2000年2月25日金曜日

第41回 自分のチームをつくろう!

 ことしの冬は暖かかったと思っていたら、さすがに2月の最後には身を切るような冷たさがやってきた。しかし、これも冬が最後の寒さをふりしぼったものなのだろう。日差しは日に日に強くなり、そこここに春の息吹が感じられる。仕事場への道はいつも季節を感じさせてくれるが、気の早い桜がもうほころび始めた。

 春はなんといってもスタートの季節だ。新しい学校、新しい学年、新しい職場、新しいシーズン。そして新しくサッカーを始めたい人たち・・・。

 1月のなかばに「神田サッカーナイト」というイベントに参加した。サッカー好きが集まり、テーマを決めてサッカーの話に花を咲かせるというものだが、毎回ゲストを招いて行われている。その日のテーマは「女子サッカーの下部構造」について。女性がサッカーを始めたいと思うときに、どんな環境があるのか、どんな選択肢があるのかという話だ。わたしは、東京都で一チームを運営する者という立場で、ゲストのひとりとして招かれた。

 30人もはいれば満員という場所だったが、男女は半々くらいの割合で、女性が10数人いたと思う。そのほとんどが、最近インターネット上で募集された「初心者の女性を対象にしたサッカー教室」に参加した人たちだった。

 参加者の質問に答える形で会は進められた。「週に何回練習しているんですか」「1回の練習は何時間くらいですか」「練習はどういう所でやっているのですか」「どんな練習をしているのですか」というオーソドックスなものから、「コーチは有資格者ですか」とか「女性だけのチームはうまくいかないと聞きましたが、どうですか」とか「妊娠中なんですけれど、サッカーは続けられますか」といったユニークなものまでいろいろあって楽しかった。ひとつひとつの質問に丁寧に答えていたらあっという間に時間がたってしまった。

 会が終わったあとで、わたしはなにかもの足りなさを感じていた。彼女たちはたしかに熱心ではあるが、サッカーに対して消極的ではないかと思えたのだ。インターネットを通じて集められたというそのサッカー教室には40人以上が参加したという。しかし、「コーチの教え方が合わない」「レベル差があって楽しめない」「サッカーに対する考え方が違う」など不満も多く聞かれた。

 わたしはここで提案したい。「自分たちでチームをつくろう!」

 もちろんサッカーはひとりではできない。しかし、選手11人以上と監督、コーチがいてはじめてチームができる、と考える必要はない。気のあった仲間数人が集まって、とりあえずチームをつくってしまおう。数人なら公園や河川敷などで気軽に練習ができる。試合がやりたければ、5人いればフットサルの大会に出ることができる。フットサルコートに問い合わせれば、どこでも独自の大会を頻繁に開催している。

 だれかが用意してくれるのを待っているだけでは、なにも始まらない。

 サッカーは単純なスポーツだ。足でボールを運んでゴールに入れる。ただそれだけで、楽しい。理屈抜きで楽しい。まず、存分にその楽しさを味わってもらいたい。すべての原点はそこにあるからだ。

「やっぱりサッカーは正規のグラウンドで11人でやりたい」のであれば、たとえばフットサルの大会で知り合ったチーム同士で11人のチームをつくることもできるだろう。チームを運営していくうえで、どうしても監督やコーチが必要になるかもしれない。チーム内でいろいろな問題も起きてくるだろう。しかし、それもこれもサッカーをやりながら考えていけばいいことなのだ。

 春はそこまで来ている。とりあえず外に出て、ボールをけってみよう。

2000年2月11日金曜日

第40回 「きっかけ」はどこかにある


「うわっ、これじゃうちのチームと同じじゃない!」

 日本代表は、香港でカールスバーグカップを戦っていた。

 WOWOWが、がんばって生中継で放送してくれたにもかかわらず、2試合とも自分のチームの練習時間と重なったために、わたしはやむなくビデオ録画での観戦となった。しかもメキシコ戦は、練習で疲れ切って帰ってきたあげくにニュースで結果を知ってしまったので、いつものように身をのりだして試合にはいり込むことはできなかった。

 その教訓を生かして、香港選抜戦はすべての情報を遮断して「これは生中継なのだ」と自分に言い聞かせて見た。すると、同じ疲れた体でも全然違う。チャンスやピンチに一喜一憂し、立ち上がったり、へたりこんだり。ハーフタイムには録画ということをすっかり忘れていた。トイレに行ったり、お風呂の準備をしたり、ビデオを早送りすることなく後半のキックオフの笛を聞いた。

