「フェアプレー個人賞はヴェルディ川崎の米山篤志」
12月11日に行われた2000Jリーグアウォーズでもっとも意外な選出だった。本人にはたいへん申し訳ないが、ほんとうに驚いた。
Jリーグはフェアプレーを推奨するために、クラブと選手個人を対象にフェアプレー賞を設けている。しかし、この賞はなかなか簡単に受賞することはできない。個人はシーズンをとおして警告も退場もない選手のなかから、選考委員によって選ばれる。
「きたないプレーをせずにボールを奪えることが技術だと思う」と話す米山が守備の選手であり、このように考えて技術を磨き練習に励み、その結果、シーズンをとおして警告も退場もないということは、ほんとうに賞賛と尊敬に値することだと思う。
クラブに対しては、退場1回につき3ポイント、警告1回につき1ポイント、出場停止1試合につき3ポイントが加算される。22ポイント以下で、そのなかでも最少のクラブがフェアプレー賞高円宮杯を受けることができる。そして、91ポイント以上にはそのポイントに応じて反則金が課される。
フェアプレー賞高円宮杯は、唯一97年にヴィッセル神戸が受賞しただけで、それに準じるとみられるフェアプレー特別賞でさえ、93年と94年にサンフレッチェ広島、98年に清水エスパルスが受賞しているにすぎない。
ことしは受賞の該当クラブはない。しかし興味深いのは、いつも反則金を払う側の横浜Fマリノスが一転して90ポイント以下のグループにはいったことだ。
よくよく見ると、警告の多少は監督に負うところが大きいことがよくわかる。スチュワート・バクスター監督は、サンフレッチェで特別賞を2回、ヴィッセルで高円宮杯を受賞している。そして、ことしマリノスを変身させたオズワルド・アルディレス監督はエスパルスで特別賞を受賞している。
「こちらに絶好のチャンスがあってドリブルで抜け出そうとしたとき、相手の意図的と思われるファウルで止められた。そのあとで、相手に同じようなチャンスがあり、こちらのDFは反則すれば止められたのだが、フェアに守って相手に突破されてしまった。その結果、試合に負けてしまったので、そのDFは『あそこは反則で止めるべきだっただろうか』と聞いてきた。私はこういいました。『いや、あれで良かったんだ。あそこで反則で止めたら、次に同じような場面になったとき、また反則で止めるだろう。イエローやレッドカードが積み重なるだけでなく、個人の技量もチームの力も進歩しない。そして、なによりもサッカーのスピリットがどんどん破壊されることになる』と」(Jリーグオフィシャルガイド1997より)
これは、バクスター監督が94年のファーストステージにサンフレッチェを率いて優勝したときの話だ。
逆に、このような精神でシーズンを戦い抜いたはずのサンフレッチェやヴィッセルは、一転してことしは反則金を払う側にまわっている。
ことしの反則ポイントが少ない順番にチームを並べると、①エスパルス、②ジュビロ、③レイソル、④パープルサンガ、⑤セレッソ、⑥FC東京、⑦ヴェルディ、⑧Fマリノス、⑨ガンバ、⑩フロンターレ、⑩ヴィッセル、⑩サンフレッチェ、⑬ジェフ、⑭グランパス、⑮アントラーズ、⑯アビスパとなる(⑨以下が反則金を支払う)。
成績とはほとんど因果関係がないことがわかるだろう。
「監督によって簡単にポイントを減らすことができる」「チームの成績とは関係がない」とすれば、Jリーグ全体で反則ポイントをもっと減らすことが可能なのではないか。制裁として反則金を課すだけではなく、Jリーグがもっと積極的に、選手一人ひとり、監督、クラブに「サッカーのスピリット」を説き、広める努力が必要なのではないだろうか。
そうすれば、新しい世紀にはもう一段階高い次元のサッカーをわたしたちは見ることになるだろう。
2000年12月22日金曜日
2000年12月8日金曜日
第57回 いつまでも寒くない
気がついたら12月になっていた。いちょうの葉は黄金色に輝いていたと思ったら、かさこそと道をならしている。12月だから寒いのは当たり前だが、急に寒くなったせいか妙に寒さが身にしみる。
「日立女子バレー部、今季限りで廃部」
久しぶりで企業の運動部廃部のニュースが新聞やテレビをにぎわした。「日立」は長い間日本の女子バレーのトップチームだった。そしてその時代に日本の女子バレーは世界に誇ることができるトップレベルのスポーツだった。それが突然廃部を発表したことが多くの人を驚かせた。
いまや企業のスポーツからの撤退は、ニュースにならないくらい日常茶飯事だ。世の中がこれだけ不景気では、企業は本業を倒さないでやっていくのが精いっぱいで、スポーツを支える余裕がない。
日立の場合は、「国内リーグで優勝もできない」「女子バレーはオリンピックに出ることもできない」などの理由で、苦労してチームをもっているメリットがないということなのだろう。
しかしたとえ景気が回復したとしても、いまのままでは「企業のスポーツが社員の士気を高めるという時代は終わった」などというひと言で、簡単にチームはつぶされてしまう。このまま企業に頼っていたら、日本のスポーツは全滅してしまうかもしれない。
Jリーグが始まったころ、バレーボールもプロ化の動きがあった。Jリーグとはまったく違うやり方ではあったが、日立の監督や選手たちは積極的にプロ化を推奨し、会社もそれに押されるように、柏レイソルの運営会社としてつくられた㈱日立スポーツにバレーの選手たちを受け入れる態勢をつくった。しかしプロ化はならず、強く唱えていた監督や選手たちはチームを離れざるをえなくなった。
わたしはこのとき、ひとつのクラブがサッカーとバレーのチームをもつ形になっていくのではと期待をもって見ていた。しかしよく考えるとそれが簡単なことではないことがすぐわかった。柏市を本拠地とするレイソルと、小平市の体育館を活動の拠点とするバレー部が同じ人たちに応援してもらうのはむずかしいことだからだ。
そしてあげくには、「日立はサッカーをとって、バレーを捨てた」と報道される始末だ。
スポーツが自立することは簡単なことではない。経済的な基盤も必要だからだ。しかし、スポーツはだれのものなのか、だれにとって必要なものなのか。見て楽しむ人、自分でやって楽しむ人、それぞれにとってなくてはならない存在なのだということが認知されれば、そのあり方は大きく変わってくるだろう。そんなに簡単に切り捨てたりはできないはずなのだ。
簡単に変わることはできない。しかし、変わっていかなければスポーツの将来はない。
Jリーグはいま、J2からJ1への昇格、J1からJ2への降格、Jリーグチャンピオンシップでの激しい戦いのなか、地域の人たちと喜び悲しみをともにしている。Jリーグがはじまって8年、完全に形になって表れているわけではないが「どこの町にもおらがチームがあり、だれもがスポーツを楽しめる環境をつくる」というJリーグがめざすものは、これからのスポーツの可能性を感じさせるものだ。そして、これから本格的に始まるサッカーくじが経済的な基盤になってくれるのではないかと期待する。
来るべき世紀が、だれもが応援する自分のチームをもち、だれもがいつでもスポーツを楽しめる環境があるような、そんな時代であることを想像していたら、いつまでも寒くはないぞと思えてきた。
「日立女子バレー部、今季限りで廃部」
久しぶりで企業の運動部廃部のニュースが新聞やテレビをにぎわした。「日立」は長い間日本の女子バレーのトップチームだった。そしてその時代に日本の女子バレーは世界に誇ることができるトップレベルのスポーツだった。それが突然廃部を発表したことが多くの人を驚かせた。
いまや企業のスポーツからの撤退は、ニュースにならないくらい日常茶飯事だ。世の中がこれだけ不景気では、企業は本業を倒さないでやっていくのが精いっぱいで、スポーツを支える余裕がない。
日立の場合は、「国内リーグで優勝もできない」「女子バレーはオリンピックに出ることもできない」などの理由で、苦労してチームをもっているメリットがないということなのだろう。
しかしたとえ景気が回復したとしても、いまのままでは「企業のスポーツが社員の士気を高めるという時代は終わった」などというひと言で、簡単にチームはつぶされてしまう。このまま企業に頼っていたら、日本のスポーツは全滅してしまうかもしれない。
Jリーグが始まったころ、バレーボールもプロ化の動きがあった。Jリーグとはまったく違うやり方ではあったが、日立の監督や選手たちは積極的にプロ化を推奨し、会社もそれに押されるように、柏レイソルの運営会社としてつくられた㈱日立スポーツにバレーの選手たちを受け入れる態勢をつくった。しかしプロ化はならず、強く唱えていた監督や選手たちはチームを離れざるをえなくなった。
