2014年5月22日木曜日
リーグ戦が始まる!
日曜日にリーグ戦が開幕する!
この時期になると、新しいシーズンに向けて、前のシーズンよりも絶対にいいシーズンにしてやるぞという強い思いがみなぎるものだ。そのためにオフシーズンにいろいろなトレーニングにトライをするわけだから。
でも、話はそう簡単ではない。
7年半前に右ひざの手術をしてからは、というより、もう10年近く前から私のひざはにっちもさっちもいかない状態になっていた。だから、毎年、新しいシーズンを迎えるときにも、「ことし1年もつだろうか・・・」というような消極的な思いにとらわれていた。
そういう思いを断ち切るために手術を選択したわけなのだが、術後も状況は好転するどころか手術のダメージから回復できず、術前より悪い状態から抜け出せなかった。
治療家との出会いで、下降線から上昇傾向へ
それがようやく好転しはじめたのが6年前のことだ。整形外科的なアプローチをあきらめたとき、目の前に信頼できる治療家が現れたのだ。そして2年間、その治療院に通い詰めた。下降線をたどっていた状態からようやく上昇傾向が見え始めたが、プレーをしながらの治療では回復への歩みはのろかった。
はじめは、3カ月から半年くらいでもとに戻るだろうと思っていた。でも、「もとってどこだ?」「どうなれば回復と言えるのか!?」。最初の痛みがなくなっても、別の部位が痛みはじめる。何かができるようになっても、次つぎとできないことが出現した。
1歩進んでは2歩戻ったり、3歩進んだと思ったらまた1歩戻ったり、そんなことを繰り返しながら2年が経ったとき、痛みは大きく軽減し、プレーするときに片時も離せなかったひざのサポーターはとれたけれど、どうやって走っていたのか、どうやって蹴っていたのか、わからなくなっていた。痛みをかばう動きが身に付いてしまっていたのだ。
カラダのフルモデルチェンジへ
そのとき、目の前に「動きの師匠」と呼べる人が現れた。
私のサッカー人生の幸運は節目節目で大きな出会いに恵まれてきたことだ。
治療家に身を委ねる時期は終わり、自分自身で痛みのでない動きを見つけて、よりパフォーマンスをあげていくアプローチへと移っていく。
師匠は言った。「これはカラダのフルモデルチェンジです」。補修ではない、新しいカラダに生まれ変わるのだ。なんと希望に満ちた言葉だっただろう。
しかし、「言うは易し」。フルモデルチェンジへの道のりは険しかった。いままで持っていた常識を全部捨てなければならなかった。がんばって、がんばって、がんばってきた30数年間の取り組みをひとつひとつやめていくことから始まった。
毎晩寝る前の300回の腹筋はトレーニングというより習慣みたいなものだった。練習のない日はスポーツクラブに通いマシントレーニングに励んだ。痛みがあっても決して練習は休まず、若い選手と同じ練習メニューをこなした。カラダに厳しくすることが、カラダを楽にすることにつながると信じていた。
「まず、筋トレはやめましょう」
「痛いことはやらない」
師匠は、まずこの2つを私に課した。痛いことをやってはいけないとなれば、練習に行ってもやれることはない。「練習を休まずやる」ことで保っていた私の競技へのモチベーションはどうなってしまうのか。
「失うものなど何もないからすべてを受け入れる」と自分に言い聞かせて始めた取り組みだったけれど、これを受け入れてしまったら自分が自分でなくなってしまう気がした。
筋トレはすっぱりやめた。でも、練習は休めなかった。
とはいえ、師匠が教えてくれたフェルデンクライス・メソッドの動きをベースとしたハーモニー体操というムーブメントは徐々に少しずつではあるが私の動きを変えていった。
痛みに対するアプローチはこの2つだった。
「痛みを探さない」
「痛みから逃げる」
痛いのが当たり前だと思っていた私は、いま思えば、わざわざ痛い動きを選んでいた。「痛みを乗り越えてこそ、何かがある」と思っていた節がある。ほかに道があるとは想像もしていなかった。それは痛みの出る動きをカラダに覚え込ませていたようなものだった。
練習は、ひとつひとつの動きをチェックしていく作業になった。「痛みをかばう」動きと「あえて痛みの出る」動き、それが私のなかに共存していた。「痛みを探さない、痛みから逃げる」動きと「痛みをかばう」動きは根本的に違う。そういうことを理解することから始まった。
師匠が提案してくれた動きを私はすぐに自分のものとして動くことができなかった。けっしてむずかしい動きではないのにできなかった。頭では理解できるけれど、30年以上かけて覚え込んだ動きをカラダは簡単には手放さなかった。
小さなアップダウンを繰り返す
フルモデルチェンジへの道のりは牛のようにのろかった。
1シーズンをかけて、動きを変え、パフォーマンスをあげていこうとしていた。動きが変わるとできるプレーも増える。しかし、できることが増えると、突然の痛みがやってきた。それはあらゆる部位にあらわれた。
激しい痛みに襲われると、治療家の先生に泣きついた。それは私の取り組みでいえば、大きな後退だった。
「良くなってくると、悪いことがやってくる」。シーズン中に小さなアップダウンは何度かあったが、毎年、シーズン開幕前には顕著にあらわれた。オフシーズントレーニングを順調にこなし、新シーズンを迎えるにあたり「ことしこそ!」とワクワクしていると、かならず大きな痛みがどこかにあらわれた。そして開幕に間に合わず、またシーズンをかけて、監督やチームメートの信頼を取り戻すことをしていかなければならなかった。それが3年繰り返された。
カラダと心のバランスが必要だった
その間に私はハーモニー体操の指導資格を取り、人に教えることも始めた。それによって、カラダに対する理解も深まった。人のカラダを見ていると、自分のカラダでは気づかないことがよくわかる。
それなのに、なぜ同じことを繰り返すのか。もしかしたら、それはカラダの問題だけではないのではないか。自分の内にある心が何かしらの暗示をかけているのかもしれない。そう思うに至った。
昨シーズンは、カラダへの取り組みに加えて、心へのアプローチを始めた。「心技体」という言葉はよく使われる。「心」というのは、強い精神力を意味すると思っていた。つらいときにもがんばり抜ける精神力。私はそういうものはまあまあ持っているほうじゃないかと思っていた。「がんばり」だけで生きてきたようなものだ。でも、自分の心にアプローチしていくと、その「がんばり」こそが自分の心をがんじがらめに縛り付け、カラダと心のバランスを崩していることに気づかされた。そこから自由にならなければ、負のスパイラルは繰り返される。
昨シーズン、とくに後半は、カラダのこと、心の持ち方が自分のなかで整理されて、パフォーマンスは上がっていった。
さぁ、いよいよ新しいシーズンが始まる!
