2014年6月3日火曜日

ワールドカップが駆け足で近づいてくる!



 ワールドカップ・ブラジル大会の開幕が9日後に迫ってきた。

 最後の調整試合のひとつであるコスタリカ戦も3−1と勝利した。ホントに、ホントに、すぐそこまで近づいている。

 日本代表は、ブラジルの地でどんな戦いを見せてくれるのだろう。その期待は日に日にふくらんでいく。

 本当にブラジルでワールドカップが開催されるんだ。日本からは1万人もの人が地球の裏側にある国に足を運ぶという。あの広大な地で転々と散在する都市に、それだけの人たちが訪れるのだ。

 私がはじめてワールドカップに行ったのは、1982年スペイン大会のことだ。

 1976年、大学入学と同時にサッカーを始めた。まだまだサッカーを競技としてプレーする女子選手があまりいなかった時代。サッカーという競技はもちろん知っていたけれど、それが世界中の人たちを熱狂させるものだということはよく知らなかった。

 同年代の男性のサッカー仲間たちの(テレビ観戦での)ワールドカップデビューは、1974年の西ドイツ大会の場合が多い。クライフやオランダのトータルフットボール、ベッケンバウアーなど、後年、そのプレーに夢中になったが、当時はまったく知らなかった。陸上競技の選手として高校時代を過ごした伊勢の地で、毎日毎日トラックを走っていた。

 私がワールドカップというものを知ったのは78年のアルゼンチン大会。テレビに映るスタジアムがうねるように揺れて、スタジアム全体が紙吹雪で覆い尽くされている画面に鳥肌がたった。

 大学の先輩が「あれがワールドカップというものなんだ。『ワールドカップ』っていえばサッカーのこと。オリンピックなんかよりすごい大会なんだよ」と教えてくれた。

 そして、先輩たちが「次の大会は行くからね」と言った。
 「えっ!? 先輩たち行くんですか? 次はどこであるんですか?」
 「スペインだよ」


4年後のことを、目を輝かせながら先輩たちは語った。すでに就職していた先輩たちは、4年後にどうやって1カ月間休みを取るかも考えているようだった。
 
 「私も行きたい!」
 そのときは、ただ漠然とそう思った。

 サッカーのしろうとだった私は、プレーをひとつひとつ覚えていくのと同じように、国立競技場で行われる国際試合に胸をときめかせるだけでなく、日本リーグだろうが、大学リーグだろうが、河川敷でやっている草サッカーであろうが、時間があればどんな試合でも見に行った。サッカー雑誌を読みあさった。テレビ番組に「サッカー」の文字を見つけるとマークをつけて必ず見た。数少ない情報をひとつ残らず漏らさないようにとしていたように思う。

 そのなかで、サッカーがどれだけ魅力のあるものなのか、世界の人々をどれだけ惹き付けるものなのかを知るようになっていった。

 「次は行く。スペインに行く!!」と呪文のように唱えるようになったのだ。

 大学を卒業してもサッカーから離れたくないために東京に残ったはいいが、定職につけずアルバイトで生活していた私が、経済的な根拠もまったくない中で、「82年はスペインに行く!」と言い続けた。

 ことあるごとに「サッカー、サッカー!!」と言い続けていたら、サッカー専門誌の編集部の方の目に止まり、編集部への出入りが許されるようになった。


 私のサッカー人生の幸運は、節目節目で大きな出会いに恵まれてきたことだ。

 あれよあれよという間に、スペイン行きが目の前に現実のものとして現れた。資金は兄に頼み込んで借金した。

 当時は、まだワールドカップへ行く人は少なかった。サッカー専門誌2誌がツアーを企画していて、それがほとんどだったのではないか。

 そのなかに、4年前に夢のように語っていた先輩2人、私と同期が1人、後輩1人がいたのだ。



 そこで見たものは、まだ若く精神的に未熟だったマラドーナ、プラティニ率いるフランスのシャンパンサッカー、ジーコ、ソクラテス、トニーニョ・セレーゾ、ファルカンの織りなすブラジルサッカーだけではなかった。

 世界のあらゆる国から、この祭典を見るために集まった人びとが、ひとつひとつのプレーに歓声をあげ、スタジアムを揺らし、そこで出会った人たちがサッカーで大きく繋がっていった。そして、そのまっただ中に自分がいた。