わたしはこのとき、ひとつのクラブがサッカーとバレーのチームをもつ形になっていくのではと期待をもって見ていた。しかしよく考えるとそれが簡単なことではないことがすぐわかった。柏市を本拠地とするレイソルと、小平市の体育館を活動の拠点とするバレー部が同じ人たちに応援してもらうのはむずかしいことだからだ。
そしてあげくには、「日立はサッカーをとって、バレーを捨てた」と報道される始末だ。
スポーツが自立することは簡単なことではない。経済的な基盤も必要だからだ。しかし、スポーツはだれのものなのか、だれにとって必要なものなのか。見て楽しむ人、自分でやって楽しむ人、それぞれにとってなくてはならない存在なのだということが認知されれば、そのあり方は大きく変わってくるだろう。そんなに簡単に切り捨てたりはできないはずなのだ。
簡単に変わることはできない。しかし、変わっていかなければスポーツの将来はない。
Jリーグはいま、J2からJ1への昇格、J1からJ2への降格、Jリーグチャンピオンシップでの激しい戦いのなか、地域の人たちと喜び悲しみをともにしている。Jリーグがはじまって8年、完全に形になって表れているわけではないが「どこの町にもおらがチームがあり、だれもがスポーツを楽しめる環境をつくる」というJリーグがめざすものは、これからのスポーツの可能性を感じさせるものだ。そして、これから本格的に始まるサッカーくじが経済的な基盤になってくれるのではないかと期待する。
来るべき世紀が、だれもが応援する自分のチームをもち、だれもがいつでもスポーツを楽しめる環境があるような、そんな時代であることを想像していたら、いつまでも寒くはないぞと思えてきた。
2000年11月24日金曜日
第56回 「真剣な目」で戦えば
延長前半5分、土橋の目の覚めるようなミドルシュートがゴール右すみに突き刺さった。ボールをけってからゴールに至るまで1秒足らずの間、2万人の観衆は息をのんだ。次の瞬間、スタンドに、ピッチの上に、歓喜がはじけた。浦和レッズの長い長いシーズンの終わりだった。
ピッチ上ではだれかれとなく抱き合い、スタンドには紙吹雪が舞った。選手たちは、ユニホームの下にサポーターから贈られたという「PRIDE OF URAWA」と書かれたシャツを着ていた。どこから見ても感動的な光景だった。
しかし、レッズはJ1で優勝したわけでも、J2で優勝したわけでもない。J2の最終節で2位の座をようやく確保し、J1への昇格を決めたのだ。
この1年間のレッズの苦悩は意外だった。昨シーズンJ1で戦ったメンバーをほとんどそのまま残したレッズは、ほかのチームの戦力とは歴然とした差があるように思えた。一発勝負なら番狂わせもあるだろうが、どのチームとも4回ずつ当たり合計40試合を戦うリーグ戦では、ほんとうに力のあるチームが優勝することになっているからだ。
リーグ戦最中のレッズは苦しんでいた。勝てるはずの相手に勝てない。点がとれない。しかし苦しんではいたが、「どうしてだろう。なにか変だ」と首をかしげながらプレーしている感じだった。それが最終節では、必死の形相に変わった。どうしても勝つことが必要だった。引き分けでは、もう1年J2でプレーしなければならない。
結局、勝ち点差「1」がレッズと大分トリニータを天と地に分けた。
Jリーグの勝ち点は、勝ちが3、延長での勝ちが2、引き分けが1。リーグ戦とは、勝ち点を積み上げていくことだ。しかしそれが、リーグの序盤と終盤では、その価値がまったく違うもののように思える。最終節の試合の勝ち点がリーグの順位を分けているように見えてしまうのだ。
リーグ戦は、長い期間のなかでひとつひとつの試合をいかに高いモチベーションを保ちながら戦いつづけることができるか。悪いところが出たときいかに早く修正することができるか。ひいてはいかにチームとして成長できるかにかかっている。
わたしのチームもいまリーグ戦を戦っている。1回戦総当たりで、わずか9試合のリーグ戦だ。現在3戦3勝、まだまだ序盤だ。こういう試合数の少ないリーグ戦ではひとつの試合を落とすと挽回するのはなかなかむずかしい。優勝するためには、トーナメントのような緊張感も必要だ。しかし忘れてならないのは、なにがあっても最後まであきらめない姿勢だ。
わたしがJ2の最終節で見たものは、レッズの選手たちのひたむきで真剣な目だった。ただこの試合に勝つことだけを考えている表情だった。すこしきびしさが足りないわたしたちのチームも、残りの試合をこういう表情で戦うことができたら、3年ぶりのリーグ優勝も夢ではない気がした。
そして、レッズの選手たちのように、すべての試合が終わったあとに、チーム全員で心から喜びを分かち合うことができるような、そんなリーグ戦をこれから戦っていきたいと強く思った。
ピッチ上ではだれかれとなく抱き合い、スタンドには紙吹雪が舞った。選手たちは、ユニホームの下にサポーターから贈られたという「PRIDE OF URAWA」と書かれたシャツを着ていた。どこから見ても感動的な光景だった。
しかし、レッズはJ1で優勝したわけでも、J2で優勝したわけでもない。J2の最終節で2位の座をようやく確保し、J1への昇格を決めたのだ。
この1年間のレッズの苦悩は意外だった。昨シーズンJ1で戦ったメンバーをほとんどそのまま残したレッズは、ほかのチームの戦力とは歴然とした差があるように思えた。一発勝負なら番狂わせもあるだろうが、どのチームとも4回ずつ当たり合計40試合を戦うリーグ戦では、ほんとうに力のあるチームが優勝することになっているからだ。
リーグ戦最中のレッズは苦しんでいた。勝てるはずの相手に勝てない。点がとれない。しかし苦しんではいたが、「どうしてだろう。なにか変だ」と首をかしげながらプレーしている感じだった。それが最終節では、必死の形相に変わった。どうしても勝つことが必要だった。引き分けでは、もう1年J2でプレーしなければならない。
結局、勝ち点差「1」がレッズと大分トリニータを天と地に分けた。
Jリーグの勝ち点は、勝ちが3、延長での勝ちが2、引き分けが1。リーグ戦とは、勝ち点を積み上げていくことだ。しかしそれが、リーグの序盤と終盤では、その価値がまったく違うもののように思える。最終節の試合の勝ち点がリーグの順位を分けているように見えてしまうのだ。
リーグ戦は、長い期間のなかでひとつひとつの試合をいかに高いモチベーションを保ちながら戦いつづけることができるか。悪いところが出たときいかに早く修正することができるか。ひいてはいかにチームとして成長できるかにかかっている。
わたしのチームもいまリーグ戦を戦っている。1回戦総当たりで、わずか9試合のリーグ戦だ。現在3戦3勝、まだまだ序盤だ。こういう試合数の少ないリーグ戦ではひとつの試合を落とすと挽回するのはなかなかむずかしい。優勝するためには、トーナメントのような緊張感も必要だ。しかし忘れてならないのは、なにがあっても最後まであきらめない姿勢だ。
わたしがJ2の最終節で見たものは、レッズの選手たちのひたむきで真剣な目だった。ただこの試合に勝つことだけを考えている表情だった。すこしきびしさが足りないわたしたちのチームも、残りの試合をこういう表情で戦うことができたら、3年ぶりのリーグ優勝も夢ではない気がした。
そして、レッズの選手たちのように、すべての試合が終わったあとに、チーム全員で心から喜びを分かち合うことができるような、そんなリーグ戦をこれから戦っていきたいと強く思った。
2000年11月17日金曜日
第55回 頼もしい名波
「やったぁ!!」
長い長いロスタイムが終わり、審判が試合終了の笛を吹いた。新しいアジア・チャンピオンの誕生だ。大会のMVPは名波。日本代表のニュー・リーダーの誕生でもあった。
アジアカップ前の世間の期待は大きかった。
「ベスト4は当たり前」「3位以内でないとトルシエの首がとぶ」「優勝できるだろう」
1次リーグで敗退するなんて、だれも考えていないようだった。しかしわたしは、サウジアラビア、ウズベキスタン、カタールの名を聞いて、どれも簡単に勝てる相手ではないと思っていた。
オフトが日本代表の監督になって以来、まぎれもなく日本はアジアの強国のひとつになった。しかし、オフト監督のときは中東でトーナメントを戦うきびしさを、加茂監督のときは広いアジアで勝ち抜くことのむずかしさを思い知らされていた。どの国も勝てない相手ではないが、どの国にも負ける可能性があった。
しかし、今回の日本代表はほんとうに強かった。ボールをもつ技術がどの国より優れている。ボールをきちんと止めて、きちんとけれることがこんなにも試合を支配できるものなのだ。