お約束のように、悪魔はやってきた。
5月の連休の菅平で突然ひざに痛みがやってきて、走れなくなった。リーグ戦が始まる前の仕上げの大会と位置づけしていたので、かなりショックを受けた。
ただ、いままでと違うのは、冷静に向き合って対処できたことだ。「この痛みはどこからきたものか」と原因をあれこれ考えるよりも、どういうやり方をすれば痛みは軽減されるかということに主眼を置いた。この4年間で痛みから逃げる方法が自分のなかにたくさん蓄積されていた。人のカラダを見てわかったこと、自分のカラダで試したこと、それらを総動員したら、大会期間中に痛みはなくなっていた。
いままでの私とは違うぞ!
どこからでもかかってこい!
日曜日から始まるリーグ戦が楽しみでならない。
プロフィール
大原智子(おおはら・ともこ)
三重県伊勢市出身。1976年大学入学と同時にサッカーを始め、卒業後はクラブチームFCPAFを創設した。76年からチキンフットボールリーグ、81年にスタートした東京都女子リーグでプレーし、現在もFCPAFで現役。81年から84年まで日本代表。ポジションはMFだが、日本代表ではDF。クラブでも、チームの必要に応じてFW、DFでもプレーした。選手活動のかたわら、ワールドカップは82年スペイン大会、86年メキシコ大会、90年イタリア大会、94年アメリカ大会、98年フランス大会、02年日本/韓国大会、06年ドイツ大会、10年南アフリカ大会、8大会を観戦している。
著書 『がんばれ、女子サッカー』共著 岩波アクティブ新書
・フリーランス・エディター/ライター
・ハーモニー体操プログラム正指導員、ハーモニー体操エンジンプログラマー
2014年5月9日金曜日
菅平に来れば思い出す
5月の3連休を菅平で過ごすようになって何年になるだろう。
サッカーマガジンが主催するサッカー大会はことしで27回目を迎えたらしい。全国から70チームが集まり、全試合が手入れされた芝生のグラウンドで行われる。
5月3日の朝は快晴だった。キーンと空気は澄んで、まっ青な空に山の稜線がくっきりと浮かび上がっていた。そして足元は緑の芝生が刈りそろえられたグラウンドがあった。3日間、サッカーのことだけを考えて過ごせる。サッカー選手としてこれ以上の幸福があるだろうか。
私がはじめてサッカーで菅平を訪れたのは、1985年。正式にこの大会が始まる2年前のことだ。秋に行われていた男子の大会の隅っこで女子3チームが2試合ずつしたのが、この大会の前身と言えるだろう。
冬はスキー、夏はラグビー合宿で有名だった菅平だけれど、「オフシーズンにサッカー大会を!」とサッカーマガジンが主催して秋に男子の大会を開催していた。
当時編集長だった千野圭一さんは、女子サッカーの草創期からフェアな目で取材してくれた数少ない記者のひとりだった。その千野さんが男子の大会があるのなら女子の大会もと考えるのは自然だったのだろう。ただ、女子のサッカーチームがまだまだ少なかった時代。もちろん全国リーグもなかった。そんななか、私たちのチームと他2チーム、合計3チームで大会と呼ぶにはあまりにも小さかったけれど、菅平での女子のサッカーが始まったのだ。
じつは、私は千野さんのことが苦手だった。私がサッカーを始めたころから、会うといつもきびしい言葉をかけられていた。とくに、日本代表として初めて外国チームを招いたポートピア’81大会で、イタリア代表と対戦したときのことだ。0−9で完敗した試合の直後、千野さんは私に「これはサッカーじゃなかったね。相手のケツを追いかけてるだけじゃだめだよ」と言い放ったのだ。
まだアメリカも中国も女子の代表チームを編成していない時代。ヨーロッパチャンピオンであるイタリアが世界のナンバーワンと言ってもよかった。男子の日本代表でさえ、まだヨーロッパの代表チームとAマッチを組むことすらできなかった時代のことだ。
それでも、千野さんの目には歴然とある力の差の前になすすべなく敗れた女子日本代表が不甲斐なく、歯がゆく見えたのだろう。それは、いまにして思えば「初めてにしては、よくがんばった」などという言葉の百倍も私たちを認め、期待を込めたものだった。
その後、日本代表から外れ、全国レベルの試合からも遠ざかった私が千野さんに会えるのは、年にいちど、この菅平の大会だけになった。
毎年、初日にあいさつに行くと、いつものシニカルな笑みと下町育ちのぶっきらぼうな物言いで迎えてくれた。そして1試合はかならず私たちの試合を見に来てくれて、きびしいひと言をかけていってくれた。
技術の高い選手は本当に増えた。でも、千野さんはそれだけで選手を評価することはなかった。その技術をどこで使い、それが試合をどう動かし、チームの勝利にどう貢献しているのか、それが選手の価値を決めると考えていたと思う。千野さんと話すときには、いつもそれを感じていた。
おととしの秋、千野さんは58歳という若さで逝ってしまった。
