1999年2月26日金曜日

第17回 「階段」を昇る権利


 昨年の10月29日に「マリノス・フリューゲルス合併」が発表されてから3カ月半の間にいろいろなことがあった。

 フリューゲルスの選手は、残りの試合を精一杯戦うことが、自分たちにできる唯一のことなのだというようにすばらしい戦いを見せ、本当に最後まで勝ち続けて、天皇杯に優勝するという劇的な最後を飾った。

 サポーターたちは、まず団結して合併に反対し、次にはなんとかフリューゲルスの名前を残すためにいろいろな交渉の席についた。そして新しくチームをつくるというところにたどり着いたのだ。
 「横浜FC」と名付けられたそのチームはフリューゲルスになれるのかどうかはわからない。しかし、限られた短い時間のなかで「JFLに参加か?!」というところまで漕ぎ着けたフリューゲルス・サポーターたちの実行力には心から敬意を表し、拍手を送りたい。

 ここのところ「横浜FCのJFL参加の是非」をメディアが報道するたびに、サッカー界のピラミッド式の構造が紹介される。
 底辺に都道府県リーグがあり、その上に地域リーグ、JFL、J2、J1とつながっていく。それはだれもが頂点まで続く「階段」を昇る権利があるということだ。

 わたしがサッカーを始めたころは、女子のサッカー人口は非常に少なくて、都道府県リーグもごくわずかのところでしか行われていなかった。わたしは東京都リーグでのプレーを認められて、日本代表や日本選抜のチャンスを与えられた。

 もちろん、いまの代表のレベルと比べると雲泥の差がある。それでも代表や代表候補の合宿や遠征に参加すると、高い次元で刺激を受け、いままでやったことのないようなプレーができるようになって帰ってきたものだ。少なからずチームにも影響を与えられたのではないかと思っている。

 10年前に現在のL・リーグが天から降ってきたように発足した。頂点であるL・リーグは年々レベルを上げ、日本代表のほとんどがそこから選ばれるようになった。都道府県リーグとL・リーグの間には道も階段もなかった。わたしのチームの次の世代の選手たちは代表や選抜といった目標をもてなくなっていった。

 4年前に関東リーグができた。関東8都県のリーグの優勝チームが集まり、ホームアンドアウェーの2回戦総当たりのリーグ戦を行い、関東リーグの順位がどうあろうとシーズンの終了後には各都県に戻って、各都県リーグの優勝チームと入替戦を行うというものだ。

 4月に始まる新シーズンから、わたしのチームは関東リーグに参加することになった。リーグ運営費や遠征費などの経費の増加もさることながら、グラウンド確保は最も頭の痛い問題だ。年間のスケジュールを確定するために、ホームゲーム7試合分の雨でも使用できるグラウンドを4月には提示しなければならない。それは東京の一介のクラブチームだけの力では不可能なことだ。情熱やがんばりだけではとうてい克服できない問題なのだ。それでも、みんなで話し合ってやってみようと決めた。

 わたしのチームのように何の母体もない、ただの町のクラブチームが上のリーグをめざすとき、東京都協会や女子委員会のバックアップが必要不可欠だ。協力を得るためなら、どこにでも出かけて、どんなつてでも頼って、頭を下げてお願いしたいと思っている。もしわたしたちがこのシーズンを無事に戦い抜くことができたなら、東京都のどんなチームにも上をめざすチャンスがあることを示すことができるのだ。

 選手はいつも楽しくプレーしたい、うまくなりたいと努力し、上をめざす。クラブは選手をよい環境で、高いレベルでプレーさせたいと思う。それを地域が少しでも支えることができれば、少しずつでも底辺を広げ、レベルを上げていくことができるのではないか。

 「横浜FC」もサポーターたちの熱い情熱と各方面からのバックアップがあってここまで来た。しかし、これからは神奈川県協会や横浜市によりいっそうの協力関係を得るための努力をしていく必要があるのだろう。