なかでも名波のプレーは頼もしかった。名波は以前から技術の高い、うまい選手だったが、「頼もしい」と思ったのは今回が初めてだ。アジアカップ直前のJOMO CUPで久しぶりに名波のプレーを見たときは、ちょっと不安だった。プレーが途切れるたびに給水に走るさまは、90分間もつのかしらとさえ思わせた。
しかし、レバノンにはいってからの名波は、そのトリッキーなプレーではなく、運動量と体を張ったプレーでチームを引っぱった。そして、16日間で6試合というハードな日程をフル出場で戦いぬいた。名波は以前の名波ではなかった。
1年前に名波をイタリアに見送ってから、わたしたちはなかなかその姿を見ることはできなくなった。チームの事情もあったのだろう。名波の良さを生かしているとは言い難かった。プロの選手は試合に出てこそ評価される。はたしてイタリアに行った意味があったのか、わたしは疑問を抱いていた。
「イタリアにパスタを食べに行っていたわけではない」
名波に言われるまでもなく、アジアカップでのプレーを見て、わたしの疑問は解けていた。試合に出られなくてもくさることなく、チーム内の生き残りをかけて、きびしい練習を戦い抜いてきたこと。与えられたチャンスに100パーセントの力を出し切る努力をしてきたことを。それが大きく名波を成長させていたのだ。
「若い選手のいいところを引き出すようなプレーができればいいと思う」
まだ27歳、サッカー選手としてはいちばん働きざかりの年齢にもかかわらず、ずいぶん年寄りくさい言い方だ。しかしそれは、自らリーダーの器じゃないといい続けた名波が奇しくもリーダーであることを示すようなひとことだった。
このアジアカップは、オリンピック世代とその上の世代がうまくひとつのチームになれるかどうかにかかっていた。名波という新しいタイプのリーダーを得て、アジアのトップに立つことができた。
そして同時に、2002年に世界と互して戦うスタートラインに立ったのだ。
長い長いロスタイムが終わり、審判が試合終了の笛を吹いた。新しいアジア・チャンピオンの誕生だ。大会のMVPは名波。日本代表のニュー・リーダーの誕生でもあった。
アジアカップ前の世間の期待は大きかった。
「ベスト4は当たり前」「3位以内でないとトルシエの首がとぶ」「優勝できるだろう」
1次リーグで敗退するなんて、だれも考えていないようだった。しかしわたしは、サウジアラビア、ウズベキスタン、カタールの名を聞いて、どれも簡単に勝てる相手ではないと思っていた。
オフトが日本代表の監督になって以来、まぎれもなく日本はアジアの強国のひとつになった。しかし、オフト監督のときは中東でトーナメントを戦うきびしさを、加茂監督のときは広いアジアで勝ち抜くことのむずかしさを思い知らされていた。どの国も勝てない相手ではないが、どの国にも負ける可能性があった。
しかし、今回の日本代表はほんとうに強かった。ボールをもつ技術がどの国より優れている。ボールをきちんと止めて、きちんとけれることがこんなにも試合を支配できるものなのだ。
なかでも名波のプレーは頼もしかった。名波は以前から技術の高い、うまい選手だったが、「頼もしい」と思ったのは今回が初めてだ。アジアカップ直前のJOMO CUPで久しぶりに名波のプレーを見たときは、ちょっと不安だった。プレーが途切れるたびに給水に走るさまは、90分間もつのかしらとさえ思わせた。
しかし、レバノンにはいってからの名波は、そのトリッキーなプレーではなく、運動量と体を張ったプレーでチームを引っぱった。そして、16日間で6試合というハードな日程をフル出場で戦いぬいた。名波は以前の名波ではなかった。
1年前に名波をイタリアに見送ってから、わたしたちはなかなかその姿を見ることはできなくなった。チームの事情もあったのだろう。名波の良さを生かしているとは言い難かった。プロの選手は試合に出てこそ評価される。はたしてイタリアに行った意味があったのか、わたしは疑問を抱いていた。
「イタリアにパスタを食べに行っていたわけではない」
名波に言われるまでもなく、アジアカップでのプレーを見て、わたしの疑問は解けていた。試合に出られなくてもくさることなく、チーム内の生き残りをかけて、きびしい練習を戦い抜いてきたこと。与えられたチャンスに100パーセントの力を出し切る努力をしてきたことを。それが大きく名波を成長させていたのだ。
「若い選手のいいところを引き出すようなプレーができればいいと思う」
まだ27歳、サッカー選手としてはいちばん働きざかりの年齢にもかかわらず、ずいぶん年寄りくさい言い方だ。しかしそれは、自らリーダーの器じゃないといい続けた名波が奇しくもリーダーであることを示すようなひとことだった。
このアジアカップは、オリンピック世代とその上の世代がうまくひとつのチームになれるかどうかにかかっていた。名波という新しいタイプのリーダーを得て、アジアのトップに立つことができた。
そして同時に、2002年に世界と互して戦うスタートラインに立ったのだ。
2000年11月10日金曜日
第54回 四半世紀の誇り
昨年の暮れからことしにかけて、世の中はなんでもかんでも「ミレニアム」で、はしゃいできた。わたしは最初はどういう意味かもわからなかったし、わけのわからないカタカナ言葉は好きではないので、まったく無関心だった。しかし、この2000年はわたしにとって、じつに記念すべき年であった。
わたしの現在の所属チームであるFC PAFはことし20周年を迎えた。この夏、記念のイベントを行ったが、そのことはこのエッセイでも紹介した。それに加えて、わたしが最初にサッカーという競技を始めたチームである実践女子大学サッカー同好会の創立25周年記念パーティーが、先週の日曜日に行われた。
25年といえば四半世紀、なんとも歴史を感じさせる響きだ。1970年代なかばは、日本の女子サッカーの歴史においても草創期といえる。
実践には美しい芝生のグラウンドがあった。その芝生に魅せられて数人の女子学生がボールをけり始めた。逆に言えば、芝生とサッカー好きの女子学生のほかには何もなかった。更地に基礎を築き土台とし、その上に柱を立てていく。ひとつひとつの作業が必要だった。
サッカーを教えてくれるコーチを探した。ゴールの代わりにハードルを3つ並べてハンドボールのネットをかぶせた。とりあえず、それだけあれば十分練習ができた。何もないところからチームを立ち上げた情熱は上達を生み、第1回チキンフットボールリーグ(東京都のチームを中心としたリーグ)で優勝を果たした。当時はまだ、日本サッカー協会のなかに「女子」というカテゴリーがないころだった。
在学した4年の間には、2度のリーグ優勝を経験し、3年のときに日本女子サッカー連盟が発足し、4年のときには初めて全日本選手権大会が開催され、出場を果たした。わたしたちには、世の中に、少なくとも日本のサッカー界に「女子サッカー」を認知させたいという気持ちがいつもあった。そして、日本の女子サッカーを引っぱっていこうという気概に満ちていた。
こうした考え方は語り継いでいかなければならない。次代の後輩たちにきちんとした道しるべが必要だと感じていた。何度も夜遅くまでミーティングを重ねた。そのときつくった「同好会規約」の最初の項、<目的>にはこうある。
「個人の意思を尊重し、信頼から生まれる和を目指し、サッカーを楽しみながらその底辺確立に貢献すると共に、女子サッカーの頂点に立つべく努力する」
皮肉なことに、女子サッカー人口の増加に反比例するように、実践の成績は転げ落ちるように悪くなっていった。最初の10年で東京都リーグの1部から3部まで落ち、1987年に始まった関東大学リーグにおいても、5年後に2部制になってからは、ずっと2部暮らしだ。
無理もない。ほとんどが大学にはいって初めてボールをける選手で、1年ごとにメンバーが変わっていく状況では、強いチームをつくることは至難の業だ。80年代のなかばには大学チームが増え、同じような状況で切磋琢磨していくのかと思ったが、日本体育大学や東京女子体育大学など体育系の大学が、基礎体力や運動能力を発揮してあっという間に力をつけ、現在では何十人もの部員が、サッカーをするために毎年入学してくるのだという。
実践は慢性的な部員不足で、現在は4年生も含めた全部員が9人、実動人数は4、5人といったところだ。公式戦はここ1,2年内に卒業したOGの力を借りている。こんななかで、25年間続いてきたことが奇跡のように思われる。実践に未来はあるのだろうか。30周年は迎えられるのだろうか。
今回のパーティーで配られた25周年記念誌には、25人の主将それぞれが、主将だった年の思い出をつづっている。不思議なことにそれらは驚くほど似ている。真っ青な芝生の上でサッカーに明け暮れた日々、つらかった夏合宿、チーム一丸となって戦って勝ち取った勝利の喜び……。どのレベルのリーグで戦っていても、サッカーで得られる楽しさ、喜び、連帯感は変わらないのだ。