去年の大会で私のチームは優勝した。そのときに、千野さんの前にサッカーマガジンの編集長だったうちの監督は「千野が見ている」と空を見上げて、目を潤ませていた。
ことしの大会で、私たちのチームは決勝トーナメント1回戦で敗れた。連覇どころか2日目の2試合目で大会から姿を消すことになってしまった。
私はことしの方が千野さんの存在をひしひしと感じていた。私の不甲斐ないプレーに何か言いたげな、あのシニカルな笑みがグラウンドの隅っこに見える気がしたのだ。
菅平に来れば思い出す。
サッカー選手にきびしく、でも、根っからサッカーが好きだった。千野さんのことを思い出す。
大原智子(おおはら・ともこ)
三重県伊勢市出身。1976年大学入学と同時にサッカーを始め、卒業後はクラブチームFCPAFを創設した。76年からチキンフットボールリーグ、81年にスタートした東京都女子リーグでプレーし、現在もFCPAFで現役。81年から84年まで日本代表。ポジションはMFだが、日本代表ではDF。クラブでも、チームの必要に応じてFW、DFでもプレーした。選手活動のかたわら、ワールドカップは82年スペイン大会、86年メキシコ大会、90年イタリア大会、94年アメリカ大会、98年フランス大会、02年日本/韓国大会、06年ドイツ大会、10年南アフリカ大会、8大会を観戦している。
・フリーランス・エディター/ライター
三重県伊勢市出身。1976年大学入学と同時にサッカーを始め、卒業後はクラブチームFCPAFを創設した。76年からチキンフットボールリーグ、81年にスタートした東京都女子リーグでプレーし、現在もFCPAFで現役。81年から84年まで日本代表。ポジションはMFだが、日本代表ではDF。クラブでも、チームの必要に応じてFW、DFでもプレーした。選手活動のかたわら、ワールドカップは82年スペイン大会、86年メキシコ大会、90年イタリア大会、94年アメリカ大会、98年フランス大会、02年日本/韓国大会、06年ドイツ大会、10年南アフリカ大会、8大会を観戦している。
・フリーランス・エディター/ライター
・ハーモニー体操プログラム正指導員、ハーモニー体操エンジンプログラマー
2014年4月29日火曜日
30th
30年前、私はいまと同じようにサッカーをやり、いまより激しく仕事をしていた。
前日まで通常どおりの仕事をこなし、翌日には練習試合が予定されていた。
母の大好きな小川軒のレーズンウィッチをおみやげのお菓子にしたために、ホテルへの搬入は自分たちでやらなければならなかった。100個以上の箱詰めをホテルに納め、細かい打ち合わせを済ませて自分のアパートの部屋に戻ったときには、古傷のひざが悲鳴をあげていた。
「あしたはハイヒールを履かなきゃいけないんだ・・・」
気持ちはどんどん憂鬱になっていた。
夜はひざの痛みでまったく眠れなかった。
夜はひざの痛みでまったく眠れなかった。
翌日から始まる新しい生活への不安もあったかもしれない。
当日は、ひざの痛みを感じるヒマもなくバタバタと準備に追われた。
慣れない化粧、着付けないドレス、あ〜、ハイヒール・・・。
地方から出てきてくれたおじちゃんおばちゃんたち、パリからわざわざ来てくれたピアニストのいとこ夫婦は、無事にホテルにたどり着けるだろうか。
日本代表の監督や団長、会社のボスや上司の方がたが退屈な思いをされないようにチームメートにアテンドを頼んだ。
式が始まる前に来てくれることになっていたカメラマンの今井さんがまだ着かない。GWの渋滞に巻き込まれているのだろう。
周りの心配をしているうちに式は終わり(まったく覚えていない)、パーティーでは出席してくださったおひとりおひとりに感謝の気持ちを伝えるために各テーブルをゆっくりまわった。
気がつければ、となりに立っている人がみなさんに挨拶していた。
「割れ鍋に割れ蓋のようなふたりですが、がんばっていきますので見守ってください」みたいなことを言っていたと思う。
みなさん、笑っていた。
1984年4月29日、私は結婚し、新しい生活がスタートした。
とはいえ、翌日は別々に自分のサッカーの試合に出かけて行き、日々の仕事に終われる生活はなんら変わりがなかった。
そうやって30年が過ぎた。
ふたりとも30年分、歳を取ったけれど、私はあいかわらず週4回のサッカー、となりに立っていた人も休日にはサッカーに出かけて行く。
走るスピートは落ちたかもしれない。ボールを飛ばせる距離も短くなったかもしれない。
とはいえ、私はあの日よりひざの状態は格段によくなっている。いまはテーピングもサポーターもしないでサッカーできているではないか。
30周年にあらためて思いを馳せてみたけれど、ただの通過点だと思うに至った。
30周年にあらためて思いを馳せてみたけれど、ただの通過点だと思うに至った。
きのうよりきょう、きょうよりあしたを楽しく生きてやる!
まだまだサッカーうまくなれるぞ!