 懸命の応援もむなしく0-0で90分間を終え、試合はPK戦に。日本代表は第3キッカーの中村のシュートがバーの上を越え、香港選抜はノーミスで5人目のキッカーを迎えていた。これがはいると日本の負けが決まる。
 このとき、冒頭の言葉がわたしの口をついて出た。

 先週の日曜日に行われた試合で、わたしのチームはPK負けを喫した。内容的にも負けるはずのない試合を引き分け、PK戦では同じように第3キッカーがはずしたのだ。

 例年ならいまの時期は新シーズンへの準備期間。1年間を戦い抜く体づくりとチームづくりに精を出しているころだ。しかし、ことしは東京都サッカー協会女子委員会設立10周年を記念する大会が急に開催されることになった。そして、その初戦でつまずいた。

 去年からつまずきの連続だったわたしのチームは、ことし最初の公式戦でも立ち直ることができなかった。

 結局、カールスバーグカップの日本代表とわたしのチームは同じじゃなかった。香港選抜の5人目がPKをはずし、日本代表は土壇場でPK戦の勝利をものにした。わたしは大きな声で「やったあ!」と叫び、「よし!」とうなずいた。

 日本代表の選手たちは、心からの笑顔だった。試合内容はけっして満足できるものではなかったし、「勝ち」か「負け」かは相手の1本のキックにゆだねられていた。しかし、そうしてつかんだ勝利の意味の大きさをだれもが感じていた。

 わたしのチームが迷路から抜け出るためには、なにが必要なのだろうか。修正すべき問題点をあげたらきりがない。短期間でそれがすべて克服できるかというと、絶望的だ。しかし、もしかしたら、紙一重のところに「きっかけ」が隠れているかもしれないのだ。

 絶望からはなにも生まれない。新シーズンに向けて、新しく生まれ変わったチームで一から始めよう。あせらずひとつひとつ積み上げていくなかで、きっと目の前がぱあっと明るくなるときがあるに違いない。

 日本代表選手たちの笑顔が、わたしを勇気づけてくれた。

2000年1月28日金曜日

第39回 さあちゃん伝説

 1月16日日曜日、国立競技場は曇り空、いまにも雪が降りだしそうだった。第21回全日本女子選手権大会決勝は「プリマハムFCくノ一対田崎ペルーレFC」、第1シードと第2シードが順当に勝ち上がってきていた。

 「よく降ったよね、雪」。わたしたちは20年も前のことをきのうのことのように思い出していた。第1回大会も第2回大会も雪に見舞われた。第3回大会もみぞれまじりの冷たい雨が降った。そのころは3月に開催されていたのだが、東京の3月はよくなごり雪が降ったものだった。

 思い出話をしながらいっしょに試合を見たのは、現在のチームメートではなく、当時のチームメートやライバルチームだった人たち、そしてそのころ日本代表として同じチームでプレーした仲間たちだ。

 わたしたちの応援の標的は田崎ペルーレのDF山口小百合だ。山口もまた、わたしの日本代表仲間なのだ。

 試合はプリマハムのペースで進んだ。プリマハムの攻撃は多彩だ。大きなサイドチェンジあり、俊足FWのドリブル突破あり、枠をとらえたミドルシュートもある。田崎は全員でよく守る。GKも何度もファインセーブを見せる。

 山口は守備のリーダーとして、マークのズレを修正し、危険なところには必ず現れる。とにかく山口の守備はすごい。自陣ゴール前の混戦では迷わず身を投げ出す。相手の足があろうがダイビングヘッドで飛び込む。ペナルティーエリアからのヘディング・クリアはセンターサークル付近まで飛び、味方につながってしまう。

 わたしは思わず「さあちゃん(山口小百合)、ナイス」と立ち上がって拍手を送る。

 わたしの脳裏には17年前の代表合宿のことが浮かぶ。練習が終わったあと、山口がおもむろにゴール内のゴールライン上に立ち、何人かに次つぎとシュートを打たせる。それをすべてヘディングでクリアするのだ。淡々と、一日の練習を締めくくるかのように。