わたしがサッカーに出合ってから24年間というもの、実践での4年間とPAFでの20年間、つねに上を目指し、自分をきびしく律し、奮いたたせてサッカーに取り組んできた。それがわたしの誇りであり、喜びだった。しかし、現在の実践とPAFではチームのあり方に大きな隔たりがある。これまでのわたしには、いまの実践を認めないようなかたくなさがあったように思う。
しかし、25周年パーティーに参加し、100人の仲間が集ったなかにいて、25年間続いてきたチームの偉大さをつくづく思った。強烈なひとりの個性が引っぱってきたわけではない。毎年変わっていくチームが、バトンを受けて、落とさず、次に渡して続けてきた結果なのだ。こういうチームが日本の女子サッカーの底辺をしっかり支えているのだと思う。
来年の春にはまた、24年前のわたしのように、あの芝生のグラウンドに魅せられて、サッカーに出合う新入生がいるのだろう。
わたしの現在の所属チームであるFC PAFはことし20周年を迎えた。この夏、記念のイベントを行ったが、そのことはこのエッセイでも紹介した。それに加えて、わたしが最初にサッカーという競技を始めたチームである実践女子大学サッカー同好会の創立25周年記念パーティーが、先週の日曜日に行われた。
25年といえば四半世紀、なんとも歴史を感じさせる響きだ。1970年代なかばは、日本の女子サッカーの歴史においても草創期といえる。
実践には美しい芝生のグラウンドがあった。その芝生に魅せられて数人の女子学生がボールをけり始めた。逆に言えば、芝生とサッカー好きの女子学生のほかには何もなかった。更地に基礎を築き土台とし、その上に柱を立てていく。ひとつひとつの作業が必要だった。
サッカーを教えてくれるコーチを探した。ゴールの代わりにハードルを3つ並べてハンドボールのネットをかぶせた。とりあえず、それだけあれば十分練習ができた。何もないところからチームを立ち上げた情熱は上達を生み、第1回チキンフットボールリーグ(東京都のチームを中心としたリーグ)で優勝を果たした。当時はまだ、日本サッカー協会のなかに「女子」というカテゴリーがないころだった。
在学した4年の間には、2度のリーグ優勝を経験し、3年のときに日本女子サッカー連盟が発足し、4年のときには初めて全日本選手権大会が開催され、出場を果たした。わたしたちには、世の中に、少なくとも日本のサッカー界に「女子サッカー」を認知させたいという気持ちがいつもあった。そして、日本の女子サッカーを引っぱっていこうという気概に満ちていた。
こうした考え方は語り継いでいかなければならない。次代の後輩たちにきちんとした道しるべが必要だと感じていた。何度も夜遅くまでミーティングを重ねた。そのときつくった「同好会規約」の最初の項、<目的>にはこうある。
「個人の意思を尊重し、信頼から生まれる和を目指し、サッカーを楽しみながらその底辺確立に貢献すると共に、女子サッカーの頂点に立つべく努力する」
皮肉なことに、女子サッカー人口の増加に反比例するように、実践の成績は転げ落ちるように悪くなっていった。最初の10年で東京都リーグの1部から3部まで落ち、1987年に始まった関東大学リーグにおいても、5年後に2部制になってからは、ずっと2部暮らしだ。
無理もない。ほとんどが大学にはいって初めてボールをける選手で、1年ごとにメンバーが変わっていく状況では、強いチームをつくることは至難の業だ。80年代のなかばには大学チームが増え、同じような状況で切磋琢磨していくのかと思ったが、日本体育大学や東京女子体育大学など体育系の大学が、基礎体力や運動能力を発揮してあっという間に力をつけ、現在では何十人もの部員が、サッカーをするために毎年入学してくるのだという。
実践は慢性的な部員不足で、現在は4年生も含めた全部員が9人、実動人数は4、5人といったところだ。公式戦はここ1,2年内に卒業したOGの力を借りている。こんななかで、25年間続いてきたことが奇跡のように思われる。実践に未来はあるのだろうか。30周年は迎えられるのだろうか。
今回のパーティーで配られた25周年記念誌には、25人の主将それぞれが、主将だった年の思い出をつづっている。不思議なことにそれらは驚くほど似ている。真っ青な芝生の上でサッカーに明け暮れた日々、つらかった夏合宿、チーム一丸となって戦って勝ち取った勝利の喜び……。どのレベルのリーグで戦っていても、サッカーで得られる楽しさ、喜び、連帯感は変わらないのだ。
わたしがサッカーに出合ってから24年間というもの、実践での4年間とPAFでの20年間、つねに上を目指し、自分をきびしく律し、奮いたたせてサッカーに取り組んできた。それがわたしの誇りであり、喜びだった。しかし、現在の実践とPAFではチームのあり方に大きな隔たりがある。これまでのわたしには、いまの実践を認めないようなかたくなさがあったように思う。
しかし、25周年パーティーに参加し、100人の仲間が集ったなかにいて、25年間続いてきたチームの偉大さをつくづく思った。強烈なひとりの個性が引っぱってきたわけではない。毎年変わっていくチームが、バトンを受けて、落とさず、次に渡して続けてきた結果なのだ。こういうチームが日本の女子サッカーの底辺をしっかり支えているのだと思う。
来年の春にはまた、24年前のわたしのように、あの芝生のグラウンドに魅せられて、サッカーに出合う新入生がいるのだろう。
2000年10月13日金曜日
第53回 走るのが好き
シドニー・オリンピックが閉幕した。開会式に勝るとも劣らぬ派手な演出の閉会式は、スタジアムは満員、視聴率も高かったらしい。オリンピック好きは、なにも日本人だけではないようだ。そのオリンピックで金メダルをとるようなことにでもなれば、一躍アイドルになってしまうのも仕方ないことだろう。
わたしは、どのメダルをどの国の選手がどれだけとったかなど、まったく興味がない。いろいろな競技のオリンピックならではの高いレベルのプレー、ふだんはマイナーでオリンピックでしか見ることのできない競技などがわたしの興味の対象だ。しかし、メダルの期待の高い競技がテレビ放送も多く、そうでない競技はあまり放送されない。おのずと期待の日本選手を応援することになる。結局は、典型的なオリンピック好き日本人になってしまうのだ。
なかでも、女子マラソンの高橋尚子選手の優勝には圧倒された。オリンピック前から金メダル最有力と目され、合宿地にもマスコミが押し寄せた。プレッシャーはいかほどだっただろう。しかし、レースが始まると最初から最後まで、見るものに不安を感じさせることなくゴールのテープを切った。いままで国際舞台でこんなに安定感のある強さを見せた日本人がいただろうか。
マラソン競技というのは過酷なスポーツだ。市民ランナーならともかく、1年に何度も競技会に出られるものではない。オリンピックに出るような選手、たとえば有森裕子選手などは4年間で2度しかマラソンを走らないのではないかとさえ思えた。いちどはオリンピックに出るための選考レース、もういちどはオリンピックという具合だ。
それはマラソン競技というより「オリンピック」という競技があるのではないかと思えるほどだ。それほどオリンピックという大会には意味があるのだろう。そのオリンピックで勝つためには、多くのスタッフのもと科学的なトレーニングを受け、最新の用具を身につけ、万全の準備に時間を費やす。そしてレースですべてを使い切るのだ。すべてを使い切ったあとに残るのは、達成感かもしれないし喪失感かもしれない。とにかくしばらくは何も考えられないように見えたものだ。
「42キロを楽しむことができました」
高橋選手がレース直後のインタビューに答えた言葉だ。走り終わったあと、しかも勝ったレースのあとには、どんなかっこいい言葉もいえる。あまのじゃくなわたしは、過酷な42.195キロのレースはつらいに決まっているじゃないかと思っていた。
「次のオリンピックのことはわかりませんが、次に出るレースでは世界最高タイムをねらいたいと思います」
レースの翌日のインタビューでは、はっきりと次の目標を口にした。
「あんなに走るのが好きな子はいままで見たことがない」
「とにかく走るのが好きなんですね」
監督や専属のコーチたちが口ぐちに高橋選手のことをこう評した。高橋選手の強さの本質を見た思いがした。きれいごとでもなんでもなく、レースを心から楽しみ、走ることが本当に好きなのだ。
だれでも最初は「おもしろく」、「楽しく」、「好き」だからスポーツを始める。しかし、強くなればなるほど、それを見失ってしまうことも多い。
