかったわたしは、いろいろなスタジアムに出かけていって試合を観戦し、お気に入りの選手を応援した。しかし、何かもの足りなかった。浦和の駒場競技場や鹿嶋のカシマスタジアムには、家族連れや友だち同士が自転車で四方八方から集まってきて、試合が終わると三三五五散っていく。わたしはその風景にものすごくあこがれを感じていた。

 実際、FC東京にとって駒沢は仮の住まいで、来シーズンからは調布市に東京スタジアムが立派にできあがることになっている。「自転車で行くJリーグ」は今回限りかもしれない。しかし、夢は実現した。

 この気持ちをどう表現したらよいだろう。そう、日本代表が初めてワールドカップのピッチに立ったときに似ている。わたしは1982年から毎回ワールドカップに出かけていっては、ブラジル代表やフランス代表のユニホームを着て、応援していた。それはそれで本当に楽しくて、ワールドカップを堪能したと思っていた。しかし、98年フランス大会、トゥールーズのミュニシパル・スタジアムのピッチに立つ日本代表の姿をスタンドから見たとき、それまでとはまったく違った感情に支配された。「わたしのワールドカップはこれなんだ」と。

 「わたしのJリーグがようやくやってきた」
 J2から応援しているファンやサポーターの人たちからは「なにをいまさら」と笑われるかもしれないが、遅ればせながらのファンをどうか受け入れてほしい。

 試合は、今季J2からJ1に昇格したチーム同士の力のはいったものだった。FC東京がしっかしとした守備から前へ前へ出ていくサッカーで川崎を圧倒したが、監督が替わったばかりの川崎も最後まであきめずに東京を苦しめ、結果は2-1。なかでも昨季まで川崎に所属していたツゥットは両チームのファンの声援を受けて、グラウンドを縦横無尽に走り回り、攻守に活躍した。

 この日の入場者数は1万1229。2万人収容の駒沢の陸上競技場がなんとなく埋まった感じだ。わたしはもちろんレッズやアントラーズのサポーターはすごいと思う。あんなに大勢でいつも応援したいと思う。しかし、このくらいのファンで埋まる、このくらいの規模のスタジアムをもつチームが、日本中に、だれもが自分の町にもてたとしたら、どんなにしあわせだろう。

 「お~れのとうきょう、ほ~こりをもって~、立ち上がってみんなで歌おう、ランラララッラ、ラッラ、ララ~
 覚えたての応援歌を口ずさみ、わがチームの勝利に酔い、しあわせな気分で自転車をこぎながらうちに帰った。