 ケガの歴史も並大抵ではない。最初の大きなケガは1987年3月、第8回全日本選手権大会を目前に控えた練習試合のときだ。相手のタックルをかわそうとジャンプして着地に失敗し、ひざをひねった。左足ひざ前十字靱帯断裂だ。しかし、当時の医者は「内側靱帯をのばした」という診断だった。テーピングをして全日本選手権大会に出場し、清水第八スポーツクラブ(当時のチーム)の7連覇に貢献した。「そのころの第八は本当に強かったから、DFのわたしが活躍する機会はほとんどなかったから」と、こともなげにいう。

 その後も、ほお骨陥没骨折(92年)、右足ひざ前十字靱帯断裂(95年)と大きなケガに見舞われたが、いつも予定どおり復帰しケガの前と変わらないプレーを見せた。

「ほお骨陥没骨折のときはヘディングがこわくなるかなと思ったけど、こわがらずにやろうと自分に言い聞かせてやったら、全然平気だった」

「右足ひざ前十字靱帯断裂のときはショックだった。半年で復帰して、さあこれからだというときに、チーム(鈴与清水)からクビをいいわたされた。当時はプロ契約だったが、お金も何もいらないからチームにおいてほしい、といったけどだめだった。仕方ないから、そのときいちばん自分に合うサッカーだと思った田崎に移籍した」

 試合は0-0のまま延長でも決着がつかず、PK戦になった。田崎の第1キッカー山口はインステップで左隅にけり込んだ。結局PK4-2で田崎ペルーレが初優勝を決め、ウーマン・オブ・ザ・マッチには山口が選ばれた。

 山口小百合、33歳。第2回大会から連続20回出場し、そのうち優勝9回(清水第八7回、鈴与清水1回、田崎1回)、準優勝3回(清水第八1回、清水FC1回、鈴与清水1回)、MVP2回(第5回大会、第21回大会)という輝かしい経歴が語るように、トップレベルのなかのトップを走り続けてきた。

「与えられた練習をただ全力でやるだけ。そして、あとは気持ち」

 山口は淡々と語る。しかしこの「全力で」と「気持ち」という言葉のなかにカギがあるように思う。

 ただ漫然と練習するのでは意味がない。ひとつひとつの練習の意味をすぐに理解し、その意味をふまえて自分を甘やかすことなく、サッカーへの強い気持ちをもって全力で取り組む。そして最後は、その気持ちの「強さ」で決まってくるのかもしれない。

全力で、強い気持ちで・・・。

2000年1月14日金曜日

第38回 一年の計は元旦にあり

 ことしのお正月は、三重県伊勢市にある実家で迎えた。東京のマンションのベランダから見える小さな空とは違って、実家の屋上にのぼると周囲360度に視野が開ける。東の方角にある伊勢神宮の森が赤く色づき、やがて太陽が現れた。静かに、おだやかに2000年が明けた。

 「一年の計は元旦にあり」
 ここ4、5年、考えることはひとつだった。ことしもサッカーを続けることができるだろうか。無事一シーズンを戦い抜くことができるだろうか。そのためにはこうしなければ、ああしなければと、自分にいろいろな課題を与えてきた。そして、「ことしもがんばるぞ」と自分をふるいたたせてきたのだ。

 サッカーを始めたのは大学1年生のとき、いまから24年前のことだ。最初の4年間は大学のチームでプレーした。1980年、大学卒業と同時にいまのチームをつくった。
 ことし、わたしのチームは創立20周年を迎える。

 最初は、クラブチームでありながら、大学のチームそのままだった。毎年、卒業生がはいってくれば、延々とチームは続いていく。そう思っていた。しかし、4年で破綻した。卒業したらサッカーをやめてしまう。サッカーを続けてはみたものの、仕事との両立ができずにやめてしまう。あっという間に人数が足りなくなった。

 クラブチームとして広く一般に部員を求めたが、グラウンドもなく、監督もコーチもいないようなチームにはいってくる人はいなかった。

 サッカーは11人いなければできない。わたしはどうしてもサッカーがやりたかった。そのためにはチームを存続させなければならない。そのころのわたしにとって、サッカーをするための命題は「チームを運営すること」だった。