日本の女子サッカーはアトランタ・オリンピックには参加したが、シドニーには出場することができなかった。それは、この4年間で女子サッカーを取り巻く環境が大きく変化したからだといわれている。企業のLリーグからの撤退、外国人選手の登録禁止などで、トップレベルの選手が大量にやめてしまい、リーグのレベルが落ちてしまったのだ。
これからの女子サッカーはどうしていくべきなのか。どうあるべきなのか。そのヒントは、高橋尚子選手が教えてくれているような気がしてならない。
わたしは、どのメダルをどの国の選手がどれだけとったかなど、まったく興味がない。いろいろな競技のオリンピックならではの高いレベルのプレー、ふだんはマイナーでオリンピックでしか見ることのできない競技などがわたしの興味の対象だ。しかし、メダルの期待の高い競技がテレビ放送も多く、そうでない競技はあまり放送されない。おのずと期待の日本選手を応援することになる。結局は、典型的なオリンピック好き日本人になってしまうのだ。
なかでも、女子マラソンの高橋尚子選手の優勝には圧倒された。オリンピック前から金メダル最有力と目され、合宿地にもマスコミが押し寄せた。プレッシャーはいかほどだっただろう。しかし、レースが始まると最初から最後まで、見るものに不安を感じさせることなくゴールのテープを切った。いままで国際舞台でこんなに安定感のある強さを見せた日本人がいただろうか。
マラソン競技というのは過酷なスポーツだ。市民ランナーならともかく、1年に何度も競技会に出られるものではない。オリンピックに出るような選手、たとえば有森裕子選手などは4年間で2度しかマラソンを走らないのではないかとさえ思えた。いちどはオリンピックに出るための選考レース、もういちどはオリンピックという具合だ。
それはマラソン競技というより「オリンピック」という競技があるのではないかと思えるほどだ。それほどオリンピックという大会には意味があるのだろう。そのオリンピックで勝つためには、多くのスタッフのもと科学的なトレーニングを受け、最新の用具を身につけ、万全の準備に時間を費やす。そしてレースですべてを使い切るのだ。すべてを使い切ったあとに残るのは、達成感かもしれないし喪失感かもしれない。とにかくしばらくは何も考えられないように見えたものだ。
「42キロを楽しむことができました」
高橋選手がレース直後のインタビューに答えた言葉だ。走り終わったあと、しかも勝ったレースのあとには、どんなかっこいい言葉もいえる。あまのじゃくなわたしは、過酷な42.195キロのレースはつらいに決まっているじゃないかと思っていた。
「次のオリンピックのことはわかりませんが、次に出るレースでは世界最高タイムをねらいたいと思います」
レースの翌日のインタビューでは、はっきりと次の目標を口にした。
「あんなに走るのが好きな子はいままで見たことがない」
「とにかく走るのが好きなんですね」
監督や専属のコーチたちが口ぐちに高橋選手のことをこう評した。高橋選手の強さの本質を見た思いがした。きれいごとでもなんでもなく、レースを心から楽しみ、走ることが本当に好きなのだ。
だれでも最初は「おもしろく」、「楽しく」、「好き」だからスポーツを始める。しかし、強くなればなるほど、それを見失ってしまうことも多い。
日本の女子サッカーはアトランタ・オリンピックには参加したが、シドニーには出場することができなかった。それは、この4年間で女子サッカーを取り巻く環境が大きく変化したからだといわれている。企業のLリーグからの撤退、外国人選手の登録禁止などで、トップレベルの選手が大量にやめてしまい、リーグのレベルが落ちてしまったのだ。
これからの女子サッカーはどうしていくべきなのか。どうあるべきなのか。そのヒントは、高橋尚子選手が教えてくれているような気がしてならない。
2000年9月22日金曜日
第52回 PK失敗
「思い切りインステップで左すみにけれ!」
テレビに向かって叫んでいた。
オリンピック準々決勝対アメリカ戦、120分間の戦いは2-2で終わり、PK戦となる。どちらも3人ずつが成功させ、4人目のキッカーは中田英寿だ。
9月2日に行われたクウェートとの壮行試合、後半5分、高原が相手ペナルティーエリア内で倒されて得たPKを中田がけった。タイミングをはずすようにしてインサイドで右上をねらったキックは、GKにセーブされていた。
悲観主義者のわたしとは違い、中田の頭にはそんなことはすこしもよぎらなかっただろう。中田のキックは、迷いなくまっすぐに左すみに向かった。しかし、キーンという金属音とともにボールは左ポストに跳ね返された。
数年前、お笑いタレントがJリーグのスター選手にPKでつぎつぎと挑戦するというテレビのバラエティー番組が人気を博した。負けてもともとのタレントと勝って当たり前のプロ選手の心理的な戦いがみもので、多くの場合にタレントが勝ち、ついには南米やヨーロッパまで出かけていって世界のスーパースターに挑戦してしまった。
それは「PK対決」という新しい言葉をうみ、サッカーとは別の新しいゲームをつくった。サッカーのルールを知らなくても、ゴールとボールがあってふたりそろえば、いつでもだれでも楽しく勝負できる。多くの人にボールをけらせるきっかけになったのではないだろうか。
しかし実際の試合のなかのPKやPK戦は、多くの場合、ける選手も見ているものにとっても、胸がしめつけられるような緊張感がともなう。そして、名勝負の勝敗を決める一場面として、はっきりと脳裏に刻みこまれるのだ。
いまだに耳の奥にその音が残っているのが、86年メキシコ・ワールドカップ準々決勝、ブラジル-フランス戦のジュリオ・セザル(ブラジル)と98年フランス・ワールドカップ準々決勝、イタリア-フランス戦のディビアジョ(イタリア)だ。どちらも120分間の死闘の末にもかかわらず、もしGKが手にあてたとしてもそれを突き抜けていくような強いキックが、ジュリオ・セザルは左ポストを、ディビアジョはバーをたたいた。そしてバキーンという金属音がむなしく響いた。
ボールの軌跡が目に焼き付いているのが、同じくブラジル-フランス戦のプラティニ(フランス)と94年アメリカ・ワールドカップ決勝戦のバッジオ(イタリア)だ。120分間にわたって、チームの中心として数多くのチャンスをつくり続けたこのふたりには、もう力は残っていなかったのだろうか。ボールは信じられない軌跡を描いて同じようにバーの左上を越えていった。
中田のPKは、わたしの記憶に刻みこまれた。しかしそれは、ただはずれたPKとしてではない。先制された苦しい試合を逆転で勝った南アフリカ戦、深く守備をしかれたなかで2点をとったスロバキア戦、あとがない本気のブラジルとの真剣勝負、疲れがピークのなかでタフなアメリカと戦い、つねに先行した試合。
それらはいつでも、あのキーンと音をたてた中田のPKとともに、ベストエイトという成績を残したシドニー・オリンピックの記憶としてよみがえることだろう。
テレビに向かって叫んでいた。
オリンピック準々決勝対アメリカ戦、120分間の戦いは2-2で終わり、PK戦となる。どちらも3人ずつが成功させ、4人目のキッカーは中田英寿だ。
9月2日に行われたクウェートとの壮行試合、後半5分、高原が相手ペナルティーエリア内で倒されて得たPKを中田がけった。タイミングをはずすようにしてインサイドで右上をねらったキックは、GKにセーブされていた。
悲観主義者のわたしとは違い、中田の頭にはそんなことはすこしもよぎらなかっただろう。中田のキックは、迷いなくまっすぐに左すみに向かった。しかし、キーンという金属音とともにボールは左ポストに跳ね返された。
数年前、お笑いタレントがJリーグのスター選手にPKでつぎつぎと挑戦するというテレビのバラエティー番組が人気を博した。負けてもともとのタレントと勝って当たり前のプロ選手の心理的な戦いがみもので、多くの場合にタレントが勝ち、ついには南米やヨーロッパまで出かけていって世界のスーパースターに挑戦してしまった。
それは「PK対決」という新しい言葉をうみ、サッカーとは別の新しいゲームをつくった。サッカーのルールを知らなくても、ゴールとボールがあってふたりそろえば、いつでもだれでも楽しく勝負できる。多くの人にボールをけらせるきっかけになったのではないだろうか。
しかし実際の試合のなかのPKやPK戦は、多くの場合、ける選手も見ているものにとっても、胸がしめつけられるような緊張感がともなう。そして、名勝負の勝敗を決める一場面として、はっきりと脳裏に刻みこまれるのだ。