ってね。
大原智子(おおはら・ともこ)
三重県伊勢市出身。1976年大学入学と同時にサッカーを始め、卒業後はクラブチームFCPAFを創設した。76年からチキンフットボールリーグ、81年にスタートした東京都女子リーグでプレーし、現在もFCPAFで現役。81年から84年まで日本代表。ポジションはMFだが、日本代表ではDF。クラブでも、チームの必要に応じてFW、DFでもプレーした。選手活動のかたわら、ワールドカップは82年スペイン大会、86年メキシコ大会、90年イタリア大会、94年アメリカ大会、98年フランス大会、02年日本/韓国大会、06年ドイツ大会、10年南アフリカ大会、8大会を観戦している。
・フリーランス・エディター/ライター
・ハーモニー体操プログラム正指導員、ハーモニー体操エンジンプログラマー三重県伊勢市出身。1976年大学入学と同時にサッカーを始め、卒業後はクラブチームFCPAFを創設した。76年からチキンフットボールリーグ、81年にスタートした東京都女子リーグでプレーし、現在もFCPAFで現役。81年から84年まで日本代表。ポジションはMFだが、日本代表ではDF。クラブでも、チームの必要に応じてFW、DFでもプレーした。選手活動のかたわら、ワールドカップは82年スペイン大会、86年メキシコ大会、90年イタリア大会、94年アメリカ大会、98年フランス大会、02年日本/韓国大会、06年ドイツ大会、10年南アフリカ大会、8大会を観戦している。
・フリーランス・エディター/ライター
2001年2月2日金曜日
第60回 雪かきが終わった
東京に雪が降った。1月20日と27日、2週間連続で土曜日にたくさん降った。3年ぶりの大雪らしい。どちらも日曜日には晴れて気温も上がったが、わたしが所属するチームのリーグ戦最後の2試合、優勝がかかった大事な試合が中止になった。
しかし、1月21日日曜日、国立競技場では全日本女子サッカー選手権の決勝が行われた。トラックには雪が積み上げられていたが、ピッチはすばらしい緑色を見せていた。選手たちは、いかんなくテクニックを発揮して、好試合を繰り広げた。この試合を成立させるために、どれだけの人たちが朝早くから雪かきをしたのだろう。
思い起こせば、わたしも国立競技場の雪かきの手伝いをしたことがある。サッカーを始めてまだ1年もたたないころだ。77年2月11日、アルゼンチンのインデペンディエンテが来日して、日本代表と親善試合をした。あのときは、雪の下は芝生ではあったが緑色ではなく、枯れて土のような色だった。試合の始まるころには晴れて暖かかったにもかかわらず、しかも国立競技場での日本代表の試合だというのに、観客は2万人にも満たなかったと思う。
わたしがサッカーを始めた時代は、いま思えば日本サッカー界の氷河期だった。しかし、そんなことはわたしにとって、何の問題でもなかった。チームメートといっしょに雪かきをし、代表の試合を見ることはこのうえないしあわせだった。
そのころわたしは、本当にたくさんの試合をスタジアムでじかに、しかもただで見ることができた。日本リーグ(JSL)や日本代表の試合のたびに、サッカー協会のアルバイトをさせてもらっていたのだ。おもに、試合前やハーフタイムにプログラムを売る仕事だ。試合中はプログラムを買いにくる人がいないので、しっかり特等席にすわってチームメートといっしょにじっくりと試合を見た。それほど観客も少なかった。
はじめのころは、ずぶのしろうとで、選手の名前もルールさえもよくわからなかったが、あっという間に一人前のサッカーファンになった。サッカーをプレーしていることが、サッカーを見ることをより楽しくし、たくさん試合を見ることが、プレーを上達させた。しかもいつもチームメートといっしょだった。
しかし、10年もたつと同年代のチームメートたちは、仕事が忙しくなったり、育児におわれたりして、サッカーから徐々に離れていった。気がつくとチームのなかでひとりだけとびぬけて年上になっていた。十年一日のごとくわたしのサッカーとのかかわりは変わらなかったが、チームメートとの関係は大きく変わっていった。
自分のトップフィットを維持するため、ひとまわり以上年齢の離れたチームメートといっしょに練習したり試合したりするためには、チームの練習とは別に独自のトレーニングが必要になった。故障も多くなった。リハビリを兼ねたトレーニングを自分で工夫しなければならなかった。食べるものから、生活全体のことまで、独学でいろいろ勉強し、実践した。
サッカーは、わたしにとっていつも最も楽しくてかけがえのないものだ。しかし、家族に多くのがまんを強い、仕事にも少なからず影響を与えてきた。いつの間にかサッカーは、肩に力を入れてがんばるもので、自分自身への挑戦のようになっていた。
「雪といえば、昔インデペンディエンテが来たとき、雪かきしたね。雪かきが終わって試合が無事にできて感動したねぇ。あのころは奉仕隊でただでいっぱい試合見たね。楽しかったね。わたしたち恵まれてたね。いま思うと感謝の気持ちでいっぱいだよ。
リーグ戦、優勝めざして、がんばれ! 大原!」
雪の日に届いたかつてのチームメートからの1通のメールは、わたしを遠いあの日に連れていった。しんしんと積もる雪を部屋のなかから眺めながら、サッカーがただ楽しくて楽しくてしかたなかったころの気持ちを思い出していた。
3年ぶりのこの大雪は、わたしのチームに3年ぶりのリーグ優勝をもたらしてくれるかどうかは別として、四半世紀におよぶわたしのサッカー人生のあらたな一歩をふみ出すきっかけになってくれるのかもしれない。
しかし、1月21日日曜日、国立競技場では全日本女子サッカー選手権の決勝が行われた。トラックには雪が積み上げられていたが、ピッチはすばらしい緑色を見せていた。選手たちは、いかんなくテクニックを発揮して、好試合を繰り広げた。この試合を成立させるために、どれだけの人たちが朝早くから雪かきをしたのだろう。
思い起こせば、わたしも国立競技場の雪かきの手伝いをしたことがある。サッカーを始めてまだ1年もたたないころだ。77年2月11日、アルゼンチンのインデペンディエンテが来日して、日本代表と親善試合をした。あのときは、雪の下は芝生ではあったが緑色ではなく、枯れて土のような色だった。試合の始まるころには晴れて暖かかったにもかかわらず、しかも国立競技場での日本代表の試合だというのに、観客は2万人にも満たなかったと思う。