 まず監督探しから始めた。「仕事が忙しいから無理」といわれたのを「アドバイザーとしてでいいから」と強引に頼み込んだ。選手は、ライバルチームを何年も前にやめた人を次つぎと引きずり込んだ。当時は仕事をしながらトップチームでプレーすることはできないという風潮だったのだ。20歳そこそこで選手をやめてしまう人のなんと多かったことか。
 わたしは自分の勝手でとにかく選手を集めたかったのだが、一方で、だれでもがサッカーを続けられる環境をつくりたかった。

 そんなチームだから、練習は多くて数人、少ないときはひとりということもめずらしくはなかった。試合だけしか来れない人がチームの半数以上だったときもある。それでもチームの目標は一環して「リーグ優勝と全日本選手権出場」を掲げてきた。わたしは少ない人数のときも、よそのチームの練習に参加させてもらいながらも、その目標を励みに意識を高くもち続けた。

 10年くらい前から、グラウンドを確保するノウハウを身につけ、週3、4回練習できる環境を整えてきた。それにともなって新しい若い選手がはいってくるようになった。
 チームの力も徐々に高くなり、昨年は初めて関東リーグにも参加した。

 かつてはわたしのチームを「象の墓場(全盛期を過ぎた選手が終わる場所として選んだ)」と呼ぶ人もいた。しかしいまは、「ゆりかご」であり、「才能を花開かせるところ」でもある。

 20年の間には頂点があり、どん底があり、でこぼこ道があり、なだらかなのぼり道があった。わたしはそのすべてを経験できたことをとても幸運に思っている。そのひとつひとつがわたしを「サッカー選手」にしてくれたのだと思う。

 ことしの元旦はいろいろな課題を自分に与えるのをやめた。「2000年」「20周年」というだけで新しい命の息吹を感じるからだ。わたしはことしもただひたすらボールを追っていく。中学生や高校生のチームメートと同じボールを。それがわたしのもっている20年間を伝えていく唯一の方法だと信じているからだ。

1999年12月17日金曜日

第37回 世界デビュー




 12月にはいると、ドミノ倒しのように一日一日が過ぎていく。毎年のことなのだが、ことしはなかなか寒くならなかったせいか、気がつくともうこんな時期になっていた。

 「2000年まであと××日」。世間は毎日が2000年へのカウントダウンだ。

 しかし、わたしたちはすでに2002年への幕開けをしてしまった。
12
月7日、2002 FIFA World Cup Korea/Japan予選抽選会が東京国際フォーラムで行われた。予選に参加するのは195カ国。2年間にわたって本大会への29の切符をかけて戦う。その第一歩が始まったのだ。

 会場には海外から約100人、国内から約200人の記者と約100人のカメラマンが取材に訪れ、ペレ、ボビー・チャールトン、ベッケンバウアー、プラティニらビッグネームがゲストとして顔をそろえた。ワールドカップならではの雰囲気だ。

 この華やかな序章を日本のどれだけの人たちが楽しむことができただろうか。テレビの生中継はあったものの、地上波ではなくNHK衛星放送だった。多くの人たちの関心を集めているとはいいがたい。わたしたち日本人は開催国なので、予選を戦う必要がない。抽選会のなかに日本は登場しない。しかし、わたしたちの2002年ワールドカップはここから始まっている。

 これだけ多くの国が日本と韓国をめざして、これから戦っていくのだ。思い出してみよう。98年フランス大会の予選のとき、わたしたちはずっと「フランスへ行こう!」と歌い続けた。これから195の国で、195の国の言葉で「日本へ行こう! 韓国へ行こう!」と歌われるのだ。考えただけでもぞくぞくとしてくる。

 この地域のこのグループからはどの国が勝ち上がってくるのだろうか。地図帳をめくり、地球儀をまわし、どんな言語が使われているのか調べたりするのだろう。そうすれば、地球上のほとんどの国が日本をめざして予選を戦うということがわかるはずだ。そして、どの国もいままでよりずっと近く感じられるのだろう。

 年末にはやらなければならないことがある。開催都市に住む遠い親戚や遠い友人を探して、年賀状を書こう。ご無沙汰をわびて、ワールドカップへの思いを一言添えよう。きっと2年後にはお世話になるのだろうから。いや、開催都市だけではない。キャンプ候補地も要チェックだ。2002年に向けてやることは山ほどあるのだ。