1999年2月12日金曜日

第16回 どんな環境でも、前を向いて

 今週の「サッカーマガジン」では、高校や大学を卒業した新加入選手や新しいチームに移籍した選手たちが表紙やグラビアを飾っている。慣れないユニホームを着て、ちょっと照れながら、しかし希望に満ちた目をしたその姿は、Jリーグの新シーズンを大いに期待させる。

 しかしその一方で、新シーズンをよりきびしい状況で迎えなければならない選手もいる。マリノスとフリューゲルスの合併やベルマーレなどの大量放出により、例年より多くの選手が移籍し、活動の舞台をJリーグから新しいJ2へ、JFLから地域リーグへと変えざるをえなくなっている。

 L・リーグはもっときびしい状況だ。98年のL・リーグの途中で日興證券とフジタが撤退を発表した。L・リーグはリーグ終了後の理事会で99年からは外国人選手を登録しないなど、規模を縮小して8チームでやっていくことを話し合った。しかし、1月に全日本選手権が終わったとたん、シロキと鈴与清水が次つぎと撤退を発表した。

 鈴与清水は1月18日にシーズンの納会を行い、新しい監督、コーチを発表し、来季へのスタートをきっていたそうだ。撤退の発表は、そのわずか4日後の1月22日のことだった。

 L・リーグは、1989年に初の全国リーグ、日本女子サッカーリーグとして発足した。

 80年代の女子サッカー界をリードしたのは清水第八だった。唯一の全国レベルの大会であった全日本選手権では81年から87年まで7連覇を達成していた。そして80年代後半には、東京の読売ベレーザが急速に力をつけていた。しかし年にいちどの大会ではレベルアップも限りがある。だれもが全国リーグが必要だと感じていた。

 1988年わたしのチームは東京都1部の上位リーグを戦っていた。東京都1部リーグは8チームのうち上位4チーム、下位4チームに分かれて2回戦総当たりを行っていた。そして89年のある日突然、上位リーグ4チームのうち読売ベレーザ、日産レディース、FC小平の3チームが日本リーグへ行ってしまった。当時の混乱ぶりは、その3チームが89年には東京都リーグと日本リーグの両方に参加していたこと、いっしょに戦っていたわたしのチームには日本リーグから何の話もなかったことなどに表れている。

 清水においては、圧倒的な強さを誇っていた清水第八の主力選手がごっそりと清水FCに移籍、後日の清水エスパルスとまったく同じ経過で清水FCが日本リーグに参加することになった。

 関西では全日本選手権で89年準優勝、90年優勝の強豪・高槻女子は結局日本リーグにははいらず解散し、歴史と実力を兼ねそろえた神戸FCと、歴史はあるが全国的にはまったく無名の伊賀上野くノ一が参加した。

 強権を発動したり、かなりの無理をして6チームで始まった日本リーグだが、各チームがスポンサーのバックアップのもと、ワールドクラスの外国人選手を補強し、チームも10まで増え、この10年間で世界でもトップレベルのリーグになった。個々の選手が世界の名だたる選手と練習したり、対戦したりすることによって、急速にレベルアップし、日本代表の強化に果たした役割はいうまでもない。

 リーグのレベルが上がり、規模が大きくなるとともに膨れ上がった経費は1チームあたり年間数億ともいわれ、それが今回の4チーム撤退につながることになった。来季もリーグを存続させるためには、大幅な規模の縮小を余儀なくされ、そのひとつとして各チームが外国人選手を登録しないことを申し合わせたのだ。

 「これは日本代表強化の危機だ」
 日本代表の宮内監督はテレビでこう語った。
 しかし、わたしは必ずしもそうは思わない。

 何人かの選手はより高いレベルを求めて外国へ飛び出すかもしれない。外国リーグでプレーが経験できれば、単に技術の向上だけでなく、サッカー選手としての幅を広げることになると思う。

 たしかに、多くの選手はいままでより悪い環境でサッカーをしなければならなくなる。しかしそれはマイナス面ばかりではない。いままで当然のように与えられていたサッカーへの時間と好環境。しかし、これからそれを苦労してつくり出さなければならなくなったとき、その時間がいとおしく大切に思えるはずだ。いままで以上に集中してサッカーに取り組むようになるのではないだろうか。

 そうできるかどうかで、サッカー選手としての本当の価値が決まる。ここでしっかり踏みとどまって根づいくことができれば、日本代表はいままでにない強さをもつことになるはずだ。

 ことしは日本サッカー変革の年といわれる。凋落の一歩になるか、飛躍の一歩になるか。それはわたしたち選手一人ひとりにかかっていると思う。

1999年1月15日金曜日

第15回 万全の準備を整えて、ことしこそ!