わたしがサッカーを始めた時代は、いま思えば日本サッカー界の氷河期だった。しかし、そんなことはわたしにとって、何の問題でもなかった。チームメートといっしょに雪かきをし、代表の試合を見ることはこのうえないしあわせだった。
そのころわたしは、本当にたくさんの試合をスタジアムでじかに、しかもただで見ることができた。日本リーグ(JSL)や日本代表の試合のたびに、サッカー協会のアルバイトをさせてもらっていたのだ。おもに、試合前やハーフタイムにプログラムを売る仕事だ。試合中はプログラムを買いにくる人がいないので、しっかり特等席にすわってチームメートといっしょにじっくりと試合を見た。それほど観客も少なかった。
はじめのころは、ずぶのしろうとで、選手の名前もルールさえもよくわからなかったが、あっという間に一人前のサッカーファンになった。サッカーをプレーしていることが、サッカーを見ることをより楽しくし、たくさん試合を見ることが、プレーを上達させた。しかもいつもチームメートといっしょだった。
しかし、10年もたつと同年代のチームメートたちは、仕事が忙しくなったり、育児におわれたりして、サッカーから徐々に離れていった。気がつくとチームのなかでひとりだけとびぬけて年上になっていた。十年一日のごとくわたしのサッカーとのかかわりは変わらなかったが、チームメートとの関係は大きく変わっていった。
自分のトップフィットを維持するため、ひとまわり以上年齢の離れたチームメートといっしょに練習したり試合したりするためには、チームの練習とは別に独自のトレーニングが必要になった。故障も多くなった。リハビリを兼ねたトレーニングを自分で工夫しなければならなかった。食べるものから、生活全体のことまで、独学でいろいろ勉強し、実践した。
サッカーは、わたしにとっていつも最も楽しくてかけがえのないものだ。しかし、家族に多くのがまんを強い、仕事にも少なからず影響を与えてきた。いつの間にかサッカーは、肩に力を入れてがんばるもので、自分自身への挑戦のようになっていた。
「雪といえば、昔インデペンディエンテが来たとき、雪かきしたね。雪かきが終わって試合が無事にできて感動したねぇ。あのころは奉仕隊でただでいっぱい試合見たね。楽しかったね。わたしたち恵まれてたね。いま思うと感謝の気持ちでいっぱいだよ。
リーグ戦、優勝めざして、がんばれ! 大原!」
雪の日に届いたかつてのチームメートからの1通のメールは、わたしを遠いあの日に連れていった。しんしんと積もる雪を部屋のなかから眺めながら、サッカーがただ楽しくて楽しくてしかたなかったころの気持ちを思い出していた。
3年ぶりのこの大雪は、わたしのチームに3年ぶりのリーグ優勝をもたらしてくれるかどうかは別として、四半世紀におよぶわたしのサッカー人生のあらたな一歩をふみ出すきっかけになってくれるのかもしれない。
|
|
*エッセイ「ボールと昼寝」は、今回をもって休載いたします。60回の長きにわたりご愛読いただき、ありがとうございました。(筆者+編集部)
|
2001年1月19日金曜日
第59回 すばらしき習慣
1月もなかばをすぎた。鏡もちも棚からおろし、正月気分も終わりにして、そろそろ通常モードにもどらなければならない。しかし、年のはじめといえば元日の天皇杯決勝だ。これを見ないと年が明けた気がしないのは、どのサッカーファンも同じだろう。
ことしのカードはアントラーズ対エスパルス。アントラーズは去年のナビスコカップ、Jリーグを制していて、2000年シーズンの三冠をねらっていた。
結果は、アントラーズがVゴールでエスパルスを破り、三冠を果たした。なかでも小笠原はチャンピオンシップに続いて、マン・オブ・ザ・マッチを受賞した。アントラーズの1点目の小笠原の判断の早いフリーキックと、3点目のボレーシュートは文句のつけようもなくすばらしいものだった。小笠原はまちがいなく2000年シーズンで大きく成長したことを示した。
しかし、わたしはアントラーズの優勝を心から祝福することはできない。2点目をどうしても認めることはできないのだ。後半はじまってすぐ、エスパルスのゴール前で競り合いがあって市川がペナルティーエリアのなかで倒れた。ボールはハーフウェーラインあたりにいる小笠原まで戻っていた。小笠原は、上体がすっと立ったいつものよい姿勢で、前方を見た。ゴール前に倒れている市川に気がつかないはずはなかった。当然、ボールをタッチラインの外にけり出す場面だった。しかし、そうしなかった。「うそでしょ」。わたしは自分の目を疑った。前方にけられたボールに反応した熊谷がシュートを打ち、はね返りを鈴木が決めた。それがアントラーズの2点目だ。
前半、アントラーズの鈴木が倒れていたとき、エスパルスがボールを外に出した状況とどこが違うというのだ。
この習慣がいつごろからだれがはじめたのかは知らない。インプレー中に選手が倒れたら、敵であれ味方であれボールを外に出し、治療を受けさせる。そしてプレー再開となったら、スローインはボールを出した相手に返す。それは審判に言われるわけでなく、ベンチの監督に言われるわけでもない。試合をしている選手たちが判断して、プレーを中断させるのだ。わたしが無知なだけかもしれないが、そういう習慣をもつスポーツをほかに知らない。わたしはサッカーのすばらしい習慣だと思っていた。
天皇杯の決勝だから、優勝を決めるゴールに結びつく場面だから、勝負がかかっているから、しかたがないのか。ルールに違反しているわけではないから問題ないのか。
翌日(実際には2日が新聞休刊日なので3日)の新聞には、「鹿島Vゴール、初の3冠」の大きな見出しが踊っていた。わたしはいつも朝日新聞、日本経済新聞、東京新聞、日刊スポーツの4紙を読んでいる。どの新聞もサッカーに関する記事がしっかりと書かれていると信頼していた。
しかし3日の4紙を見てひどくがっかりした。わたしは「習慣=常識」だと思っていたが、新聞記者の人たちはそうは思っていなかったようだ。どの新聞にもアントラーズの2点目を問題視する記事は出ていなかった。「清水、審判への抗議も検討」(日刊スポーツ)というような、エスパルスサイドのコメントを載せていたり、「反則を犯したわけではないが、ほめられたゴールではない。(中略)しかし、よく言えば、何をしてでも勝つというどん欲な姿勢が、三冠へと導いた」(朝日新聞)と、結局はアントラーズのゴールを肯定するような記事だった。
わたしは、アントラーズの三冠や小笠原のVゴールが大きな見出しで紙面を飾るべきニュースであるのと同じくらい、「サッカーのすばらしい習慣」は、サッカーを伝えるうえで欠かすことのできない重要なことだと考えている。