いまだに耳の奥にその音が残っているのが、86年メキシコ・ワールドカップ準々決勝、ブラジル-フランス戦のジュリオ・セザル(ブラジル)と98年フランス・ワールドカップ準々決勝、イタリア-フランス戦のディビアジョ(イタリア)だ。どちらも120分間の死闘の末にもかかわらず、もしGKが手にあてたとしてもそれを突き抜けていくような強いキックが、ジュリオ・セザルは左ポストを、ディビアジョはバーをたたいた。そしてバキーンという金属音がむなしく響いた。
ボールの軌跡が目に焼き付いているのが、同じくブラジル-フランス戦のプラティニ(フランス)と94年アメリカ・ワールドカップ決勝戦のバッジオ(イタリア)だ。120分間にわたって、チームの中心として数多くのチャンスをつくり続けたこのふたりには、もう力は残っていなかったのだろうか。ボールは信じられない軌跡を描いて同じようにバーの左上を越えていった。
中田のPKは、わたしの記憶に刻みこまれた。しかしそれは、ただはずれたPKとしてではない。先制された苦しい試合を逆転で勝った南アフリカ戦、深く守備をしかれたなかで2点をとったスロバキア戦、あとがない本気のブラジルとの真剣勝負、疲れがピークのなかでタフなアメリカと戦い、つねに先行した試合。
それらはいつでも、あのキーンと音をたてた中田のPKとともに、ベストエイトという成績を残したシドニー・オリンピックの記憶としてよみがえることだろう。
2000年9月8日金曜日
第51回 「金メダル」なんて言わない
「金メダルをとりたい」
国を背負ってたつというような気負いもなければ、夢物語を話すようなうつろな瞳でもない。起こりうる現実として、最高の結果を出したいというまっすぐな気持ちの表現に見えた。壮行試合を終えたオリンピック代表選手たちのコメントだ。
オリンピックというのは、不思議な大会だ。ふだんはまったく人気のないマイナーな競技でも、メダルをとると一躍ヒーローやヒロインになれる。しかし、ほとんどの場合、もてはやされるのはメダルをとったことであって、競技の内容ではない。競技そのものにはほとんど興味がないのだ。「メダルか否か」という評価だけでみる「オリンピック」という競技にさえ見える。
日本のサッカーは長い間、この大会に出ることさえかなわなかった。前回のアトランタ大会で28年ぶりの出場を果たしたとき、ファンは狂喜し、我らがオリンピック代表はどんな戦いをみせてくれるのだろうと心から期待した。
「国を代表して戦うという気はない」「世界の市場に自分自身をアピールしたい」
全員の気持ちだったとは思わないが、こういうコメントがひとり歩きしてテレビや紙面をにぎわせた。新しいタイプのオリンピック選手としてもてはやされた。
しかし結果は、ブラジルに勝利したという歴史は残したが、2勝1敗という成績で決勝トーナメントに進むことはできなかった。大会後、外国チームからオファーがきて移籍するという選手もいなかった。
今回のオリンピック代表に対するマスコミの取り上げ方は尋常ではない。今週はじめに発売された一般週刊誌2誌が、オリンピック大特集として巻頭カラーグラビア5~10ページをさいて、ほかの競技をさしおいてサッカーを取り上げている。テレビニュースや新聞でも、毎日「きょうのサッカー・オリンピック代表」と対戦相手チームの分析などを伝えている。
毎回オリンピック・アジア予選で涙をのんできたファンにしてみれば、長い間オリンピックというのはほかの競技をみる大会だった。それが、柔道や水泳などをおしのけて、期待とともに大きく取り上げられるのは、いささか居心地の悪さも感じてしまう。
しかし、いちばん冷静なのは選手たちではないか。きびしい競争のなかから選ばれた18人とバックアップ4人の選手たちには、日本中のサッカー選手の代表であるという意識がみえる。そして、時間をかけて積み上げてきたチームとしてのやり方に、いまは揺るぎない自信をもっている。
その自信が、舞い上がっているわけでなく、気負っているわけでなく、はったりを言うわけでなく、「金メダル」という言葉を言わせているのだろう。
わたしたちファンは「メダルか否か」なんてことは言わない。グループリーグの1試合1試合をどう戦うかを真剣に見ている。そして、決勝トーナメントに進んで、1試合でも多くの試合を見せてくれることを、心から期待している。
さあ、わたしたちサッカーファンのオリンピックが始まる。
国を背負ってたつというような気負いもなければ、夢物語を話すようなうつろな瞳でもない。起こりうる現実として、最高の結果を出したいというまっすぐな気持ちの表現に見えた。壮行試合を終えたオリンピック代表選手たちのコメントだ。
オリンピックというのは、不思議な大会だ。ふだんはまったく人気のないマイナーな競技でも、メダルをとると一躍ヒーローやヒロインになれる。しかし、ほとんどの場合、もてはやされるのはメダルをとったことであって、競技の内容ではない。競技そのものにはほとんど興味がないのだ。「メダルか否か」という評価だけでみる「オリンピック」という競技にさえ見える。
日本のサッカーは長い間、この大会に出ることさえかなわなかった。前回のアトランタ大会で28年ぶりの出場を果たしたとき、ファンは狂喜し、我らがオリンピック代表はどんな戦いをみせてくれるのだろうと心から期待した。
「国を代表して戦うという気はない」「世界の市場に自分自身をアピールしたい」
全員の気持ちだったとは思わないが、こういうコメントがひとり歩きしてテレビや紙面をにぎわせた。新しいタイプのオリンピック選手としてもてはやされた。
しかし結果は、ブラジルに勝利したという歴史は残したが、2勝1敗という成績で決勝トーナメントに進むことはできなかった。大会後、外国チームからオファーがきて移籍するという選手もいなかった。
今回のオリンピック代表に対するマスコミの取り上げ方は尋常ではない。今週はじめに発売された一般週刊誌2誌が、オリンピック大特集として巻頭カラーグラビア5~10ページをさいて、ほかの競技をさしおいてサッカーを取り上げている。テレビニュースや新聞でも、毎日「きょうのサッカー・オリンピック代表」と対戦相手チームの分析などを伝えている。
毎回オリンピック・アジア予選で涙をのんできたファンにしてみれば、長い間オリンピックというのはほかの競技をみる大会だった。それが、柔道や水泳などをおしのけて、期待とともに大きく取り上げられるのは、いささか居心地の悪さも感じてしまう。
しかし、いちばん冷静なのは選手たちではないか。きびしい競争のなかから選ばれた18人とバックアップ4人の選手たちには、日本中のサッカー選手の代表であるという意識がみえる。そして、時間をかけて積み上げてきたチームとしてのやり方に、いまは揺るぎない自信をもっている。
その自信が、舞い上がっているわけでなく、気負っているわけでなく、はったりを言うわけでなく、「金メダル」という言葉を言わせているのだろう。
わたしたちファンは「メダルか否か」なんてことは言わない。グループリーグの1試合1試合をどう戦うかを真剣に見ている。そして、決勝トーナメントに進んで、1試合でも多くの試合を見せてくれることを、心から期待している。
さあ、わたしたちサッカーファンのオリンピックが始まる。
2000年8月25日金曜日
第50回 20年の歩み
8月のお盆明けの土曜日、東京近郊にある芝生のグラウンドに60人以上が集まった。クラブ創立20周年を祝うためだ。わたしの所属クラブであるFC PAFは、1980年4月に実践女子大学サッカー同好会の卒業生によってつくられた。わたしは、創立メンバーのひとりである。
全国的にみても、20年以上の歴史をもつ女子チームは多くない。FC PAFは女子サッカーの歴史とともに歩んできたといっても過言ではないだろう。
唯一の創立メンバーの生き残りであるわたしは、ことしの春先にこの20周年イベントを提案し、徐々に準備をしてきた。チームに在籍した全員に案内状を送りたいと思い、昔の資料を探し始めたが、簡単な作業ではなかった。記憶だけが頼りだった。
最初の3年間は大学の卒業生だけだったので、大学の資料を参考にした。しかし、そのあとがたいへんだった。それは、チームとしての危機の時期でもあった。
毎年、仕事の都合や結婚、出産などでチームを離れるメンバーがつぎつぎと出るなか、4年目からは大学の卒業生がほとんどはいってこなくなった。最初からぎりぎりの人数で活動していたので、あっという間にメンバー不足になった。
卒業生に限らず、広くメンバーを募ったが、グラウンドもなく、監督、コーチもいないようなチームになど、なかなかはいってくる人はいなかった。当時、わたしは活発な女性とみるとだれかれかまわず「サッカーやりませんか」と声をかけた。「自衛隊の勧誘じゃないんだから」と、いわれたこともあったが、なりふりかまっている場合ではなかった。