 毎年元日は初もうでがわりに国立競技場に出かける。ことしは横浜フリューゲルスの天皇杯優勝によって、いつもとはちょっと違う感慨をもって新年を迎えた気がする。

ことしの日本のサッカーはどうなるのだろうか。世の中の景気の浮き沈みに左右されることなく、一歩一歩着実に根づいていってほしい。98年のワールドカップ出場が頂点だったなどということにならないように。それが最初の一歩なのだから。

 天皇杯決勝や高校選手権の陰に隠れてなかなか話題にのぼらないが、女子の天皇杯ともいうべき全日本女子サッカー選手権大会も1月に行われ、ことしで第20回を迎えた。ここでも同じようにフジタや日興證券が最後の戦いを繰り広げている。

 現在はLリーグの10チームと、全国9地域の予選を勝ち抜いた9チームに前年度優勝地域からもう1チームの合わせて20チームが参加し、準決勝まで全国各地で、決勝のみ東京の国立競技場で試合を行う大会方式になっている。

 わたしが所属するチームは1年間の目標をこの大会に出場することに置いている。東京選手権で2位までにはいり関東選手権に進み、そこで優勝しなければ全日本選手権に出ることはできない。東京都を勝ち抜くことすら簡単なことではなく、89年以来10年間も全日本選手権とは縁がない。

 というわけで、わたしのなかの全日本選手権というのは、むかしむかしのお話になる。いまでもなつかしく思い出されるのは、第3回大会のことだ。

 1982年3月。チームを創立して2年目のことだ。
 当時は東日本から3チーム、西日本から3チーム、東海から2チームの合計8チームが東京の西が丘サッカー場で2日間で決勝まで行うというすごい日程だった。

 わたしのチームは東京予選を5位、東日本予選を3位という、予選を勝ち抜くための最低の順位でかろうじて全日本選手権までたどりついていた。1回戦は西日本第1代表の西山高校だった。わたしたちは1回戦に勝つことを目標にしていた。結果は2-1の勝利。試合後のロッカールームは優勝したような騒ぎだった。そこに翌日の準決勝の相手チーム、前年度準優勝で東日本第1代表FCジンナンのマネジャーがユニホームの打ち合わせにはいってきた。

 「わたしたちは決勝でプーマの白のユニホームを着なければならないことになっています。準決勝では青を着たいのですが・・・」

 淡々と事務的に話すその言葉を聞いて、わたしたちはお祭り騒ぎから一転して頬を平手打ちされたような衝撃を受けた。

 だれもが決勝は前年度と同じ対戦カードの東海第1代表の清水第八とFCジンナンの戦いになると予想していた。わたしたちも大会前はそう思っていた。しかし、試合をする前から当然勝つつもりでいるなんて・・・。1回戦を勝って満足していたわたしたちに新たな闘志が芽生えた。

 翌日は雨になった。西が丘サッカー場は立派な芝生のグラウンドだが、その日は田んぼのような状態だった。FCジンナンのパスをつなぐサッカーはほとんど実を結ばず、互角の戦いになった。両者泥まみれになりながら0-0で終了。PK戦でわたしのチームが勝利を収めた。

 ふたたびロッカールームは優勝したような騒ぎになったが、すぐに我に返った。だれも2試合分の着替えをもっていなかったのだ。ユニホームだけは2着もってきていたが、ストッキングと下着の替えがなかった。試合に出なかったチームメートがコインランドリーと買い物に走ってくれて、やっとのことで数時間後の決勝を迎えた。