1月10日付「東京新聞」<夕刊>の大住良之さんのコラム、1月10日発売「サッカー・マガジン」の伊東武彦編集長の巻頭コラム、1月17日発売「サッカー・マガジン」の牛木素吉郎さんのコラムを読んですこしほっとした。
三者三様ではあるが、天皇杯決勝のアントラーズの2点目についての考えが書かれていた。「なるほどな」と思ったり、「わたしとはすこし考えが違うな」と思ったりした。こういうことこそ必要なのではないか。
アントラーズ・ファンが「勝負とはこういうものだ」と思い、エスパルス・ファンが「抗議に値する」、というのとは別なところに本質があると思うのだ。
3日売りの新聞に、大住さんや伊東さんや牛木さんのような意見がそれぞれに書かれてあればよかったのにと思う。そうすれば、もっとあの「2点目にいたるプレー」が議論されて、たくさんの人が「サッカーのすばらしい習慣」を知ることになる。
そしてそれが繰り返されれば、「習慣」から「常識」になっていくのだと、わたしは信じている。
ことしのカードはアントラーズ対エスパルス。アントラーズは去年のナビスコカップ、Jリーグを制していて、2000年シーズンの三冠をねらっていた。
結果は、アントラーズがVゴールでエスパルスを破り、三冠を果たした。なかでも小笠原はチャンピオンシップに続いて、マン・オブ・ザ・マッチを受賞した。アントラーズの1点目の小笠原の判断の早いフリーキックと、3点目のボレーシュートは文句のつけようもなくすばらしいものだった。小笠原はまちがいなく2000年シーズンで大きく成長したことを示した。
しかし、わたしはアントラーズの優勝を心から祝福することはできない。2点目をどうしても認めることはできないのだ。後半はじまってすぐ、エスパルスのゴール前で競り合いがあって市川がペナルティーエリアのなかで倒れた。ボールはハーフウェーラインあたりにいる小笠原まで戻っていた。小笠原は、上体がすっと立ったいつものよい姿勢で、前方を見た。ゴール前に倒れている市川に気がつかないはずはなかった。当然、ボールをタッチラインの外にけり出す場面だった。しかし、そうしなかった。「うそでしょ」。わたしは自分の目を疑った。前方にけられたボールに反応した熊谷がシュートを打ち、はね返りを鈴木が決めた。それがアントラーズの2点目だ。
前半、アントラーズの鈴木が倒れていたとき、エスパルスがボールを外に出した状況とどこが違うというのだ。
この習慣がいつごろからだれがはじめたのかは知らない。インプレー中に選手が倒れたら、敵であれ味方であれボールを外に出し、治療を受けさせる。そしてプレー再開となったら、スローインはボールを出した相手に返す。それは審判に言われるわけでなく、ベンチの監督に言われるわけでもない。試合をしている選手たちが判断して、プレーを中断させるのだ。わたしが無知なだけかもしれないが、そういう習慣をもつスポーツをほかに知らない。わたしはサッカーのすばらしい習慣だと思っていた。
天皇杯の決勝だから、優勝を決めるゴールに結びつく場面だから、勝負がかかっているから、しかたがないのか。ルールに違反しているわけではないから問題ないのか。
翌日(実際には2日が新聞休刊日なので3日)の新聞には、「鹿島Vゴール、初の3冠」の大きな見出しが踊っていた。わたしはいつも朝日新聞、日本経済新聞、東京新聞、日刊スポーツの4紙を読んでいる。どの新聞もサッカーに関する記事がしっかりと書かれていると信頼していた。
しかし3日の4紙を見てひどくがっかりした。わたしは「習慣=常識」だと思っていたが、新聞記者の人たちはそうは思っていなかったようだ。どの新聞にもアントラーズの2点目を問題視する記事は出ていなかった。「清水、審判への抗議も検討」(日刊スポーツ)というような、エスパルスサイドのコメントを載せていたり、「反則を犯したわけではないが、ほめられたゴールではない。(中略)しかし、よく言えば、何をしてでも勝つというどん欲な姿勢が、三冠へと導いた」(朝日新聞)と、結局はアントラーズのゴールを肯定するような記事だった。
わたしは、アントラーズの三冠や小笠原のVゴールが大きな見出しで紙面を飾るべきニュースであるのと同じくらい、「サッカーのすばらしい習慣」は、サッカーを伝えるうえで欠かすことのできない重要なことだと考えている。
1月10日付「東京新聞」<夕刊>の大住良之さんのコラム、1月10日発売「サッカー・マガジン」の伊東武彦編集長の巻頭コラム、1月17日発売「サッカー・マガジン」の牛木素吉郎さんのコラムを読んですこしほっとした。
三者三様ではあるが、天皇杯決勝のアントラーズの2点目についての考えが書かれていた。「なるほどな」と思ったり、「わたしとはすこし考えが違うな」と思ったりした。こういうことこそ必要なのではないか。
アントラーズ・ファンが「勝負とはこういうものだ」と思い、エスパルス・ファンが「抗議に値する」、というのとは別なところに本質があると思うのだ。
3日売りの新聞に、大住さんや伊東さんや牛木さんのような意見がそれぞれに書かれてあればよかったのにと思う。そうすれば、もっとあの「2点目にいたるプレー」が議論されて、たくさんの人が「サッカーのすばらしい習慣」を知ることになる。
そしてそれが繰り返されれば、「習慣」から「常識」になっていくのだと、わたしは信じている。
2000年12月22日金曜日
第58回 サッカーのスピリットを説く
「フェアプレー個人賞はヴェルディ川崎の米山篤志」
12月11日に行われた2000Jリーグアウォーズでもっとも意外な選出だった。本人にはたいへん申し訳ないが、ほんとうに驚いた。
Jリーグはフェアプレーを推奨するために、クラブと選手個人を対象にフェアプレー賞を設けている。しかし、この賞はなかなか簡単に受賞することはできない。個人はシーズンをとおして警告も退場もない選手のなかから、選考委員によって選ばれる。
「きたないプレーをせずにボールを奪えることが技術だと思う」と話す米山が守備の選手であり、このように考えて技術を磨き練習に励み、その結果、シーズンをとおして警告も退場もないということは、ほんとうに賞賛と尊敬に値することだと思う。
クラブに対しては、退場1回につき3ポイント、警告1回につき1ポイント、出場停止1試合につき3ポイントが加算される。22ポイント以下で、そのなかでも最少のクラブがフェアプレー賞高円宮杯を受けることができる。そして、91ポイント以上にはそのポイントに応じて反則金が課される。