 さて、今回の抽選会で日本の若きスターが世界にデビューした。正確にいうと小野伸二は98年フランス大会のジャマイカ戦に18歳でデビューした。しかし、15分間というあまりにも短いものだった。小野が本当に世界に強い印象を与えるのはこれからだろう。2002年のピッチには、押しも押されもせぬワールドクラスの選手として立っているに違いない。

「J2落ちが決まっても温かい声援を送ってくれたファンに応えるように、レッズは天皇杯を勝ち進んだ。2000年1月1日、国立競技場は真っ赤に染まった。試合後、ロイヤルボックスの中央で、天皇杯を頭上にかかげる小野がいた。翌日、小野はイングランドに旅立った」

 わたしはこんな初夢を見たい。ドミノ倒しのような年末の日々のなか、天皇杯からも目が離せない。

1999年11月26日金曜日

第36回 落ちそうで落ちない

 Jリーグもいよいよ大詰めだ。

 J1第2ステージはあと1節を残して、清水エスパルスが優勝した。チャンピオンシップをジュビロ磐田と戦って、99Jリーグ優勝を決める。J2は21日(日)に行われた最終節まで2位争いがもつれこみ、結局、優勝が川崎フロンターレ、2位がFC東京となり、この2チームがJ1への昇格を決めた。

 そしてことしから、シーズン総合順位でJ1の15位と16位が自動的にJ2に降格するために、熾烈な残留争いが最後まで繰り広げられている。ベルマーレ平塚は最下位が決まってしまったが、残るひとつにならないようにアビスパ福岡、浦和レッズ、ジェフ市原の3チームがしのぎを削っている。

 土曜日に行われる最終節から目が離せないが、わたしとしてはレッズとジェフが残ってほしいと思っている。それは本当に個人的な理由なのだが、そんなわたしの心を見透かしたように、福岡に住む友人からメールが届いた。

「東京にもいよいよJ1チームが誕生おめでとう! 九州人になりつつあるわたしは土壇場で大分が昇格できずに残念です。それに、ことしは(アビスパは)ぜんぜーん大丈夫、とみんなダイエーの応援に忙しかったせいか、アビスパがまたまたピンチでどうしてくれる?」

 そうだ、アビスパが落ちると九州からJ1のチームがなくなるということなのだ。九州の人からJ1観戦の楽しみを奪ってしまうことなのだ。自分の了見の狭さを恥じた。とりあえずわたしは、FC東京の昇格を大いに喜び、残留をめざす3チームにはニュートラルな気持ちで応援しようと思う。

 それにしても、FC東京には最後にきてやきもきさせられた。J2は10チームで4回戦総当たりでリーグ戦を行っている。9試合を4回、合計36試合の長丁場だ。FC東京は3回戦までは実に安定した戦いをしていた。1回戦は5勝2分け2敗、2回戦は7勝2敗、3回戦は6勝1分け2敗。しかし、4回戦は3勝6敗という成績だ。

 9月25日から始まった4回戦は、ちょうどナビスコカップの準決勝と時期が重なった。J2の首位をキープしていたFC東京は、ナビスコカップ準決勝でもレベルの高い戦いを見せて、昨年の王者鹿島アントラーズと互角にわたりあった。それは、FC東京が来シーズンは当然J1でプレーし、しかも遜色なく戦えることを示していた。

 しかし、その過密な日程がFC東京のリズムを狂わせることになった。第4回戦の成績が表すとおりだ。最後までリズムを取り戻すことはできなかったが、あきらめない強い気持ちと運がFC東京にJ2・2位をもたらしたのだと思う。 

 一シーズン戦い抜くということはなんとむずかしいことだろうか。わたしのチームのような町のクラブではなおさらだ。

 わたしたちはいま、山あり谷ありの長いシーズンのまっただ中にいる。FC東京になれるのか、レッズなのか、ジェフなのか、アビスパなのか。シーズンが終わったときに、はっきりと結果は出るが、いまはあきらめない強い気持ちで戦い続けたい。そうすれば、運を呼び込むこともできるのだろう。

 ところで、去年ぎりぎりのところでJ1残留を決めたアビスパは、「落ちそうで落ちない」お守りとして、選手のサイン入りフラッグを受験シーズンの福岡市内の公立中学に贈った。友人の息子はそのおかげ(?)で無事高校に合格できたそうだが、ことしの受験シーズンにアビスパのフラッグは中学校ではためいていられるのだろうか。