 もうそこからは逃れられなかった。

 スペイン、メキシコ、イタリア、アメリカ、フランス、日本/韓国、ドイツ、南アフリカと何かに誘われるように出かけて行った。

 どこの国で開催されるワールドカップに行っても、そこでの主役はブラジルだった。黄色いユニホームを着たファンやサポーターたちが、その国を埋め尽くしていた。

 今度は、そのブラジルへ乗り込んで行くのだ。

 ワールドカップへ行くことが夢だった。日本代表がその地で戦い、それを応援することが夢だった。ひとつひとつ夢が現実になっていった。

 夢にまで見たサッカーの王国ブラジルに行く。


 そして、そこで日本代表がワールドカップを掲げる姿を見るのも、もはや夢ではなくなるのかもしれない。



プロフィール

大原智子(おおはら・ともこ)
三重県伊勢市出身。1976年大学入学と同時にサッカーを始め、卒業後はクラブチームFCPAFを創設した。76年からチキンフットボールリーグ、81年にスタートした東京都女子リーグでプレーし、現在もFCPAFで現役。81年から84年まで日本代表。ポジションはMFだが、日本代表ではDF。クラブでも、チームの必要に応じてFW、DFでもプレーした。選手活動のかたわら、ワールドカップは82年スペイン大会、86年メキシコ大会、90年イタリア大会、94年アメリカ大会、98年フランス大会、02年日本/韓国大会、06年ドイツ大会、10年南アフリカ大会、8大会を観戦している。
著書 『がんばれ、女子サッカー』共著 岩波アクティブ新書
・フリーランス・エディター/ライター

・ハーモニー体操プログラム正指導員、ハーモニー体操エンジンプログラマー

2014年5月22日木曜日

リーグ戦が始まる!




日曜日にリーグ戦が開幕する!

この時期になると、新しいシーズンに向けて、前のシーズンよりも絶対にいいシーズンにしてやるぞという強い思いがみなぎるものだ。そのためにオフシーズンにいろいろなトレーニングにトライをするわけだから。

でも、話はそう簡単ではない。

7年半前に右ひざの手術をしてからは、というより、もう10年近く前から私のひざはにっちもさっちもいかない状態になっていた。だから、毎年、新しいシーズンを迎えるときにも、「ことし1年もつだろうか・・・」というような消極的な思いにとらわれていた。

そういう思いを断ち切るために手術を選択したわけなのだが、術後も状況は好転するどころか手術のダメージから回復できず、術前より悪い状態から抜け出せなかった。

治療家との出会いで、下降線から上昇傾向へ

それがようやく好転しはじめたのが6年前のことだ。整形外科的なアプローチをあきらめたとき、目の前に信頼できる治療家が現れたのだ。そして2年間、その治療院に通い詰めた。下降線をたどっていた状態からようやく上昇傾向が見え始めたが、プレーをしながらの治療では回復への歩みはのろかった。

はじめは、3カ月から半年くらいでもとに戻るだろうと思っていた。でも、「もとってどこだ?」「どうなれば回復と言えるのか!?」。最初の痛みがなくなっても、別の部位が痛みはじめる。何かができるようになっても、次つぎとできないことが出現した。

1歩進んでは2歩戻ったり、3歩進んだと思ったらまた1歩戻ったり、そんなことを繰り返しながら2年が経ったとき、痛みは大きく軽減し、プレーするときに片時も離せなかったひざのサポーターはとれたけれど、どうやって走っていたのか、どうやって蹴っていたのか、わからなくなっていた。痛みをかばう動きが身に付いてしまっていたのだ。

カラダのフルモデルチェンジへ

そのとき、目の前に「動きの師匠」と呼べる人が現れた。

私のサッカー人生の幸運は節目節目で大きな出会いに恵まれてきたことだ。

治療家に身を委ねる時期は終わり、自分自身で痛みのでない動きを見つけて、よりパフォーマンスをあげていくアプローチへと移っていく。

師匠は言った。「これはカラダのフルモデルチェンジです」。補修ではない、新しいカラダに生まれ変わるのだ。なんと希望に満ちた言葉だっただろう。

しかし、「言うは易し」。フルモデルチェンジへの道のりは険しかった。いままで持っていた常識を全部捨てなければならなかった。がんばって、がんばって、がんばってきた30数年間の取り組みをひとつひとつやめていくことから始まった。

毎晩寝る前の300回の腹筋はトレーニングというより習慣みたいなものだった。練習のない日はスポーツクラブに通いマシントレーニングに励んだ。痛みがあっても決して練習は休まず、若い選手と同じ練習メニューをこなした。カラダに厳しくすることが、カラダを楽にすることにつながると信じていた。

「まず、筋トレはやめましょう」
「痛いことはやらない」

師匠は、まずこの2つを私に課した。痛いことをやってはいけないとなれば、練習に行ってもやれることはない。「練習を休まずやる」ことで保っていた私の競技へのモチベーションはどうなってしまうのか。