フェアプレー賞高円宮杯は、唯一97年にヴィッセル神戸が受賞しただけで、それに準じるとみられるフェアプレー特別賞でさえ、93年と94年にサンフレッチェ広島、98年に清水エスパルスが受賞しているにすぎない。
ことしは受賞の該当クラブはない。しかし興味深いのは、いつも反則金を払う側の横浜Fマリノスが一転して90ポイント以下のグループにはいったことだ。
よくよく見ると、警告の多少は監督に負うところが大きいことがよくわかる。スチュワート・バクスター監督は、サンフレッチェで特別賞を2回、ヴィッセルで高円宮杯を受賞している。そして、ことしマリノスを変身させたオズワルド・アルディレス監督はエスパルスで特別賞を受賞している。
「こちらに絶好のチャンスがあってドリブルで抜け出そうとしたとき、相手の意図的と思われるファウルで止められた。そのあとで、相手に同じようなチャンスがあり、こちらのDFは反則すれば止められたのだが、フェアに守って相手に突破されてしまった。その結果、試合に負けてしまったので、そのDFは『あそこは反則で止めるべきだっただろうか』と聞いてきた。私はこういいました。『いや、あれで良かったんだ。あそこで反則で止めたら、次に同じような場面になったとき、また反則で止めるだろう。イエローやレッドカードが積み重なるだけでなく、個人の技量もチームの力も進歩しない。そして、なによりもサッカーのスピリットがどんどん破壊されることになる』と」(Jリーグオフィシャルガイド1997より)
これは、バクスター監督が94年のファーストステージにサンフレッチェを率いて優勝したときの話だ。
逆に、このような精神でシーズンを戦い抜いたはずのサンフレッチェやヴィッセルは、一転してことしは反則金を払う側にまわっている。
ことしの反則ポイントが少ない順番にチームを並べると、①エスパルス、②ジュビロ、③レイソル、④パープルサンガ、⑤セレッソ、⑥FC東京、⑦ヴェルディ、⑧Fマリノス、⑨ガンバ、⑩フロンターレ、⑩ヴィッセル、⑩サンフレッチェ、⑬ジェフ、⑭グランパス、⑮アントラーズ、⑯アビスパとなる(⑨以下が反則金を支払う)。
成績とはほとんど因果関係がないことがわかるだろう。
「監督によって簡単にポイントを減らすことができる」「チームの成績とは関係がない」とすれば、Jリーグ全体で反則ポイントをもっと減らすことが可能なのではないか。制裁として反則金を課すだけではなく、Jリーグがもっと積極的に、選手一人ひとり、監督、クラブに「サッカーのスピリット」を説き、広める努力が必要なのではないだろうか。
そうすれば、新しい世紀にはもう一段階高い次元のサッカーをわたしたちは見ることになるだろう。
12月11日に行われた2000Jリーグアウォーズでもっとも意外な選出だった。本人にはたいへん申し訳ないが、ほんとうに驚いた。
Jリーグはフェアプレーを推奨するために、クラブと選手個人を対象にフェアプレー賞を設けている。しかし、この賞はなかなか簡単に受賞することはできない。個人はシーズンをとおして警告も退場もない選手のなかから、選考委員によって選ばれる。
「きたないプレーをせずにボールを奪えることが技術だと思う」と話す米山が守備の選手であり、このように考えて技術を磨き練習に励み、その結果、シーズンをとおして警告も退場もないということは、ほんとうに賞賛と尊敬に値することだと思う。
クラブに対しては、退場1回につき3ポイント、警告1回につき1ポイント、出場停止1試合につき3ポイントが加算される。22ポイント以下で、そのなかでも最少のクラブがフェアプレー賞高円宮杯を受けることができる。そして、91ポイント以上にはそのポイントに応じて反則金が課される。
フェアプレー賞高円宮杯は、唯一97年にヴィッセル神戸が受賞しただけで、それに準じるとみられるフェアプレー特別賞でさえ、93年と94年にサンフレッチェ広島、98年に清水エスパルスが受賞しているにすぎない。
ことしは受賞の該当クラブはない。しかし興味深いのは、いつも反則金を払う側の横浜Fマリノスが一転して90ポイント以下のグループにはいったことだ。
よくよく見ると、警告の多少は監督に負うところが大きいことがよくわかる。スチュワート・バクスター監督は、サンフレッチェで特別賞を2回、ヴィッセルで高円宮杯を受賞している。そして、ことしマリノスを変身させたオズワルド・アルディレス監督はエスパルスで特別賞を受賞している。
「こちらに絶好のチャンスがあってドリブルで抜け出そうとしたとき、相手の意図的と思われるファウルで止められた。そのあとで、相手に同じようなチャンスがあり、こちらのDFは反則すれば止められたのだが、フェアに守って相手に突破されてしまった。その結果、試合に負けてしまったので、そのDFは『あそこは反則で止めるべきだっただろうか』と聞いてきた。私はこういいました。『いや、あれで良かったんだ。あそこで反則で止めたら、次に同じような場面になったとき、また反則で止めるだろう。イエローやレッドカードが積み重なるだけでなく、個人の技量もチームの力も進歩しない。そして、なによりもサッカーのスピリットがどんどん破壊されることになる』と」(Jリーグオフィシャルガイド1997より)
これは、バクスター監督が94年のファーストステージにサンフレッチェを率いて優勝したときの話だ。
逆に、このような精神でシーズンを戦い抜いたはずのサンフレッチェやヴィッセルは、一転してことしは反則金を払う側にまわっている。
ことしの反則ポイントが少ない順番にチームを並べると、①エスパルス、②ジュビロ、③レイソル、④パープルサンガ、⑤セレッソ、⑥FC東京、⑦ヴェルディ、⑧Fマリノス、⑨ガンバ、⑩フロンターレ、⑩ヴィッセル、⑩サンフレッチェ、⑬ジェフ、⑭グランパス、⑮アントラーズ、⑯アビスパとなる(⑨以下が反則金を支払う)。
成績とはほとんど因果関係がないことがわかるだろう。
「監督によって簡単にポイントを減らすことができる」「チームの成績とは関係がない」とすれば、Jリーグ全体で反則ポイントをもっと減らすことが可能なのではないか。制裁として反則金を課すだけではなく、Jリーグがもっと積極的に、選手一人ひとり、監督、クラブに「サッカーのスピリット」を説き、広める努力が必要なのではないだろうか。
そうすれば、新しい世紀にはもう一段階高い次元のサッカーをわたしたちは見ることになるだろう。
2000年12月8日金曜日
第57回 いつまでも寒くない