1999年11月12日金曜日

第35回 風穴をあけたゴール

 「勝つ」というのは本当にむずかしい。
 ことしのわたしのチームはつまずきだらけだ。プレシーズンの大会は得失点差で1位リーグに進むことができなかった。5月の菅平大会では、ベスト16で敗れた。リーグ戦の前半戦では思わぬ1敗を喫した。全日本選手権の東京予選では、準々決勝敗退という最近にない悪い成績だった。どの大会も去年の成績を下回った。

 思わぬ成績の悪さから、夏のシーズンオフの期間が3カ月もあった。10月から始まる後期リーグに向けて、チームとして万全の準備をして夏を過ごしたはずだった。合宿もしたし、練習試合も数試合組んだ。しかし、練習試合でも全然勝てない。準備のための練習試合だから、勝敗はそれほど問題ではない。少しずつ修正をしながら調子が上向いてくればいいと思っていた。そして、シーズンイン。

 初戦からつまずいた。引き分けてしまったのだ。前期に負けていた相手だから、引き分けは上向きともいえるが、リーグ優勝するためには絶対に勝たなければいけない試合だった。そして、第2戦。前期はホームで4-0の勝利を収めたチームに、アウェーで2-5と大敗した。決定的に打ちのめされた。

 目標をもって練習してきた。コンディションも悪くない。わたしにはなにが悪いのかよくわからない。ちょっとずつ歯車がずれているのだ。「なにか」のきっかけでかみあうようになるはずだ。そう信じたかった。わたしは髪を極端に短く切った。

 11月3日はめずらしく公式戦も練習試合もないオフ日だったので、国立競技場に出かけた。ナビスコカップ決勝、柏レイソル対鹿島アントラーズだ。ナビスコカップは4月に1回戦が始まり、半年以上もかけてJリーグの合間に行われるので盛り上がりに欠ける。ひとつでもいいプレーが見られればと思っていたが、予想以上にエキサイティングな試合だった。

 前半、レイソルはすばらしい攻撃を見せた。前半5分、右サイドからの酒井の完璧なセンタリングに大野が合わせて先制ゴール。その後も多彩な攻撃で何度もチャンスをつくり攻め続けた。しかし、追加点は奪えなかった。後半は一転してアントラーズのペース。後半17分に柳沢からビスマルクに渡り同点ゴール。2分後にはいい位置でのFKを阿部が決めて逆転した。だれもがアントラーズの優勝だと思ったとき、ロスタイムもほとんど残っていないそのとき、レイソルの渡辺毅の矢のようなシュートがゴールにつきささった。このままでは終わらせないという気持ちがそのままボールに伝わったゴールだった。

 試合はPK戦でレイソルが勝った。120分間と6人ずつがけったPK戦の間中、どきどきワクワクのしどうしだった。両チームが最後まであきらめずに必死で戦う姿に大きく勇気づけられた。そして試合後、敗れたアントラーズのサポーターが選手たちの健闘を大きな拍手でたたえただけでなく、最後のPKをはずした小笠原に対して、何度も何度も小笠原コールを繰り返して励ますのを見て心を打たれた。サッカーの美しさを堪能した試合だった。頭だけでなく、心も晴ればれとして軽くなった。

 先週の日曜日は後期リーグ第3戦。前期はアウェーで7-0で勝った相手とのホームゲームだった。前半からほとんどボールをキープして攻め続けたが、なかなか点がはいらない。相手チームも前期のようには点を入れさせない、と必死だったのだろう。

 わたしたちは辛抱した。ボールのあるところで一人ひとりが戦った。あきることなく何度も攻めた。右から左から攻撃し続けた。後半12分、ようやく攻撃が実った。風穴があいたようなゴールだった。終了間際にも得点し、2-0で勝った。

 久しぶりの勝利だった。会心の勝利とはいえないが、みんなの心のつかえが取れたような勝利だった。

 いままでわたしたちは強いチームに勝つことにターゲットをしぼって、それを目標にリーグ戦を戦おうとしてきた気がする。それはわたしたちのおごりだったかもしれない。どんな相手にも「勝つ」ということは簡単なことではない。それがわかっただけでも今シーズンの意味があるのかもしれない。

 残りの試合、1試合1試合を必死に戦っていこう。最後まであきらめず辛抱強く戦えば、結果がどうあれ、すがすがしい気持ちでシーズンを終われるに違いない。