「失うものなど何もないからすべてを受け入れる」と自分に言い聞かせて始めた取り組みだったけれど、これを受け入れてしまったら自分が自分でなくなってしまう気がした。

筋トレはすっぱりやめた。でも、練習は休めなかった。

とはいえ、師匠が教えてくれたフェルデンクライス・メソッドの動きをベースとしたハーモニー体操というムーブメントは徐々に少しずつではあるが私の動きを変えていった。

痛みに対するアプローチはこの2つだった。
「痛みを探さない」
「痛みから逃げる」

痛いのが当たり前だと思っていた私は、いま思えば、わざわざ痛い動きを選んでいた。「痛みを乗り越えてこそ、何かがある」と思っていた節がある。ほかに道があるとは想像もしていなかった。それは痛みの出る動きをカラダに覚え込ませていたようなものだった。

練習は、ひとつひとつの動きをチェックしていく作業になった。「痛みをかばう」動きと「あえて痛みの出る」動き、それが私のなかに共存していた。「痛みを探さない、痛みから逃げる」動きと「痛みをかばう」動きは根本的に違う。そういうことを理解することから始まった。

師匠が提案してくれた動きを私はすぐに自分のものとして動くことができなかった。けっしてむずかしい動きではないのにできなかった。頭では理解できるけれど、30年以上かけて覚え込んだ動きをカラダは簡単には手放さなかった。

小さなアップダウンを繰り返す

フルモデルチェンジへの道のりは牛のようにのろかった。

1シーズンをかけて、動きを変え、パフォーマンスをあげていこうとしていた。動きが変わるとできるプレーも増える。しかし、できることが増えると、突然の痛みがやってきた。それはあらゆる部位にあらわれた。

激しい痛みに襲われると、治療家の先生に泣きついた。それは私の取り組みでいえば、大きな後退だった。

「良くなってくると、悪いことがやってくる」。シーズン中に小さなアップダウンは何度かあったが、毎年、シーズン開幕前には顕著にあらわれた。オフシーズントレーニングを順調にこなし、新シーズンを迎えるにあたり「ことしこそ!」とワクワクしていると、かならず大きな痛みがどこかにあらわれた。そして開幕に間に合わず、またシーズンをかけて、監督やチームメートの信頼を取り戻すことをしていかなければならなかった。それが3年繰り返された。

カラダと心のバランスが必要だった

その間に私はハーモニー体操の指導資格を取り、人に教えることも始めた。それによって、カラダに対する理解も深まった。人のカラダを見ていると、自分のカラダでは気づかないことがよくわかる。

それなのに、なぜ同じことを繰り返すのか。もしかしたら、それはカラダの問題だけではないのではないか。自分の内にある心が何かしらの暗示をかけているのかもしれない。そう思うに至った。

昨シーズンは、カラダへの取り組みに加えて、心へのアプローチを始めた。「心技体」という言葉はよく使われる。「心」というのは、強い精神力を意味すると思っていた。つらいときにもがんばり抜ける精神力。私はそういうものはまあまあ持っているほうじゃないかと思っていた。「がんばり」だけで生きてきたようなものだ。でも、自分の心にアプローチしていくと、その「がんばり」こそが自分の心をがんじがらめに縛り付け、カラダと心のバランスを崩していることに気づかされた。そこから自由にならなければ、負のスパイラルは繰り返される。

昨シーズン、とくに後半は、カラダのこと、心の持ち方が自分のなかで整理されて、パフォーマンスは上がっていった。

さぁ、いよいよ新しいシーズンが始まる!

お約束のように、悪魔はやってきた。

5月の連休の菅平で突然ひざに痛みがやってきて、走れなくなった。リーグ戦が始まる前の仕上げの大会と位置づけしていたので、かなりショックを受けた。

ただ、いままでと違うのは、冷静に向き合って対処できたことだ。「この痛みはどこからきたものか」と原因をあれこれ考えるよりも、どういうやり方をすれば痛みは軽減されるかということに主眼を置いた。この4年間で痛みから逃げる方法が自分のなかにたくさん蓄積されていた。人のカラダを見てわかったこと、自分のカラダで試したこと、それらを総動員したら、大会期間中に痛みはなくなっていた。

いままでの私とは違うぞ!
どこからでもかかってこい!