 決勝は清水第八との対戦になったが、実力差に加え準備不足も手伝って、なすすべなく0-6で敗れた。このスコアは決勝戦における最大得点差(タイ記録)としていまでも大会史上に残っている。

 全日本選手権準優勝という晴れがましい経歴を思い出すとき、同時にすべてにおいて未熟だったころの自分が甘酸っぱくよみがえる。あのころは監督もコーチもいなかった。いまは監督やコーチにも恵まれ、技術的にも、練習や試合に臨む姿勢も格段に進歩していると思うのに、全日本選手権への道は遠く険しい。

 シーズン開幕まであと3カ月。あいかわらずユニホームも遠征費も自己負担のクラブチームだ。チーム力を上げることはもちろんだが、全日本選手権貯金も始めよう。万全の準備をして、ことしこそ全日本選手権へのキップを手にしたい。

1998年12月25日金曜日

第14回 自分の身体と相談するということ


 カズのクロアチア・ザグレブへの移籍がほとんど決まったそうだ。それを聞いてとてもうれしく思う。わたしはカズをとても尊敬している。芸能人的な私生活にはまったく興味はないが、サッカーへの取り組み方、どんなインタビューに対してもけっして感情をむき出しにせず、いつも立派な態度で対応する。マイクやカメラの向こうには多くのファンがいることをけっして忘れることはない。そんな姿に真のプロフェッショナルを感じていた。

 しかし、プロであるがゆえに厳しい風も吹く。チームの成績が悪い、期待どおりの活躍ができない、クラブの経営状態が悪いなどの理由で年俸が大幅に下がったり、チームを移らざるをえなくなったり、引退を余儀なくされることもある。

 カズの場合はどの理由もあてはまった。「引退?」の文字も新聞に載った。そんななかでの今回の移籍は、カズが自分が生きていくにふさわしい場所を自分で探し出したということがすばらしいと思う。心から応援したい。

 わたしもこの時期になるといろいろなことを考える。シーズンを終えて、満足のいくプレーができたか、納得できる成績だったか。

 2年ほど前から、体の限界ということを考えるようになった。1996年、30代最後の年は、体のいたるところが悲鳴をあげていた。貧血、腰痛、ヒザ痛に悩まされた。貧血は注射と薬で改善したが、腰痛とヒザの痛みは骨の変形によるもので、いろいろな治療を試したがほとんど効果がなかった。痛みが出るとろくに練習もできず、試合は緊張のためか痛みはあまり感じずにできたが、プレーは満足できるものではなかった。
 最終戦のあと「これで終わりだな」と感じた。

 しかし、やめられなかった。サッカーをやめる決心をした翌日から生き残る道を探していた。38歳で現役を引退した元ヴェルディの加藤久さんが、選手生活の晩年に「自分の体を自分の研究の実験台にしている」といった言葉が心の支えになった。

 「実験」はすぐに始まった。「開幕までの5カ月間でどれだけ筋肉をつけられるか。一シーズン乗り切れる筋力をつけられるか」というテーマだ。チームの練習のない日はかならず仕事前の1時間を筋力トレーニングの時間とした。週2、3回のスポーツクラブ通いを2カ月続けると体つきに変化が現れはじめた。シーズンの始まる4月には、前年とはまったく違う状態になっていた。シーズン中も同じペースでトレーニングを続けた。疲労感はあったが、サッカーのできる体に戻れた喜びのほうが大きかった。チームも東京都のタイトルをすべて取ることができ、その一員としてプレーできたしあわせを感じた。

 97年のシーズンの終わりは充実感と達成感があったが、この「実験」は1年間が限界だった。

 ことしも同じようにシーズンを迎えたが、すぐに筋肉のトラブルに悩まされた。ももの裏、背中、肩にいつも違和感を感じていた。多分、疲労がたまっていたのだろう。筋力トレーニングは大幅に減少せざるをえなくなり、去年の貯金を使いながらシーズンを乗り切る形になった。

 いまシーズンを終えて思うのは、これで終われるという満足感など得られないということだ。都並や同い年のラモスの引退に心は大きく動揺したが、わたしはプロでも一流選手でもない。できなくなるときは自然にやってくるのだろう。