公式戦に11人そろわないこともあった。試合の前日に電話をかけまくって、とにかく人数を集めることがいちばん大切な仕事だった。同じ大学の卒業生という仲良しグループから、練習や試合のときだけに会うチームメートへ変化していく時期だった。
そんななかでチームをやっていくことのむずかしさを痛感するとともに、このままではいけないと強く思っていた。「ただいっしょにボールをける場所」ではなく、「自分のチーム」と思えることが必要だった。
わたしは、毎月のニュースをつくって、一人ひとりに送ることにした。その月の予定と前月の活動状況や試合結果を中心に、チームの具体的な目標「全日本選手権出場をめざす」をつねに掲げ、そのために何が必要か、一人ひとりの役割やチームの規律を伝えようとしてきた。
徐々にではあるが、住む場所も生活の環境も年齢もまったく違うチームメート同士がお互いを理解し合うようになり、自分はチームの一員であるという意識が生まれた。
わたしのチームが最初の10年間でようやくクラブの土台を築いていたころ、女子サッカー界は劇的な変化をとげていた。チーム数は飛躍的に伸び、1989年には全国リーグである日本女子サッカーリーグ(Lリーグ)が始まった。Lリーグは世界中から一流選手が来てプレーし、世界最強リーグともいわれた。そのなかでレベルアップした日本選手は、91年、95年、99年ワールドカップ、96年アトランタ・オリンピックの出場を果たした。
しかし、ここ数年は登録チーム数も減少の傾向がみられる。そして、企業の撤退によりLリーグの存続が危ぶまれ、大幅に縮小したかたちでようやく2000年のLリーグが開催されている。
11年前、東京都リーグでともに戦いライバルだった3チームが、突然できた日本リーグに何の説明もなしに移っていってしまった。そのときの驚きと、置いてきぼりをくったという落胆の気持ちはいまも忘れない。しかしその後、そのうちの2チームが親会社の都合によってつぶされてしまった。
わたしたちは、20年間だれの援助も受けず自分たちの力でチームを運営してきた。シーズンのはじめに「全日本選手権出場と東京都リーグ優勝(1999/2000シーズンは関東リーグ)」を目標として掲げ、毎試合の結果に一喜一憂しながら、シーズンを終える。一見、何の進歩もない毎年の繰り返しにように思えるが、それが実はかけがえのないことなのだ。
20周年はひとつの通過点にすぎない。しかし、わたしたちは20年というクラブ歴史を手にしているのだ。これは、だれもが突然に手に入れることができるものではない。
94年から97年までPAFでプレーし、3年前にアメリカに帰国したケイが、この日のためにわざわざ休暇をとって日本を訪れるなんて、だれが想像しただろう。
当日集まった60数人が多いのか少ないのか、わたしにはわからない。ただ、現役選手、OG、その夫や子どもたち、そして監督、コーチ、参加したそれぞれが、FC PAFという大きな家族の一員であるということを実感できたしあわせな一日だった。
全国的にみても、20年以上の歴史をもつ女子チームは多くない。FC PAFは女子サッカーの歴史とともに歩んできたといっても過言ではないだろう。
唯一の創立メンバーの生き残りであるわたしは、ことしの春先にこの20周年イベントを提案し、徐々に準備をしてきた。チームに在籍した全員に案内状を送りたいと思い、昔の資料を探し始めたが、簡単な作業ではなかった。記憶だけが頼りだった。
最初の3年間は大学の卒業生だけだったので、大学の資料を参考にした。しかし、そのあとがたいへんだった。それは、チームとしての危機の時期でもあった。
毎年、仕事の都合や結婚、出産などでチームを離れるメンバーがつぎつぎと出るなか、4年目からは大学の卒業生がほとんどはいってこなくなった。最初からぎりぎりの人数で活動していたので、あっという間にメンバー不足になった。
卒業生に限らず、広くメンバーを募ったが、グラウンドもなく、監督、コーチもいないようなチームになど、なかなかはいってくる人はいなかった。当時、わたしは活発な女性とみるとだれかれかまわず「サッカーやりませんか」と声をかけた。「自衛隊の勧誘じゃないんだから」と、いわれたこともあったが、なりふりかまっている場合ではなかった。
公式戦に11人そろわないこともあった。試合の前日に電話をかけまくって、とにかく人数を集めることがいちばん大切な仕事だった。同じ大学の卒業生という仲良しグループから、練習や試合のときだけに会うチームメートへ変化していく時期だった。
そんななかでチームをやっていくことのむずかしさを痛感するとともに、このままではいけないと強く思っていた。「ただいっしょにボールをける場所」ではなく、「自分のチーム」と思えることが必要だった。
わたしは、毎月のニュースをつくって、一人ひとりに送ることにした。その月の予定と前月の活動状況や試合結果を中心に、チームの具体的な目標「全日本選手権出場をめざす」をつねに掲げ、そのために何が必要か、一人ひとりの役割やチームの規律を伝えようとしてきた。
徐々にではあるが、住む場所も生活の環境も年齢もまったく違うチームメート同士がお互いを理解し合うようになり、自分はチームの一員であるという意識が生まれた。
わたしのチームが最初の10年間でようやくクラブの土台を築いていたころ、女子サッカー界は劇的な変化をとげていた。チーム数は飛躍的に伸び、1989年には全国リーグである日本女子サッカーリーグ(Lリーグ)が始まった。Lリーグは世界中から一流選手が来てプレーし、世界最強リーグともいわれた。そのなかでレベルアップした日本選手は、91年、95年、99年ワールドカップ、96年アトランタ・オリンピックの出場を果たした。
しかし、ここ数年は登録チーム数も減少の傾向がみられる。そして、企業の撤退によりLリーグの存続が危ぶまれ、大幅に縮小したかたちでようやく2000年のLリーグが開催されている。
11年前、東京都リーグでともに戦いライバルだった3チームが、突然できた日本リーグに何の説明もなしに移っていってしまった。そのときの驚きと、置いてきぼりをくったという落胆の気持ちはいまも忘れない。しかしその後、そのうちの2チームが親会社の都合によってつぶされてしまった。
わたしたちは、20年間だれの援助も受けず自分たちの力でチームを運営してきた。シーズンのはじめに「全日本選手権出場と東京都リーグ優勝(1999/2000シーズンは関東リーグ)」を目標として掲げ、毎試合の結果に一喜一憂しながら、シーズンを終える。一見、何の進歩もない毎年の繰り返しにように思えるが、それが実はかけがえのないことなのだ。
20周年はひとつの通過点にすぎない。しかし、わたしたちは20年というクラブ歴史を手にしているのだ。これは、だれもが突然に手に入れることができるものではない。
94年から97年までPAFでプレーし、3年前にアメリカに帰国したケイが、この日のためにわざわざ休暇をとって日本を訪れるなんて、だれが想像しただろう。
当日集まった60数人が多いのか少ないのか、わたしにはわからない。ただ、現役選手、OG、その夫や子どもたち、そして監督、コーチ、参加したそれぞれが、FC PAFという大きな家族の一員であるということを実感できたしあわせな一日だった。
2000年8月18日金曜日
第49回 貧血は克服できる
お盆休みを利用して三重県伊勢市にある実家に帰った。伊勢市は伊勢神宮と赤福で有名な地方観光都市だ。と思っているのは、地元出身者だけのようで、東京では「どこ、それ?」、「赤福って、大阪の名物だよね」である。大学時代には「田舎に帰るの?」といわれて、ムッとしたものだ。東京の人には、東京以外はみんな田舎らしい。わたしにとって、田舎とは田園風景が広がる場所なのだが。
しかし久しぶりに夏に帰ると、昼間の気温は東京と変わらないのに朝晩は気温が下がり過ごしやすい。虫の声を聞きながら眠り、せみの鳴き声で目覚める生活は、やはり「田舎」なのかもしれない。
「おっ、拒食児童がめし食ってる」
朝からもりもり食べるわたしを見て、やはり横浜から来ていた20数年ぶりに会う従兄が不思議そうに言った。高校時代のわたしは、夏になるととたんに食欲が落ち、ごはんをひと粒ずつ口に運ぶような状態だったらしい。そういえば陸上部の練習の最中に倒れて病院に運ばれたこともあったっけ。
考えてみると、夏に体重が落ちなくなったのは、ここ数年のことだ。それは、わたしの貧血とのつきあいの歴史と大きくかかわっていることに気づかされる。
長い間、わたしは貧血を病気とは思っていなかった。一種のよくある体質くらいに考えていた。年に数回、練習のあと過呼吸になったり、帰りの駅のホームでめまいと過呼吸でうずくまったりしたが、どれも10数分でおさまった。帰って寝たら、翌日には何事もなかったように元気になっていた。