日曜日から始まるリーグ戦が楽しみでならない。



プロフィール

大原智子(おおはら・ともこ)
三重県伊勢市出身。1976年大学入学と同時にサッカーを始め、卒業後はクラブチームFCPAFを創設した。76年からチキンフットボールリーグ、81年にスタートした東京都女子リーグでプレーし、現在もFCPAFで現役。81年から84年まで日本代表。ポジションはMFだが、日本代表ではDF。クラブでも、チームの必要に応じてFW、DFでもプレーした。選手活動のかたわら、ワールドカップは82年スペイン大会、86年メキシコ大会、90年イタリア大会、94年アメリカ大会、98年フランス大会、02年日本/韓国大会、06年ドイツ大会、10年南アフリカ大会、8大会を観戦している。
著書 『がんばれ、女子サッカー』共著 岩波アクティブ新書
・フリーランス・エディター/ライター
・ハーモニー体操プログラム正指導員、ハーモニー体操エンジンプログラマー

2014年5月9日金曜日

菅平に来れば思い出す



 5月の3連休を菅平で過ごすようになって何年になるだろう。

 サッカーマガジンが主催するサッカー大会はことしで27回目を迎えたらしい。全国から70チームが集まり、全試合が手入れされた芝生のグラウンドで行われる。

 5月3日の朝は快晴だった。キーンと空気は澄んで、まっ青な空に山の稜線がくっきりと浮かび上がっていた。そして足元は緑の芝生が刈りそろえられたグラウンドがあった。3日間、サッカーのことだけを考えて過ごせる。サッカー選手としてこれ以上の幸福があるだろうか。

 私がはじめてサッカーで菅平を訪れたのは、1985年。正式にこの大会が始まる2年前のことだ。秋に行われていた男子の大会の隅っこで女子3チームが2試合ずつしたのが、この大会の前身と言えるだろう。

 冬はスキー、夏はラグビー合宿で有名だった菅平だけれど、「オフシーズンにサッカー大会を!」とサッカーマガジンが主催して秋に男子の大会を開催していた。

 当時編集長だった千野圭一さんは、女子サッカーの草創期からフェアな目で取材してくれた数少ない記者のひとりだった。その千野さんが男子の大会があるのなら女子の大会もと考えるのは自然だったのだろう。ただ、女子のサッカーチームがまだまだ少なかった時代。もちろん全国リーグもなかった。そんななか、私たちのチームと他2チーム、合計3チームで大会と呼ぶにはあまりにも小さかったけれど、菅平での女子のサッカーが始まったのだ。

 じつは、私は千野さんのことが苦手だった。私がサッカーを始めたころから、会うといつもきびしい言葉をかけられていた。とくに、日本代表として初めて外国チームを招いたポートピア’81大会で、イタリア代表と対戦したときのことだ。0−9で完敗した試合の直後、千野さんは私に「これはサッカーじゃなかったね。相手のケツを追いかけてるだけじゃだめだよ」と言い放ったのだ。

 まだアメリカも中国も女子の代表チームを編成していない時代。ヨーロッパチャンピオンであるイタリアが世界のナンバーワンと言ってもよかった。男子の日本代表でさえ、まだヨーロッパの代表チームとAマッチを組むことすらできなかった時代のことだ。

 それでも、千野さんの目には歴然とある力の差の前になすすべなく敗れた女子日本代表が不甲斐なく、歯がゆく見えたのだろう。それは、いまにして思えば「初めてにしては、よくがんばった」などという言葉の百倍も私たちを認め、期待を込めたものだった。

 その後、日本代表から外れ、全国レベルの試合からも遠ざかった私が千野さんに会えるのは、年にいちど、この菅平の大会だけになった。

 毎年、初日にあいさつに行くと、いつものシニカルな笑みと下町育ちのぶっきらぼうな物言いで迎えてくれた。そして1試合はかならず私たちの試合を見に来てくれて、きびしいひと言をかけていってくれた。

 技術の高い選手は本当に増えた。でも、千野さんはそれだけで選手を評価することはなかった。その技術をどこで使い、それが試合をどう動かし、チームの勝利にどう貢献しているのか、それが選手の価値を決めると考えていたと思う。千野さんと話すときには、いつもそれを感じていた。
 