気がついたら12月になっていた。いちょうの葉は黄金色に輝いていたと思ったら、かさこそと道をならしている。12月だから寒いのは当たり前だが、急に寒くなったせいか妙に寒さが身にしみる。
「日立女子バレー部、今季限りで廃部」
久しぶりで企業の運動部廃部のニュースが新聞やテレビをにぎわした。「日立」は長い間日本の女子バレーのトップチームだった。そしてその時代に日本の女子バレーは世界に誇ることができるトップレベルのスポーツだった。それが突然廃部を発表したことが多くの人を驚かせた。
いまや企業のスポーツからの撤退は、ニュースにならないくらい日常茶飯事だ。世の中がこれだけ不景気では、企業は本業を倒さないでやっていくのが精いっぱいで、スポーツを支える余裕がない。
日立の場合は、「国内リーグで優勝もできない」「女子バレーはオリンピックに出ることもできない」などの理由で、苦労してチームをもっているメリットがないということなのだろう。
しかしたとえ景気が回復したとしても、いまのままでは「企業のスポーツが社員の士気を高めるという時代は終わった」などというひと言で、簡単にチームはつぶされてしまう。このまま企業に頼っていたら、日本のスポーツは全滅してしまうかもしれない。
Jリーグが始まったころ、バレーボールもプロ化の動きがあった。Jリーグとはまったく違うやり方ではあったが、日立の監督や選手たちは積極的にプロ化を推奨し、会社もそれに押されるように、柏レイソルの運営会社としてつくられた㈱日立スポーツにバレーの選手たちを受け入れる態勢をつくった。しかしプロ化はならず、強く唱えていた監督や選手たちはチームを離れざるをえなくなった。
わたしはこのとき、ひとつのクラブがサッカーとバレーのチームをもつ形になっていくのではと期待をもって見ていた。しかしよく考えるとそれが簡単なことではないことがすぐわかった。柏市を本拠地とするレイソルと、小平市の体育館を活動の拠点とするバレー部が同じ人たちに応援してもらうのはむずかしいことだからだ。
そしてあげくには、「日立はサッカーをとって、バレーを捨てた」と報道される始末だ。
スポーツが自立することは簡単なことではない。経済的な基盤も必要だからだ。しかし、スポーツはだれのものなのか、だれにとって必要なものなのか。見て楽しむ人、自分でやって楽しむ人、それぞれにとってなくてはならない存在なのだということが認知されれば、そのあり方は大きく変わってくるだろう。そんなに簡単に切り捨てたりはできないはずなのだ。
簡単に変わることはできない。しかし、変わっていかなければスポーツの将来はない。
Jリーグはいま、J2からJ1への昇格、J1からJ2への降格、Jリーグチャンピオンシップでの激しい戦いのなか、地域の人たちと喜び悲しみをともにしている。Jリーグがはじまって8年、完全に形になって表れているわけではないが「どこの町にもおらがチームがあり、だれもがスポーツを楽しめる環境をつくる」というJリーグがめざすものは、これからのスポーツの可能性を感じさせるものだ。そして、これから本格的に始まるサッカーくじが経済的な基盤になってくれるのではないかと期待する。
来るべき世紀が、だれもが応援する自分のチームをもち、だれもがいつでもスポーツを楽しめる環境があるような、そんな時代であることを想像していたら、いつまでも寒くはないぞと思えてきた。
「日立女子バレー部、今季限りで廃部」
久しぶりで企業の運動部廃部のニュースが新聞やテレビをにぎわした。「日立」は長い間日本の女子バレーのトップチームだった。そしてその時代に日本の女子バレーは世界に誇ることができるトップレベルのスポーツだった。それが突然廃部を発表したことが多くの人を驚かせた。
いまや企業のスポーツからの撤退は、ニュースにならないくらい日常茶飯事だ。世の中がこれだけ不景気では、企業は本業を倒さないでやっていくのが精いっぱいで、スポーツを支える余裕がない。
日立の場合は、「国内リーグで優勝もできない」「女子バレーはオリンピックに出ることもできない」などの理由で、苦労してチームをもっているメリットがないということなのだろう。
しかしたとえ景気が回復したとしても、いまのままでは「企業のスポーツが社員の士気を高めるという時代は終わった」などというひと言で、簡単にチームはつぶされてしまう。このまま企業に頼っていたら、日本のスポーツは全滅してしまうかもしれない。
Jリーグが始まったころ、バレーボールもプロ化の動きがあった。Jリーグとはまったく違うやり方ではあったが、日立の監督や選手たちは積極的にプロ化を推奨し、会社もそれに押されるように、柏レイソルの運営会社としてつくられた㈱日立スポーツにバレーの選手たちを受け入れる態勢をつくった。しかしプロ化はならず、強く唱えていた監督や選手たちはチームを離れざるをえなくなった。
わたしはこのとき、ひとつのクラブがサッカーとバレーのチームをもつ形になっていくのではと期待をもって見ていた。しかしよく考えるとそれが簡単なことではないことがすぐわかった。柏市を本拠地とするレイソルと、小平市の体育館を活動の拠点とするバレー部が同じ人たちに応援してもらうのはむずかしいことだからだ。
そしてあげくには、「日立はサッカーをとって、バレーを捨てた」と報道される始末だ。
スポーツが自立することは簡単なことではない。経済的な基盤も必要だからだ。しかし、スポーツはだれのものなのか、だれにとって必要なものなのか。見て楽しむ人、自分でやって楽しむ人、それぞれにとってなくてはならない存在なのだということが認知されれば、そのあり方は大きく変わってくるだろう。そんなに簡単に切り捨てたりはできないはずなのだ。
簡単に変わることはできない。しかし、変わっていかなければスポーツの将来はない。
Jリーグはいま、J2からJ1への昇格、J1からJ2への降格、Jリーグチャンピオンシップでの激しい戦いのなか、地域の人たちと喜び悲しみをともにしている。Jリーグがはじまって8年、完全に形になって表れているわけではないが「どこの町にもおらがチームがあり、だれもがスポーツを楽しめる環境をつくる」というJリーグがめざすものは、これからのスポーツの可能性を感じさせるものだ。そして、これから本格的に始まるサッカーくじが経済的な基盤になってくれるのではないかと期待する。
来るべき世紀が、だれもが応援する自分のチームをもち、だれもがいつでもスポーツを楽しめる環境があるような、そんな時代であることを想像していたら、いつまでも寒くはないぞと思えてきた。
登録:
投稿 (Atom)