 2、3年前までは自分の年齢や体の不調を口にすることはほとんどなかった。そうしなければ、ひとまわり以上年齢の違うチームメートと一緒にやっていくことなどできないと思っていた。いまは違う。

 「ちょっと走っただけで息が切れるので『これが年というものか』としばらくひとりで悩んだあげく医者に行ったら、ひどい貧血だった。貧血を治したらもとどおり走れるようになった」など、些細と思われるようなことも周囲の選手たちに話すようになった。わたしたちのような町のクラブには、ドクターもトレーナーもいない。そのかわり、生きた標本が役に立てればいいと思っている。

 来シーズンに向けて、筋肉の疲労をできるだけ残さないような筋力トレーニングを考えながらやっていこうと思う。さて、「実験」はうまくいくだろうか。

1998年12月11日金曜日

第13回 世界で戦う若者を見れば


12月といえばトヨタカップ。
 わたしは1981年から87年までトヨタカップに関わる仕事をしていた。とくに1982年はトヨタカップ事務局のなかで働いた。当時はトヨタカップという言葉をできるだけ多くの人に知ってもらうことが大きなテーマであり、チケットが全部売れてスタジアムが満員になることが最大の関心事だった。わたしの重要な仕事のひとつが、毎週月曜日に各プレイガイドに電話してチケットの売れ行きを調べることだった。それをグラフにして一喜一憂し、大会直前に売り切れたときは本当にうれしかった。

 当時のサッカー人気は長い低迷期にあり、日本リーグの観客動員数は1試合の平均は81年が1,812人、82年が2,157人という状況だった。そんななかトヨタカップだけは国立競技場を満員にし、スポーツ新聞の1面を飾った。「クラブチームの世界一を決める」と銘打った真剣勝負は、サッカーに興味のなかった人まで競技場に足を運ばせた。

 「トヨタカップのチケットは即日完売」となるのに何年もかからなかった。1994年の第15回大会からは真冬の平日のナイトゲームという信じられない日程になったが、それでも人気はほとんど変わらなかった。

 そしてことしはスペインからレアル・マドリードという超ビッグクラブがやってきた。ロベルト・カルロス、ラウル、イエロ、ミヤトビッチ、セードルフなど世界選抜ともいえるスター軍団だ。スターたちが噂どおりのプレーを見せ、満員の観客は大いに満足した。もちろん翌日のスポーツ新聞の1面はラウルやロベルト・カルロスに飾られた。
 ところが、サッカーの専門誌の表紙にはならなかった。毎年この時期の表紙はトヨタカップを掲げた選手たちの喜びに満ちた姿と決まっていたが、ことしは違う。中田あり、小野ありだ。

 ここのところの日本のサッカーファンは忙しかった。
 中田は、11月29日のピアチェンツァ戦で2ゴールし、そのうち1点はオーバーヘッドキックで決めた。12月5日のローマ戦は1-5で負けたが、1点をアシストし、何度か決定的なシュートを放つ活躍をした。
 タイで開催されているアジア大会は12月1日ネパール戦、3日インド戦、7日韓国戦、9日クウェート戦とU-21日本代表がフル代表を相手に堂々と戦っている。
 J1参入戦は第3代表決定戦が12月2日と5日に福岡と札幌で戦われ、死闘が繰り広げられた。

 ほとんど毎日、見逃せない試合が続いた。見ていて楽しくなる試合、誇らしい試合、手に汗握る試合、胸が痛くなるような試合。それぞれが違うサッカーだけれど、どれもがまさにサッカーなのだ。

 最近のサッカーをめぐる話題は、暗いものばかりだった。マリノス・フリューゲルス合併問題に始まり、読売の撤退や平塚の厳しい状況、そして新聞には各クラブの大量の解雇者リストが載せられる。

 各クラブの経営者たちは、この毎日の試合を見ているのだろうか。Jリーグが生んだ、Jリーグが育てた若者たちが、イタリアで世界の名だたるスターと肩を並べて活躍する姿を、アジアの王者と対等に戦っている姿を。