 おととしの秋、千野さんは58歳という若さで逝ってしまった。

 去年の大会で私のチームは優勝した。そのときに、千野さんの前にサッカーマガジンの編集長だったうちの監督は「千野が見ている」と空を見上げて、目を潤ませていた。

 ことしの大会で、私たちのチームは決勝トーナメント1回戦で敗れた。連覇どころか2日目の2試合目で大会から姿を消すことになってしまった。

 私はことしの方が千野さんの存在をひしひしと感じていた。私の不甲斐ないプレーに何か言いたげな、あのシニカルな笑みがグラウンドの隅っこに見える気がしたのだ。

 菅平に来れば思い出す。


 サッカー選手にきびしく、でも、根っからサッカーが好きだった。千野さんのことを思い出す。


大原智子(おおはら・ともこ)
三重県伊勢市出身。1976年大学入学と同時にサッカーを始め、卒業後はクラブチームFCPAFを創設した。76年からチキンフットボールリーグ、81年にスタートした東京都女子リーグでプレーし、現在もFCPAFで現役。81年から84年まで日本代表。ポジションはMFだが、日本代表ではDF。クラブでも、チームの必要に応じてFW、DFでもプレーした。選手活動のかたわら、ワールドカップは82年スペイン大会、86年メキシコ大会、90年イタリア大会、94年アメリカ大会、98年フランス大会、02年日本/韓国大会、06年ドイツ大会、10年南アフリカ大会、8大会を観戦している。
・フリーランス・エディター/ライター
・ハーモニー体操プログラム正指導員、ハーモニー体操エンジンプログラマー

2014年4月29日火曜日

30th


30年前、私はいまと同じようにサッカーをやり、いまより激しく仕事をしていた。

前日まで通常どおりの仕事をこなし、翌日には練習試合が予定されていた。

母の大好きな小川軒のレーズンウィッチをおみやげのお菓子にしたために、ホテルへの搬入は自分たちでやらなければならなかった。100個以上の箱詰めをホテルに納め、細かい打ち合わせを済ませて自分のアパートの部屋に戻ったときには、古傷のひざが悲鳴をあげていた。

「あしたはハイヒールを履かなきゃいけないんだ・・・」
気持ちはどんどん憂鬱になっていた。

夜はひざの痛みでまったく眠れなかった。
翌日から始まる新しい生活への不安もあったかもしれない。

当日は、ひざの痛みを感じるヒマもなくバタバタと準備に追われた。
慣れない化粧、着付けないドレス、あ〜、ハイヒール・・・。

地方から出てきてくれたおじちゃんおばちゃんたち、パリからわざわざ来てくれたピアニストのいとこ夫婦は、無事にホテルにたどり着けるだろうか。

日本代表の監督や団長、会社のボスや上司の方がたが退屈な思いをされないようにチームメートにアテンドを頼んだ。

式が始まる前に来てくれることになっていたカメラマンの今井さんがまだ着かない。GWの渋滞に巻き込まれているのだろう。

周りの心配をしているうちに式は終わり(まったく覚えていない)、パーティーでは出席してくださったおひとりおひとりに感謝の気持ちを伝えるために各テーブルをゆっくりまわった。

気がつければ、となりに立っている人がみなさんに挨拶していた。

「割れ鍋に割れ蓋のようなふたりですが、がんばっていきますので見守ってください」みたいなことを言っていたと思う。

みなさん、笑っていた。

1984年4月29日、私は結婚し、新しい生活がスタートした。

とはいえ、翌日は別々に自分のサッカーの試合に出かけて行き、日々の仕事に終われる生活はなんら変わりがなかった。

そうやって30年が過ぎた。

ふたりとも30年分、歳を取ったけれど、私はあいかわらず週4回のサッカー、となりに立っていた人も休日にはサッカーに出かけて行く。

走るスピートは落ちたかもしれない。ボールを飛ばせる距離も短くなったかもしれない。

とはいえ、私はあの日よりひざの状態は格段によくなっている。いまはテーピングもサポーターもしないでサッカーできているではないか。

30
周年にあらためて思いを馳せてみたけれど、ただの通過点だと思うに至った。

きのうよりきょう、きょうよりあしたを楽しく生きてやる!

まだまだサッカーうまくなれるぞ!

ってね。

大原智子(おおはら・ともこ)
三重県伊勢市出身。1976年大学入学と同時にサッカーを始め、卒業後はクラブチームFCPAFを創設した。76年からチキンフットボールリーグ、81年にスタートした東京都女子リーグでプレーし、現在もFCPAFで現役。81年から84年まで日本代表。ポジションはMFだが、日本代表ではDF。クラブでも、チームの必要に応じてFW、DFでもプレーした。選手活動のかたわら、ワールドカップは82年スペイン大会、86年メキシコ大会、90年イタリア大会、94年アメリカ大会、98年フランス大会、02年日本/韓国大会、06年ドイツ大会、10年南アフリカ大会、8大会を観戦している。
・フリーランス・エディター/ライター
・ハーモニー体操プログラム正指導員、ハーモニー体操エンジンプログラマー