10年ほど前、体調が徐々に悪くなるのを感じていた。最初は疲れがとれにくくなったと感じ、だんだん動悸や息切れがひどくなっていた。ちょうど30歳を過ぎたころだったので、まず年齢のせいだと思った。しかし、駅の階段を昇るのに肩で息をしているのはわたしだけで、お年寄りが平気な顔でわたしの横を昇っていく。さすがに変だと思い、これは深刻な循環器系の病気だと、ようやく病院に出かけた。
「いちどにこの数値になったら、意識を失っていますよ」
極度の鉄欠乏性貧血でヘモグロビンの量がふつうの人の半分以下しかなかった。長い時間をかけて失われていったので、体が徐々に慣れてかろうじて生活ができていたのだろう。練習も試合もふつうにやっていたなんて、いま考えると信じられない。
近所の医者に紹介されて、総合病院の「貧血の権威」といわれる医者の診察を受けた。原因を探るために、胃や腸の検査もした。わたしがスポーツとの因果関係を聞くと、「それはない」と断言した。原因はわからないまま、薬を3カ月も飲み続けると、もとどおり元気になった。
しかし、4年前にまた兆候が表れた。こんどは年齢とも循環器系の病気とも思わなかった。当時、「スポーツ選手に多い貧血」というテーマの雑誌の記事(*)を読み、強く感じるものがあった。それには、トップアスリートの多くに貧血が認められること、そしてその原因について詳しく書かれていた。それは、ずっとわたしが知りたいと思っていたことだった。わたしは迷わずその記事を書いた医師を訪ねた。
「わたしはサッカー選手であるあなたをサポートします。いつでも相談にいらっしゃい」
Jリーグのクラブをはじめ、大学のラグビー部、野球部、陸上部など多くのチームのドクターであり、有名なプロスポーツ選手のアドバイザーでもあるその先生は、最初の診察に訪れたわたしにそう言った。この出会いがわたしのなかに大きな変革をもたらした。
検査の数値が低ければ、薬の力を借りるしかない。しかし、薬で正常値に戻した体を維持するのは、食事であり栄養だ。わたしは食事に対する態度をがらりと変えた。
うちでとる唯一の食事である朝食に重きを置くようになった。ごはんを炊き、みそ汁の具になるべく多くの野菜を入れ、海苔、しらす、納豆を食べる。それにオレンジジュースだ。昼食、夕食は弁当や外食だが、かぼちゃやブロッコリーを意識的にとるようにし、ビタミン剤なども補給する。練習後はすぐにオレンジジュースやアミノ酸をとり、疲れをなるべく残さないように気をつけている。
気がついてみると、ここ数年体重は安定し、夏バテ知らずだ。定期的に貧血の検査も受けているが、数値に変化はない。この7月に行われた大会でも、真昼の炎天下の試合が続いたが、暑さでまいるということはなかった。
わたしは気がつくのが遅かったので、長い間貧血とつきあわなければならなかった。その間にもっとサッカーがうまくなれたのにと思うとくやしい。貧血はつきあうものではなく、克服すべきものだ。しっかり取り組めば、必ず克服できる。そして、克服してしまえばサッカーがより楽しくできるのだ。
若い選手には、できるだけ早く医者に行って検査することを勧めている。そして食事がいかに大事であるかということも、ことあるごとに伝えている。なかなか、みんながみんな自分のこととして受け入れてくれないのが残念でならないのだが。
東京は残暑がきびしい。虫の声を聞きながら眠ることもかなわない。しかし、わたしはきょうも気持ちよく目覚め、汗をかきながら納豆をねり、元気のみなもとである朝食の準備をするのだ。
*ベースボール・マガジン社「サッカークリニック」1994年11月号から1996年6月号まで連載された「勝つためのスポーツ医学・栄養学」より、1996年4月号連載18「スポーツ選手に多い貧血」。
しかし久しぶりに夏に帰ると、昼間の気温は東京と変わらないのに朝晩は気温が下がり過ごしやすい。虫の声を聞きながら眠り、せみの鳴き声で目覚める生活は、やはり「田舎」なのかもしれない。
「おっ、拒食児童がめし食ってる」
朝からもりもり食べるわたしを見て、やはり横浜から来ていた20数年ぶりに会う従兄が不思議そうに言った。高校時代のわたしは、夏になるととたんに食欲が落ち、ごはんをひと粒ずつ口に運ぶような状態だったらしい。そういえば陸上部の練習の最中に倒れて病院に運ばれたこともあったっけ。
考えてみると、夏に体重が落ちなくなったのは、ここ数年のことだ。それは、わたしの貧血とのつきあいの歴史と大きくかかわっていることに気づかされる。
長い間、わたしは貧血を病気とは思っていなかった。一種のよくある体質くらいに考えていた。年に数回、練習のあと過呼吸になったり、帰りの駅のホームでめまいと過呼吸でうずくまったりしたが、どれも10数分でおさまった。帰って寝たら、翌日には何事もなかったように元気になっていた。
10年ほど前、体調が徐々に悪くなるのを感じていた。最初は疲れがとれにくくなったと感じ、だんだん動悸や息切れがひどくなっていた。ちょうど30歳を過ぎたころだったので、まず年齢のせいだと思った。しかし、駅の階段を昇るのに肩で息をしているのはわたしだけで、お年寄りが平気な顔でわたしの横を昇っていく。さすがに変だと思い、これは深刻な循環器系の病気だと、ようやく病院に出かけた。
「いちどにこの数値になったら、意識を失っていますよ」
極度の鉄欠乏性貧血でヘモグロビンの量がふつうの人の半分以下しかなかった。長い時間をかけて失われていったので、体が徐々に慣れてかろうじて生活ができていたのだろう。練習も試合もふつうにやっていたなんて、いま考えると信じられない。
近所の医者に紹介されて、総合病院の「貧血の権威」といわれる医者の診察を受けた。原因を探るために、胃や腸の検査もした。わたしがスポーツとの因果関係を聞くと、「それはない」と断言した。原因はわからないまま、薬を3カ月も飲み続けると、もとどおり元気になった。
しかし、4年前にまた兆候が表れた。こんどは年齢とも循環器系の病気とも思わなかった。当時、「スポーツ選手に多い貧血」というテーマの雑誌の記事(*)を読み、強く感じるものがあった。それには、トップアスリートの多くに貧血が認められること、そしてその原因について詳しく書かれていた。それは、ずっとわたしが知りたいと思っていたことだった。わたしは迷わずその記事を書いた医師を訪ねた。
「わたしはサッカー選手であるあなたをサポートします。いつでも相談にいらっしゃい」
Jリーグのクラブをはじめ、大学のラグビー部、野球部、陸上部など多くのチームのドクターであり、有名なプロスポーツ選手のアドバイザーでもあるその先生は、最初の診察に訪れたわたしにそう言った。この出会いがわたしのなかに大きな変革をもたらした。
検査の数値が低ければ、薬の力を借りるしかない。しかし、薬で正常値に戻した体を維持するのは、食事であり栄養だ。わたしは食事に対する態度をがらりと変えた。
うちでとる唯一の食事である朝食に重きを置くようになった。ごはんを炊き、みそ汁の具になるべく多くの野菜を入れ、海苔、しらす、納豆を食べる。それにオレンジジュースだ。昼食、夕食は弁当や外食だが、かぼちゃやブロッコリーを意識的にとるようにし、ビタミン剤なども補給する。練習後はすぐにオレンジジュースやアミノ酸をとり、疲れをなるべく残さないように気をつけている。
気がついてみると、ここ数年体重は安定し、夏バテ知らずだ。定期的に貧血の検査も受けているが、数値に変化はない。この7月に行われた大会でも、真昼の炎天下の試合が続いたが、暑さでまいるということはなかった。
わたしは気がつくのが遅かったので、長い間貧血とつきあわなければならなかった。その間にもっとサッカーがうまくなれたのにと思うとくやしい。貧血はつきあうものではなく、克服すべきものだ。しっかり取り組めば、必ず克服できる。そして、克服してしまえばサッカーがより楽しくできるのだ。
若い選手には、できるだけ早く医者に行って検査することを勧めている。そして食事がいかに大事であるかということも、ことあるごとに伝えている。なかなか、みんながみんな自分のこととして受け入れてくれないのが残念でならないのだが。
東京は残暑がきびしい。虫の声を聞きながら眠ることもかなわない。しかし、わたしはきょうも気持ちよく目覚め、汗をかきながら納豆をねり、元気のみなもとである朝食の準備をするのだ。
*ベースボール・マガジン社「サッカークリニック」1994年11月号から1996年6月号まで連載された「勝つためのスポーツ医学・栄養学」より、1996年4月号連載18「スポーツ選手に多い貧血」。
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