 もし見ていたなら、きっと思うだろう。
 「この若者たちを大切に育てて、こういう選手をどんどん生み出していこう。そうすれば、ゆくゆくはレアル・マドリードやバスコ・ダ・ガマのようなクラブになれるに違いない」

 あせることはない。どちらも100年の歴史をもつクラブなのだから。

 ことしの12月は例年になく寒い風が吹いている。しかし、熱い戦いを見せる選手たちに負けないように、わたしたちファンも熱くサポートしていきたいと思う。

1998年11月20日金曜日

第12回 都並敏史、引退はサッカー人生の序章


 11月7日土曜日、98Jリーグ第16節。第2ステージ最終節を待たずに、平塚競技場でのホームゲームを最後にプロサッカー選手としての現役を引退した。
 都並敏史、わたしがもっとも好きだった選手だ。多くのファンと同じように、相手を吹き飛ばすハードタックルや左サイドを駆け抜けるプレーに胸を躍らせ、拍手を送った。そして何より彼の人柄は魅力的だった。

 最初に会ったのは、1981年10月10日、新宿のデパートの屋上だった。デパート主催の女子のミニサッカー大会に読売クラブのほかの選手といっしょにゲストとして来ていたのだ。参加チームはわずか5、6チームの大会。昼休みのアトラクションとして、主催者が「男女日本代表対決」とかなんとか銘打って、わたしは都並と1対1をやらされた。方や押しも押されもせぬスター選手で相手にも何もならなかったが、ムキになって向かっていった。都並も手をぬかずにやってくれたのがうれしかった。大会はわたしのチームが優勝し、都並から表彰状やトロフィーを受け取った。

 半年後、スタジアムで都並を見かけたが、わたしはただのファンとして遠巻きにしていた。すると向こうから「こんにちは」とあいさつしてきた。わたしは思わずまわりを見回した。まさか自分に対してだとは思わなかったのだ。

 何度か偶然に会い、短い時間だが話す機会があった。すごく不思議なことだが、いつも長年の友人のように話ができた。スター選手という感じはまったくなく、ただのサッカー好きの少年といったふうなのだ。しかも、わたしを普通にサッカー選手仲間として扱った。

 3年ほど前、わたしのチームはあるサッカー専門誌の主催する大会に出場し、準優勝した。大会の結果とチーム写真はその専門誌のグラビアに掲載され、わたしの顔も3ミリ位の大きさで登場した。

 「大原はまだがんばっているんですね。雑誌で見ましたよ。よろしく伝えてください」

 専門誌が発売された数日後、偶然都並に会った共通の知人からこのメッセージを聞いたときは、うれしいというより本当に驚いた。10年以上会っていないということだけでなく、プロ選手が、いくら専門誌とはいえ女子のしかもローカルな大会の記事に目を通しているなんて信じられなかったのだ。

 サッカー選手としての輝かしい経歴や93年のワールドカップ最終予選のときのケガとの戦い、試合やテレビ番組などを通して見せるパーソナリティーは、だれもが知るところであり、何の説明も必要としない。

 わたしはそれ以上に、都並が抱いているサッカーに対する純粋な愛情に打たれる。
 女子であれどんなレベルであれ同じサッカーに関わる人間として、同じ高さで話をすることができる。「サッカーはどこでやってもサッカー」ということを知っている。それはとりもなおさず、この現役引退までが都並のサッカー人生の序章にすぎないということを示しているのではないだろうか。

 すでにコーチの勉強を始めていると聞く。都並はどんな選手を育てていくのだろうか、どんなチームをつくるのだろうか。

 目標であり、心の支えだった選手の引退は、わたしを動揺させ、サッカー選手を続けていくことを一歩立ち止まって考えさせたりもする。「アマチュア選手に引退はない」「生涯一選手」がわたしの持論だが、次々と現れるケガや衰えの兆候を無視することもできない。

 「引退」がけっしてサッカーからの引退でないというこれからの都並の生き方は、わたしにどんな影響を与えてくれるのだろうか。これからもファンとしてずっと見守っていきたい。